【第一章】目覚め(六)
そらは青い月を見た。
そしてふとあの歌を思い出し、口ずさんでみたのだ。
《月が青い夜私は夢を見た
春の訪れを知らせる鳥になって
私の心はあの場所に還る……》
意識しなくても、勝手に歌が口から飛び出していくようだった。
月が行くべき道を照らしてくれる。
自分達は間違ってなどいない。ここからでも、どこかに正解があるはず。
――探し出して。
耳元で少女の声が聞こえる。あの夜、木の宿で聞いた声と同じだ。
――早く、終わらせて……。
《月が青い夜
湖に映る光に鏡を沈め
九十三日の夜を待つ
今日は祭りの日 秋祭りの日》
鏡。
はっとしてそらは自分の荷物のなかに手をつっこんだ。がさがさと荒く探ると、かちん、と爪が固いものに触れた。
それを恐る恐る取り出す。
サフランから預かったものだ。ばらばらに割れてしまった破片を元のようにくっつけたものだった。その円の中に月が映った。それを見た時そらは、とても神々しい光を見た気がした。吸い込まれる、とも思った。
秋祭りの日から九十三日が経った。
どうしてこんな、こんな小さなことに気付かなかったのだろう。長い、長い夢から覚める心地がした。
そらは細く急な上りの道を全速力で駆け、湖の畔に戻った。
水面がキラキラと光っている。そして、おそらく今年最後であろう、遅い雪が降り始めた。
「は……、は……」
息が白い。そらが湖に隠されたものに気付いてから急に辺りが寒くなり始めたような気がした。
九十三日の夜を、今越える。
人には運命というものがいくつも用意されており、何か行動を起こす度に(何もしないことも一つの行動の種類である)その、用意された運命を選んでいく。
間違えて選んだものもあったかもしれない。まだこの手に、クロノの生きる道は、自分の生きる道は、残されているだろうか。
クロノは深い眠りについたまま、目を覚ます気配もなかった。
(いいさ……。下手に期待させたくない)
所詮は人の作った歌。迷宮神殿なんてただの幻かもしれない。
言葉はいつだって無責任で、そこに真実なんてものはそう簡単に見つけられない。
しかし正解や真実がなかったとしても自分達はそこに罪を問うことはできない。言葉を、詩を作った彼だってまた、この何百億、何千億の運命の糸に絡めとられ、身動きすら取れなくなった被害者の一人であり、詩は唯一の逃げ道であったのだから。
ただ一つだけ。もしも今、自分の手に明るい道など残されていないとしたら、一度だけでいい。
どうか、何かおかしな力が働いて奇跡が起こってほしい。
ちゃぽん――。
驚くほど呆気なく、頼りない音を残して鏡は湖の中に沈んでいった。
***
そらとクロノは、突然湖の中から現れた神殿を前に言葉を失っていた。
月光を受け、それはセピア色に輝いている。華美な装飾はないが、それがまた、この神殿の神々しさを物語っていた。
ただ黙したまま、誰かが訪ねてくるのをじっと待っているようだ。
湖畔から神殿にかけて真っ直ぐに白い橋が架かっている。
そらが先に足を踏み出した。
こつり、こつり、と夜の静けさに足音は溶けていく。
「――」
神殿に供えられていたのは、小さな袋だった。中を見てみると、灰が入っていた。
「これは……」
「いなの遺灰よ」
突然後ろから声をかけられ、そらとクロノは同時に振り返った。見ると、長い髪の少女が祈るように胸元で両手を強く組んでいる。少女の色素は薄く、それが生きている人間でないことはすぐにわかった。
「お前……」
クロノが目を見開く。
「クロノさん、知ってるんですか」
「ああ」
尋ねると、彼は先ほど見た夢の話をしてくれた。
「……じゃあ、あなたが百年前の姫……」
「琴といいます。いながこんなことになって、私も成仏できなかったの」
「俺に言った『終わらせて』という言葉は」
「その灰で、クロノを……いなを殺せるわ」
「――」
言葉を失うそらに、琴は威圧的に言った。
「いなは蘇った。ここで終わらせれば大きな脅威が一つ、減る」
「でも、クロノさんが……」
「……いなはもう、クロノの身体に深く浸食しているわ。いなの記憶さえ、彼の記憶の一部になっている」
「――」
助けを求めるようにそらはクロノを見上げたが、彼は目を伏せ、顔を横に振った。
「次にフォグ=ウェイヴが力を使えば、そのときが貴方の……いえ、クレアスとツテシフの最後だわ」
「嫌です。クロノさんの死に顔なんてまだ見たくない」
