【第一章】城からの逃奔(四)
無言で走る。
少しでも気を抜けば、リクの背中がだんだん遠ざかっていくような気がした。
夜の山は静かで冷たい。背の高い木がこちらを見下ろすかのように沈黙している。
二人分の足音が深い闇の奥に吸い込まれていく。
小降りの雨はまだ止みそうにない。
そらは細かい飛沫を顔に浴びながら、走り続けた。
山深いところまで来て、そらは足を止めた。
足音が止まったことに気付いたのか、リクも走るのをやめる。振り返る。
そらは笑みを浮かべようとしたが、既に不安さが滲み出た表情のまま、固まってしまっていた。
「リク、本当にやるのか?」
もう一度、念を押した。声が震えた。
二人とも人を殺したことなど無いのだ。
「そら。俺は、どうしてもリョウタの仇を取りたい。あいつが溺れたとき、俺は何もしてやれなかった」
「あの時リクは傍にいなかった」
仕方ない、そう言おうとしてそらは言葉を止めた。
リクは振り返らない。髪から水が滴り、肩を濡らしていく。
そらは唇を噛んだ。
失ってしまったものを「仕方ない」と片づけるには重すぎた。そんな一言はリクにとって、ただ、ただ残酷な意味になるだけだろう。
「リク……」
何も言えずそらが俯いた、そのとき。
少し遠くでガサリ、と重いものが落ちる音がした。弾かれた様にリクが走り出す。
そらはついていくことができなかった。悪魔が怖かったのではない。人を殺すことに躊躇がなくなってしまった、リクが怖かった。自分はどこまでも弱かった。
(どうしよう……)
もうリクの姿は見えない。
(後を追うことすらできなくなった!)
いや、後を追ってどうするというのだ。
リクに加勢するのか? それとも、リクを止めるか。
足を進めれば雨が止む。
この腕さえ動けば、リョウタの仇が取れる。来年の凶作の心配もなくなる。
どうして加勢しないことがあろう。
しかし、人を殺すことで、リクが、あるいは自分が、どこか違う、もっと遠いところへ行ってしまうような気がした。
きっと帰り道はそこにない。
しばらくの間、そらはただ茫然と立ち尽くしていた。……と、少し遠く、北の方角から何かが近づいてくる気配がした。反射的に、逃げようと、足を一歩、後ろに引く。
同時に背後――南から走ってくる足音が聞こえた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、
運命が捻じ曲げられていく音。煩いほどに雨粒が地面を叩く。
急に強く吹いた木枯らしが髪をすくっていく。風に、包まれる。
――出逢ったことを後悔するならば、今すぐ立ち去れ。
風の声がした。
そして、それに答える自分の声も。
「間に合ってよかった……」
それは強い意志を持って、背後から自分の肩をつかむ。
――それでも俺は、
「お願い。行って……!」
――何度でもあなたに会いに行く
そらが振り返った時には、もう既に影に押され、体が傾きかけているところだった。
思わず一歩、踏み出す。
暗闇のなか、一瞬だけ自分を押した相手の顔が見える。
「え……」
どこかで見たことがある。そう、自分の顔。でも、彼は自分よりずっと大人びた表情をしていた。
無造作に伸ばしていたはずの髪は一つに束ね、触れた手は硬く、少しだけたくましくなっていた。
そしてはち切れてしまわんばかりの苦痛の表情。苦渋の決断。……切実な、想い。
「何も、怖がることなんてない。これからお前はとても……とても大切なものに出会うんだよ」
今の自分は、こんな顔、知らない。
背後から物音。はっとしてまた振り返ると、一人の男が木陰から出ていくところだった。
目が合う。
「……」
黒色の長い髪に、黒色の瞳。それは一瞬の隙もなく、そらを見つめている。
あの、似顔絵の男だ……。
何故だろうか、怖いという感情はなかった。男の眼が切実に助けを求めていたからかもしれないと、そう納得したのは、ずっと後のことである。
彼は握っていた長い木棒を、そらに向けた。その長さはちょうど一メートルほど。
そこでやっと我に返った。そう、ここで彼を殺せば、すべてが終わる。
そらも槍を構えた。
「やろうってのか。俺と?」
かすかに嘲笑を含んだ声。しかし、疲れているようにも聞こえた。
そらは足を踏み込んだ。
その瞬間、木棒と槍がぶつかり、そらの腕に衝撃が走った。
男が足で蹴り上げようとしてきたが、そらはすぐに槍を一度収め、その場で飛んだ。
「へえ……やるじゃないか」
低く、穏やかな声だった。
自分は必死に戦っているというのに、随分余裕がある。
もう一度、刃が交わる。二度目は踏ん張ることができず、その場に投げ飛ばされた。
駄目だ、殺される!
無我夢中で地面の土を片手いっぱいに握り、男の顔の前でそれを離した。
「っ……」
さすがに驚いたようだ。しかし、そんなことでひるむ相手ではないらしい。彼はそらの前髪を強く掴み、顔を上げさせた。
「い、た……」
ぐいと力を込められ、そらは思わず呻いた。
「まだ、子どもじゃねえか……」
男が呟く。何か言い返そうとしたが、声にならなかった。
「はは……、砂かけなんて本当にするやつがいるんだ」
低い声はそらの耳の奥まで響いてくる。
「う……」
不意に、髪を掴む力が緩んだ。
男がその場に倒れこんだのだ。近くに生えていた木の根元に背中を預け、苦しそうに横腹を押さえている。ひどく痛むらしい。
今なら、殺せる。
そらはよろよろと立ち上がり、槍を片手に男に近づいた。荒れた息を整えながら、刃を男の首元に当てる。彼はかすかに顎を上げて抵抗しようとしたが、すぐに諦めたらしい。落ち着き払った声で、一息にやれよ、と促した。
今から殺されるとは考えられないくらい静かな目をしている。黒色の瞳が一点の光を宿し、じっと自分を見つめていた。
自分が死ぬときこんな風に落ち着いていられるだろうか。
固まったままのそらを見て、男は言う。
「……人を殺したこと、ないのか?」
それはひどく優しい響きを持っていた。
無意識にそらは槍を置いて男に近づいた。既に、彼を殺そうなんて考えはなくなっていた。後でどうなってしまうかなんて考える余裕もなく。
「お前」
驚いたような声。気が付けば、男が起き上がっていた。
「え……」
首を地面に押さえつけられる。濡れた地面の冷たさに体が強張った。必死に抵抗をすればするほど、先の弱弱しさが嘘のように、強い力を込められる。
逃げようと足をばたつかせると、両膝で腰を挟まれた。
「はっ……うくっ」
呼吸が断片的なものになる。
しかし首を絞める手は一定の間隔を置いて緩んだ。
それは、男がそらを殺すことに躊躇っていることを示していた。意識はだんだんと遠くなっていく。苦しくて懇願した。
「苦し……やめ……」
「悪いな……」
男が呟いたと同時に、意識を失った。
【第一章】城からの逃奔(五)は 2017年4月18日23時 投稿予定です。