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九十三日の幻、永遠の約束  作者: 吾川あず
【第四部】王国崩壊
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【第一章】目覚め(五)

 また、あの低い呪術を唱える声が聞こえてくる。

 それはいなの感情を煽り、彼を奈落の底から引きずり出す。


 百年、苦しみ続けた。

 もういいだろう、とクロノは思う。


 しかし自分の意志とは無関係に溢れ出すこのどうしようもなくもどかしい気持ちは、止まってくれない。全身が鉛のように重かった。息をするのがやっとで、瞼を持ち上げることさえ億劫に思える。

 しかし不思議と、初めの頃のように脂汗が吹き出すほどの気持ち悪さは感じなかった。

 長い間、ぼんやりとした意識のなか、呼吸の数を数えていた。心の一室にいなが流れ込んできて、自分の感情と混ざる。

 今、自分はいなであり、いなは自分だった。いなの記憶は、此処に。


「――琴姫」


あの日、もしも彼女と一緒に逃げていたら違う未来があったかもしれない。


***


 月の青い夜、秋祭りが終わって辺りが静かになった頃、いなは城の裏からこっそり琴姫の部屋に忍び込んだ。

 本来ならば重たい窓に鍵がかかっているところだが、今夜は姫が開けておいてくれている。


「いな?」


 消え入りそうな声が聞こえて、いなは手前にあった蝋燭に火を灯し、声がした方に視線を向けた。

 金色の美しく長い髪。少し気が強そうで、きらきらと光る真っ直ぐな瞳。童顔。身長は低めで華奢な体つきだ。


「遅かったわね」

「すみません。仕事が長引きました」


 言いながら近づいていくと、琴の方からぐいと首を引き寄せた。


「姫……」


 明日からクレアスとの戦争に自分の軍も参加することになった。最初は大事にならないと思われていた小さな争いが、日ごとに大きくなり始めたのだ。次々にツテシフの軍がそちらに向かっている。


 いなは姫の幼い頃から兵として王国に忠誠を誓い、三年前にその努力が認められて騎士となった。やがて琴姫の命令で傍に仕えることが多くなり、彼女の好意を知った。

 互いに自分の幼い恋心を相手に伝えることはなかった。琴姫もいなも頭が良く、自分達の軽率な行動がどのような結果をもたらすかをよく理解していたのだ。


 しかし、今夜だけは事情が違った。

 自分はこの通り、戦争に行かなければならなくなってしまったし、その一方で琴姫に婚約を申し込んできた男がいた。彼の身分や能力からそれを断るのは難しかった。

 もちろん琴姫は最後まで渋っていたが、理由を言うことができない以上その申し出を断ることはできない。


「ねえ……おかしいと思わない?」

「何ですか」

「こんな非常時にこそ、あなたはここにいるべきでしょう。どうして戦争に行けという命令があなたに?」

「――」

「嫌な予感がするの。お願い。行かないで」


 必死の形相で袖を掴まれる。

 しかしいなは首を横に振った。命令に逆らうことなどできなかった。


「じゃあ、私を連れて今すぐ逃げて。どこか遠いところ……誰も分からないくらい、遠いところに」


 一瞬、いなは自分の耳を疑った。あの聡明で、いつだって自制を働かせてきた彼女が初めて口にした「無理」であった。

 このとき、本当に姫を連れて逃げてしまえばよかった。後に百年、このことを後悔し続けるなんてこのときのいなは思いもしない。

 いなは静かに首を横に振った。


「姫。人には決められた立場がある。その波に逆らえば世の中のものすべてが敵になりますよ」

「それでもいいわ。いなは傍にいてくれるんでしょう?」

「落ち着いてください。今は混乱されているだけです」


 そうですね、といなは続けた。


「俺が帰ってきたとき、もしも姫が今と同じ気持ちだったら。そのときはあなたを連れて地の果てへ逃げます」

「本当に?」

「必ず」


 きっとそのときには彼女の頭も冷えているだろう。そんなことをいなは考えていた。

 今にして思えば、このときの自分は命の危険を冒し彼女を連れて逃げるほど、彼女を愛していなかったのかもしれない。

 ただ静かに、彼女の恋心が見えないふりをして、彼女の気持ちを信じないふりをして、そっと身を引こうとしていた。彼女の幸せのためなんかじゃない。全ては、自分が傷つかないために。


「いなはきっと、私のことなんてどうでもいいんだわ」


 別れ際、冗談めかした彼女の言葉がやけに胸に刺さった。


 三か月後、戦争がさらに激しさを増してきたとき、いなは人づてから、姫が亡くなったことを耳にした。

 殺されたのだ。あの婚約を申し込んできた男と一緒に殺された。可哀想に、ただ、静かな暮らしを望んでいただけの彼女が権力争いに巻き込まれ、そのまま闇に葬られた。


 戦場を抜け出し、いなは駆けた。琴姫と最後に会ったあの部屋に。

 しかし、自分を待っていたあの場所はもう無かった。彼女は悟っていた。その上であんな無理を言ったのだ。否。「無理」なんかじゃなかった。あのとき姫を連れてどこか遠くに逃げていれば、こんなことにならなかった。今になって気付かされる。自分は彼女のことを心から愛していたのだと。


「ああああ……」


 明け方、慟哭の声と共に血を吐き、自分また息絶えた。


(赦さない……絶対に赦さない……)