「どちらにしろ彼はいなくなるの。そして、今彼を殺せば被害はずっと少なくなる」
「嫌だっ!」
そらは腹から大きく怒鳴った。
顔を上げると、琴の顔は涙に濡れていた。
自分もまた、泣いていた。
これまでに出会ってきた大切な、かげがえのない人達の顔が浮かぶ。その中でもアンジュは特別な光を放っていた。
彼らを犠牲にしてまで、自分はこの道を貫く勇気があるだろうか。そんなものを勇気と呼ぶのだろうか。
「う……」
その、琴の口端が僅かに吊り上がった。
「そうね……。諦めるにはまだ早いかもしれない。仕事が残っているわ。二人とも」
「え……」
「今、この迷宮神殿に反応して海の中心に高い塔が出てきたの。そこに登って、そら、あなたが歌いなさい」
「俺が……」
「誰でも出来る訳じゃない。でも誰にも出来る力はある。チャンスは一回よ、そら。あなたの歌には不思議な力が宿っているわ。血筋とか、そんなものじゃない。見てきたもの、出会った人、一つ一つの経験……深いところに理由はある」
「……っ」
「成功すれば、海の騒ぎは収まるわ。そのままフォグ=ウェイヴを殺しに行きなさい」
***
湖畔に戻ると、ゆっくり神殿は沈んでいった。そらと二人でそれを見送る。
「……どこに行ってたんだ」
そらは何やら取り出し、こちらに差し出してきた。それは一枚の紙きれだった。
「ウサさんの家に、行ってました」
「……」
質問さえ許さぬであろう、そらの強い眼差しを受け、クロノは二つに折られた紙を開いた。月光が柔らかく文面を照らしてくれる。それは見慣れたウサの字だった。
「あの村は前から魔が蘇ることを恐れていたそうです。そこでウサさんなど、村の有志達がさまざまな地域に飛び、監視をしていたとか」
「じゃあ、ウサは最初から鏡のことを知って……」
「まさかクロノさんをこんな形で巻き込むことになるとは思っていなかったようですけど……読めばわかりますよ。最後のページだけもらってきました」
クロノは再び手紙に視線を向け、親指で丁寧に文字を辿り始めた。
……なんてね。本当は師範が手紙を届けてくれるなんて思っていません。遺書なんて、師範が一番嫌う類の文でしょ。
でも、本当に俺が死んだら読むくらいはしてくれるかもしれない。その可能性を考えて、この最後のページは、大好きな貴方に捧げます。大袈裟かもしれないけれど、それくらいの危険がもうすぐそこまで迫ってきているように感じるんです。
貴方にこの手紙を読む余裕があるということは、きっとあの人を止めることができたのでしょうね。
こんなことに巻き込んでしまって本当にごめんなさい。誰よりも教え子想いの貴方のことだからきっと助けてくれると、分かっていてその力を利用しました。責任は俺にあります。
でも、どうか許してください。俺だって大変だったんですから。こうでもしないと、クレアスもツテシフも終わりでしょ。それより「頑張ったな」って褒めて欲しいです。……わがままですけど。
俺のことは良い思い出として残していてください。たとえ何が起こったとしても、俺はクレアスで貴方に出会えて本当に良かったと、心から思っているのですから。可愛い後輩と、頼りになる先輩に恵まれました。そして師範は誰よりも厳しかったけれど優しかった。最後まであの調練に耐えられたのが俺の誇りです。今まで、ありがとうございました。ウサ
あの日、どこかで止まっていた時間がゆっくりと動き出す。今なら全てを受け入れられる気がした。
二度、三度と読み返した。
「……ほんと、大変なことに巻き込みやがって」
一言文句を言い手紙を閉じ、それを大切に、懐に忍ばせた。それから暫し、言葉が出なかった。
ずっと隣にいてくれたそらに向き直り、伝えきれない思いを胸にぐいと引き寄せた。
こく、とそらの唾を飲み込む音が微かに聞こえた。小さな腕で遠慮がちに抱き返してくれる。
本来頼りないはずの「口約束」が自分達を何よりも強く結び付けてきた。これを人は「絆」と呼んでいいのだろうか。
九十三日の夜が、明ける。
何か、伝えたいことは山ほどあったが、ひとつとして言葉にすることはできなかった。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回から新章です。
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