【第一章】目覚め(一)
そらは夜の海を見たことがなかった。
日が暮れ始め、彼は「怖い」と思った。それは黒い渦が船をまるごと飲み込んでいくような恐怖であった。
「嫌な波だな……舵が重い」
スザクが呟く。雨になりそうだった。
「お前ら、朝にはツテシフに着くだろうから、今日はもう寝ろ」
「……子どもじゃないんだから」
「母ちゃんかよ」
ぶつぶつと文句を言いながらもそら達はすぐに眠りにつく体勢に入った。船に揺られ続けるのは想像以上に疲れることだった。
床下に広い空間があり、そこでゆっくりと休むことができた。
……二、三時間ほど眠っただろうか。不意にスザクの声で「そら」と呼ばれ、目を覚ました。
「……スザクさん?」
「悪い。クロノの様子がおかしいんだ」
「!」
嫌な予感がして、そらは飛び起きた。もうそろそろ《闇の方》が力を取り戻してもいい時期だ。彼の術でいなが現れる。
外に出ると、海は想像以上に荒れていた。
スザクの背中を追うと、暗闇のなかに赤く光る眼があった。
「いな……」
「う……そらか」
「どうしたんですか」
駆け寄ろうとすると、いなが鋭く「来るな!」と叫んだ。
「早く、歌ってくれ……俺は、お前を殺したいわけじゃない……」
それでもそらは迷うことなくいなに近づいた。
優しく肩を叩くと、一瞬、怯えるようにいなは肩を揺らした。そらは、大丈夫、と小さく唱え、小さく息を吸いこむ。
悲しい。悔しい。つらい。憎い。
……赦せない。
いなの負の感情が溢れて、こちらにまで伝わってくるように思えた。そっとその首に腕を回し、抱き寄せ、歌った。
歌っているとどこからか低く呪文を唱える声が聞こえてきた。その声もまた悲しく思えるのは、事情を深く知ってしまったからかもしれない。
「そら、海を見てみろ……」
そらは船から身体を乗り出し、息を呑んだ。
どろりとした黒い液体が船を揺らしている。舵が重い、とスザクが零した言葉が蘇った。それはまるで――血のような。
百年前に突然現れた海。もしかすると、この場で命を落とした、何百、何千、何万もの兵の血でできたのではないか。
「死者が蘇る……」
そして何度でも繰り返す。あの冬を。
そらは鼓動が早くなるのを感じた。早く誰かに知らせなければならない。そう思うのに足は固まったように動かなかった。
突然、船底が何かにぶつかり、船が大きく揺れた。
「そら、絶対に死ぬなよ……」
「いな」
「迷宮神殿まで、俺を連れていってくれ」
「……」
そらは無言で頷き、そのまま傾くクロノの身体を抱き留めた。
「そらっ、大丈夫だったかっ」
「スザクさん、海が……」
「ああ。まずいことになった」
そらはクロノの頬に冷たい手を当て、小さく名前を呼んだ。
「そら……? 今、いなが……」
「今日のいなは落ち着いていましたよ。それよりも、大変なんです。海がおかしい……」
「?」
クロノは飛び起き、そらと同じように身を乗り出してその恐ろしくうねる波を見た。
深い海は段々と水を失い、船底が地面に当たっていた。遠くから騒音がやってくる。大勢の馬の足音。人々の怒声。金属が交わる音。まるで、これから戦が始まるような……。
「こっちに来てますね……」
先ほどの揺れは何事かと、マキバ達も起きて外にやってくる。ひどく眠たげな顔をしていたが、海を見た瞬間目を見開いた。
「どうなってんだ……?」
「死んだ兵が蘇る。百年前の戦が、また始まる」
「なんで」
「《闇の方》だ……」
そらは言いながら怖くなって、毛布を頭から被った。
「まずいな。巻き込まれたら最悪だぜ。今のうちに逃げねえと……」
「今、船はどこらへんですか」
そらの問いに、スザクは地図を広げた。ちょうど、クレアスとツテシフの間だった。
「クロノ、そら。ここから歩いていけるか。どちらにしろ船はもう、動かねえ」
そらはクロノと目を合わせ、頷いた。それを確認したスザクは、こうを呼びよせた。
「こう。俺はミナトに戻る。こんなときに町長がいないと混乱するだろうからな。一緒に来てくれるか」
「いいが……足手まといになるかもしれん」
「馬鹿野郎。お前がいてくれたら、少々怪我しても平気だろうが」
「仕方ないな」
こうは少し嬉しそうに笑った。
「クロノ。帰れとは言わせねえぜ」
早速マキバがクロノに掴みかかる。まだ何も言っていないのに次の言葉が読めてしまうのだ。
クロノは一瞬戸惑いの表情を浮かべたものの、すぐに頷いた。
「……そうだな。ここまで来てくれたんだもんな」
「じゃあ俺達は行くぞ。クロノ、絶対に死ぬなよ!」
「……ああ。スザクもな」
夜明け前、追われるように彼らは船から飛び降りたのだった。
***
前からも後ろからも兵が迫ってきている。どちらかとは必ずやり合わなければならなかった。
クロノは大刀と小刀を両手に持った。そらも、海賊との戦闘用に船に積まれていた槍を拝借してきている。
最初は腰まで海に浸かっていたのだが、歩いているうちに水量は減り、やがて海はなくなった。
ひたすらツテシフに向かって走り続けていると、やがて大軍が近づいて来るのを見た。
自分達とそれが衝突するのにそう時間はかからなかった。そして彼らの姿を見た瞬間、そらは動けなかった。
死体が、動いている。
ハニが荷物の中から飛び出すのを見た。呼び止める時間もなかった。酷い騒音に巻き込まれ、そらは、己はもう死ぬんだと思った。
身体が宙に浮いた。視界が百八十度まわる。
「そらっ」
クロノの声がひどく近くで聞こえた。我に返ると、クロノは自分を脇に抱え、飛び上がっていたのだ。
「まずいな……リトと呉羽を見失った」
クロノのもう一方の腕にはユーリと狐が抱えられている。彼は器用に兵と馬の頭を蹴りながら、少し開けた場所に降り立った。
「クロノさん、あれ!」
そらは呉羽の姿を見つけ、指さした。彼女はリトを抱え、クロノと同じように屍を踏み越えながら進んでいた。
「心配なさそうだな。ほら、ぼけっとすんな、マキバ!」
リトを見失ったときから動けなくなっていたマキバにクロノが声をかける。
マキバはその言葉にはっとして地面に降り立つと、すぐに人の姿になり、鬼火を周りに集めた。
そらも次こそはと槍を構える。
こんなところで終わる訳にはいかない。ツテシフまであと少しなのだから。
「一気に渡るぞ!」
クロノの鋭い声にそら達は大きく返事をして、駆けだした。
そらはここで、クロノの恐ろしさを再確認させられる。彼の持つ二本の刃が風となり、周囲の兵が宙に舞った。一人の仕業とはとても思えない。
それにしても険しい目つきだ。刀を振るうたびに眉間の皺は深くなる。
その背後に転がり出た兵が、彼の背中に剣を突き立てようとした。
そらはその剣を槍で受け止めた。クロノが「ふはっ」と息を吐いて笑ったのが聞こえた。
「ありがとな、そら。……後ろを頼む」
クロノの背には指一本触れさせぬという意気込みでそらは頷いた。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
【第四部】が始まりました。
次回は【第一章】目覚め(二)です。




