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九十三日の幻、永遠の約束  作者: 吾川あず
【第一部】王国逃亡
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【第一章】城からの逃奔(四)



 無言で走る。


 少しでも気を抜けば、リクの背中がだんだん遠ざかっていくような気がした。


 夜の山は静かで冷たい。背の高い木がこちらを見下ろすかのように沈黙している。

 二人分の足音が深い闇の奥に吸い込まれていく。


 小降りの雨はまだ止みそうにない。


 そらは細かい飛沫を顔に浴びながら、走り続けた。


 山深いところまで来て、そらは足を止めた。

 足音が止まったことに気付いたのか、リクも走るのをやめる。振り返る。


 そらは笑みを浮かべようとしたが、既に不安さが滲み出た表情のまま、固まってしまっていた。


「リク、本当にやるのか?」


 もう一度、念を押した。声が震えた。

 二人とも人を殺したことなど無いのだ。


「そら。俺は、どうしてもリョウタの仇を取りたい。あいつが溺れたとき、俺は何もしてやれなかった」


「あの時リクは傍にいなかった」


 仕方ない、そう言おうとしてそらは言葉を止めた。


 リクは振り返らない。髪から水が滴り、肩を濡らしていく。

 そらは唇を噛んだ。


 失ってしまったものを「仕方ない」と片づけるには重すぎた。そんな一言はリクにとって、ただ、ただ残酷な意味になるだけだろう。


「リク……」


 何も言えずそらが俯いた、そのとき。


 少し遠くでガサリ、と重いものが落ちる音がした。弾かれた様にリクが走り出す。

 そらはついていくことができなかった。悪魔が怖かったのではない。人を殺すことに躊躇がなくなってしまった、リクが怖かった。自分はどこまでも弱かった。


(どうしよう……)


 もうリクの姿は見えない。


(後を追うことすらできなくなった!)


 いや、後を追ってどうするというのだ。

 リクに加勢するのか? それとも、リクを止めるか。


 足を進めれば雨が止む。

 この腕さえ動けば、リョウタの仇が取れる。来年の凶作の心配もなくなる。

 どうして加勢しないことがあろう。


 しかし、人を殺すことで、リクが、あるいは自分が、どこか違う、もっと遠いところへ行ってしまうような気がした。

 きっと帰り道はそこにない。


 しばらくの間、そらはただ茫然と立ち尽くしていた。……と、少し遠く、北の方角から何かが近づいてくる気配がした。反射的に、逃げようと、足を一歩、後ろに引く。


 同時に背後――南から走ってくる足音が聞こえた。


 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、


 運命が捻じ曲げられていく音。煩いほどに雨粒が地面を叩く。

 急に強く吹いた木枯らしが髪をすくっていく。風に、包まれる。


 ――出逢ったことを後悔するならば、今すぐ立ち去れ。


 風の声がした。


 そして、それに答える自分の声も。


「間に合ってよかった……」

 それは強い意志を持って、背後から自分の肩をつかむ。


――それでも俺は、


「お願い。行って……!」


――何度でもあなたに会いに行く


 そらが振り返った時には、もう既に影に押され、体が傾きかけているところだった。

 思わず一歩、踏み出す。


 暗闇のなか、一瞬だけ自分を押した相手の顔が見える。


「え……」


 どこかで見たことがある。そう、自分の顔。でも、彼は自分よりずっと大人びた表情をしていた。

 無造作に伸ばしていたはずの髪は一つに束ね、触れた手は硬く、少しだけたくましくなっていた。

 そしてはち切れてしまわんばかりの苦痛の表情。苦渋の決断。……切実な、想い。


「何も、怖がることなんてない。これからお前はとても……とても大切なものに出会うんだよ」


 今の自分は、こんな顔、知らない。




 背後から物音。はっとしてまた振り返ると、一人の男が木陰から出ていくところだった。

 目が合う。


「……」


 黒色の長い髪に、黒色の瞳。それは一瞬の隙もなく、そらを見つめている。


 あの、似顔絵の男だ……。

 何故だろうか、怖いという感情はなかった。男の眼が切実に助けを求めていたからかもしれないと、そう納得したのは、ずっと後のことである。


 彼は握っていた長い木棒を、そらに向けた。その長さはちょうど一メートルほど。


 そこでやっと我に返った。そう、ここで彼を殺せば、すべてが終わる。

 そらも槍を構えた。


「やろうってのか。俺と?」


 かすかに嘲笑を含んだ声。しかし、疲れているようにも聞こえた。


 そらは足を踏み込んだ。

 その瞬間、木棒と槍がぶつかり、そらの腕に衝撃が走った。


 男が足で蹴り上げようとしてきたが、そらはすぐに槍を一度収め、その場で飛んだ。


「へえ……やるじゃないか」


 低く、穏やかな声だった。

 自分は必死に戦っているというのに、随分余裕がある。


 もう一度、刃が交わる。二度目は踏ん張ることができず、その場に投げ飛ばされた。


 駄目だ、殺される!


 無我夢中で地面の土を片手いっぱいに握り、男の顔の前でそれを離した。


「っ……」


 さすがに驚いたようだ。しかし、そんなことでひるむ相手ではないらしい。彼はそらの前髪を強く掴み、顔を上げさせた。


「い、た……」


 ぐいと力を込められ、そらは思わず呻いた。


「まだ、子どもじゃねえか……」


 男が呟く。何か言い返そうとしたが、声にならなかった。


「はは……、砂かけなんて本当にするやつがいるんだ」


 低い声はそらの耳の奥まで響いてくる。


「う……」


 不意に、髪を掴む力が緩んだ。


 男がその場に倒れこんだのだ。近くに生えていた木の根元に背中を預け、苦しそうに横腹を押さえている。ひどく痛むらしい。


 今なら、殺せる。


 そらはよろよろと立ち上がり、槍を片手に男に近づいた。荒れた息を整えながら、刃を男の首元に当てる。彼はかすかに顎を上げて抵抗しようとしたが、すぐに諦めたらしい。落ち着き払った声で、一息にやれよ、と促した。


 今から殺されるとは考えられないくらい静かな目をしている。黒色の瞳が一点の光を宿し、じっと自分を見つめていた。


 自分が死ぬときこんな風に落ち着いていられるだろうか。


 固まったままのそらを見て、男は言う。


「……人を殺したこと、ないのか?」


 それはひどく優しい響きを持っていた。

 無意識にそらは槍を置いて男に近づいた。既に、彼を殺そうなんて考えはなくなっていた。後でどうなってしまうかなんて考える余裕もなく。


「お前」


 驚いたような声。気が付けば、男が起き上がっていた。


「え……」


 首を地面に押さえつけられる。濡れた地面の冷たさに体が強張った。必死に抵抗をすればするほど、先の弱弱しさが嘘のように、強い力を込められる。


 逃げようと足をばたつかせると、両膝で腰を挟まれた。


「はっ……うくっ」

 呼吸が断片的なものになる。


 しかし首を絞める手は一定の間隔を置いて緩んだ。

 それは、男がそらを殺すことに躊躇っていることを示していた。意識はだんだんと遠くなっていく。苦しくて懇願した。


「苦し……やめ……」


「悪いな……」


 男が呟いたと同時に、意識を失った。


【第一章】城からの逃奔(五)は 2017年4月18日23時 投稿予定です。

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