 でも、一体誰に。……誰に怒りをぶつければ。


***


 そらは今、ウサの両親とテーブルで向かい合い、かれこれ一時間以上話し続けている。長居はしないつもりだったが、促されるまま、たくさん話してしまった。先に入れてもらった紅茶も手をつけるタイミングを見失い、すっかり冷めてしまった。


 二人とも自分が来る前に手紙を読み、息子の死を知り、涙に暮れていたらしい。ひどく疲れ切った様子であるにもかかわらず、クロノと自分の話を聞きたがった。

 そらはクロノから聞いたウサの最期を伝え、さらにクロノの長い旅を語った。ウサを死なせてしまったことをクロノはずっと後悔していると言った。


「そらさん、クレアス王国から来たと言いましたね? じゃあここら辺の土地のことをご存じないのでしょう」


 ウサの母が優しく言った。そして、ウサの手紙をそらに差し出してきた。そらはそれを受け取り、手紙を開いた。そこには誠実そうな字で、家族への思いが綴られていた。

 読み終わり、そらはウサの事情を悟った。すとんと何かが落ちていく。クロノから聞いていたウサの行動全てに合点がいった。


 この周辺の村では何年も前からいなが復活することを恐れていたこと。

 有志が集まり、各地域にいなを復活させるような動きが無いか見張っていたこと。

 ウサがその一人だったこと。


(こんなに……故郷から遠く離れて……)


 視界が滲んで読むのに時間がかかった。

 手紙を返そうとすると、ウサの母は最後の一枚をそらに握らせた。


「私も、クロノという人を恨む気持ちにはなれない。彼がこれから行く道の先に幸せがあることを願うわ……。どうかこれを彼に」


 今まで静かに涙を浮かべていた、気の弱そうなウサの父が「送ろう」と言ってくれた。

 そらとウサの父は外に出た。

 無言で歩いた。不思議と緊張することはなかったし、むしろ不器用なだけで、温かそうな人だと思った。


 森の入り口まで来て、そらは足を止めた。


「ここまでで大丈夫です」

「そうか。あの……そら。うまく言えないが……」


 彼は言葉を詰まらせ、涙を零した。


「よく、生きてくれたね……」

「え……?」

「君は覚えていないだろうが、私と君は一度、会ってるんだ。遠い昔に……。さっき君は、幼い頃の記憶を取り戻している途中だと話してくれたが、母親の名前は知っているかい」


 そらは、まさか、と思った。

 震える声で「あきづき、と聞いた気がします」と答えた。


 やっぱり、と目の前の彼は頷いた。


「すぐ分かったよ。声が母親そっくりだ。目と、髪の色も同じ、綺麗な色をしている」

「母のことを知ってるんですか」


 そらは縋るように尋ねた。


「ああ。よく知っているよ。私は秋月と長い間恋仲にあったからね……結局、最期まで一緒にいることはできなかったけれど、本当に愛していた」

「じゃあ、あなたが……」


 そらは青丹やアオイから聞いた話、そしてエメから聞いた話をそのままウサの父に話した。最後に自分の記憶にある母親のことも話した。

 話終わると、ウサの父は満足そうに言った。


「それなら、自分の記憶を一番に信じるのがいい」

「本当に……?」

「君に一度会ってると言ったね。その時、君は秋月のお腹の中にいた」


 秋月が王子と結婚して四年ほど経った頃、既に城の外では、秋月が子に恵まれないという噂が広まっていた。そんな時、自分は秋月に手紙を書いて、秋月を心配する両親の手紙の中に一緒に入れさせてもらった。

 城での生活が辛いなら戻ってきて自分と逃げよう、と。


 次の日の夜中、なんと秋月は二人信用できる城の者と共に城をこっそり抜けだし、家にやってきたのだ。そして「行けない」とはっきり言った。

 彼女は無理矢理城に連れて行かれたにもかかわらず、あの孤独な人を助けたい、と言った。これから死ぬまで彼についていくつもりだと、真っ直ぐな目をして言ったのだ。


 ここまで話して、ウサの父は目を細めた。


「秋月の名誉のために言っておくけど、私と秋月は確かに長い間恋仲で結婚の話も多少はあったかもしれないが、はっきり約束したことはなかったよ。そのままいけばいずれしたんだろうが、何しろ二人とも若すぎた。それに、もし約束をしていれば秋月は約束を必ず守ったと思う。アオイという人は話を盛っているな」

「……でも、二人は愛し合っていたんでしょう?」

「ああ。でも、城にいる四年の間に、秋月は王子に惚れたんだろうな。私の大敗だ。人の心は移り変わる。それは仕方のないこと……」


 秋月はお腹に手を当てて、身ごもっていることを伝えた。二度の流産を経て、次もどうなるか分からないと不安そうだった。でも、早く生まれてくる子が見たいと笑った。


 ――手を、当てても?

 ――いいよ。


 まだお腹の膨らみは小さかったが、それでも、確かにそこにそらは生きていた。


「彼女は君のことを生まれる前から愛していた。そして、君の父親のことも、心から愛していたんだ。それを、忘れないで」


ここまで読んで下さりありがとうございます。

更新のペースが落ちておりますが、そろそろ終わりが見えてきました……かね……?


次回は【第一章】迷宮神殿(一)です。

よろしくお願いします^^


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