【第二章】繋がる歌(五)
海の方からごうごうと風の音が追ってきて、早く行け、早く行け、と自分を急かす。その上雨がぽつりぽつりと降りはじめ、嫌な天気になってきた。
数日前、診療所を飛び出したサフランは城に向かって足場の悪い山道を走り続けていた。
(コガレ……!)
覚悟を決めてきたはずだ。それでも失うのが怖かった。
道中、雨に紛れて前からやってくる者達があった。
《濡烏》のトップ集団だ。彼らは自分一人の存在など気にも留めずそのままミナトの方角へ向かっていく。
すれ違った瞬間知った顔を見つけ、サフランはその後姿に声をかけた。
「レイ!」
先頭にいた男が足を止め振り返る。
「……サフラン」
「ミナトに行くのか」
「……」
黙しているところを見ると、図星らしい。彼は自分と同じくクロノの教え子であった。
落ちこぼれた自分達とは違い、あの試験で好成績を取った彼は王国一の暗殺部隊《濡烏》の一員として王国のために働いている。
「……遅かったじゃないか」
「王国から裏切り者が多数現れたと聞いてた。フォグ=ウェイヴ様から指示を仰いでいたのさ」
「……」
自分達のことか。それともエレミスやシトラのことか。
王国が敵か味方かじゃない。
そんなこと、信じるべきものが分からなくなってきた今となっては、どちらでも良いことだった。
《闇の方》を倒すか倒さないか。
この人の世をを守れるか守れないか。
自分達は死ぬか死なないか。
問題はもうすぐそこまで迫ってきている。
「行ってどうするつもりだ」
「クロノを生かしたまま捕えてこいと言われている」
ああ、ついに動き出したんだ、あの方は。
止めるために生まれてきた。俺もコガレも、ビャクも。
「どうして刃を向けるんだ? サフラン」
「……《闇の方》の思い通りにはさせない」
「成程」
「レイ、お願いだ。止まってくれ」
「……」
レイは答えず、腰に差していた短剣を抜いた。
《濡烏》に入ると人の心を失うと聞く。レイは元々、こんな風に冷たい眼をしていなかった。もっと優しい……皆の兄のような人だった。
皆、人を殺すとこうも変わっていってしまうのか。
(自分も人のこと、言えないけど)
寂しいなんて思わない。生まれた時と場所を間違えただけ。
今はこの運命を静かに受け入れたい。
そのためには、目の前にいる濁った眼の男を殺すことさえ厭わない。
相手は五人。そして王国の軍のなかでもトップをゆく暗殺部隊だ。
「……」
じりじりと詰め寄られ、サフランは息を呑んだ。
(戻りたい……)
ふと、そんなことを思った。
クロノがいて、たくさんの仲間達がいて、コガレとビャクがいつも喧嘩していた――あの日々に、戻りたい。
ビャクは死んだ。
コガレももう、隣にいない。
いない……
いっそう風が強くなり、思わず目を瞑った。塵が入ったのだ。
もうすぐそこにレイが迫ってきているかもしれない。不思議と静かな気持ちだった。
細く目を開けて状況を確認した。
すると、見慣れた背中が目の前にあった。
深い青色の髪が風に揺れる。きびしい雨に打たれるそれは、まるで冬の海のようだった。
「コガレ……」
「遅くなって悪かった」
こみ上げてくる嗚咽をなんとか飲み込み、サフランは腕で顔を拭った。
立ち上がり、背中を合わせた時の安堵感。
二人ならどこまでだって行ける。
***
セキはエレミスに連れられクロノと会話を交わした後、《濡烏》を探すため、すぐに診療所を出た。
自分もまだ下っ端ではあるが《濡烏》の一員である。この事情を知らせれば、悪魔狩りを止めてくれるかもしれないと思った。
あくまで可能性の話である。
《濡烏》の隊長であるレイにとって王国の命令は絶対だった。非道なこともやってのける暗殺部隊だからこそ、上の命令だから、という理由が必要だったのだ。
自分が何か言ったところで、きっと彼は進み続けるだろう。それでも自分には知らせる義務があった。
《濡烏》が今どこにいるのかさえ見当がつかず彷徨っていたが、ある道で戦闘している気配があり、セキはそちらに向かった。
雨の勢いはどんどん激しくなり、地面を叩く音が自分の足音さえかき消してくれるようだった。
その中で、一際大きく、高い金属音が鳴り響いた。
セキが近くまで辿り着くと《濡烏》の隊長格五人が珍しく苦戦しているようだった。
相手はサフランという男と、もう一人――見知らぬ男だった。
また、診療所では結局サフランとも会話を交わせぬままだった。
暗い青色の髪の男が隊長のレイを押している。
レイが負けそうになっているのを見たのは初めてだった。
相手の男は怪我をしたのか腹から血が滲んでいる。そこを懸命に庇いながらレイに挑みかかる。
サフランと一緒にいることから考えると彼は王国の関係者でありながら王国を裏切った、いわゆる、こちら側の人間だろう。
見ていられなくなり、セキは飛び出した。
「隊長!」
叫びながらレイとコガレの間に立つ。
「今は仲間同士でやり合ってる場合じゃありません」
「お前……どこに行ったのかと思ったら」
「俺達、何のために戦ってるんですか。王国を守るためですよね」
「セキ!」
サフランが怒鳴る。診療所で見かけた彼はとても穏やかな雰囲気だったが、今は切羽詰まったような瞳をこちらに向けていた。
自分だって、何かの役に立ちたい。
「この王国が何かおかしいの、気づかないんですか……。確かに《濡烏》をはじめとする多くの軍が上の命令は絶対だと考えています。でも、だからって、信じていいものと悪いものの区別ができないのはおかしい」
その瞬間、体が傾いた。
レイは背筋が凍り付くほど冷たい表情をしていた。どこか自分を憐れむような眼。
視界が赤く染まる。首筋が熱い。熱い。熱い……!
精一杯生きた。でもやっぱり。やっぱり救われなかった。
ろくなもんじゃない。生きることなんて、ろくなもんじゃない……!
「お前……っ」
後ろから自分を抱き留めた体は雨に濡れてひどく冷たかった。
雨と涙と汗と血でぐちゃぐちゃになった目元を、コガレという男の冷たい手が覆う。
「よく、頑張ったな。あとは任せろ」
呼吸ができない。悔しくて声にならない悲鳴をあげた。
どうして伝わらないんだ――?
視界が白に染まる。
「お前は自分を貫いたんだ。誇っていい」
それを誇りにしてゆけ……!
ぷつん、と意識が途切れた。
***
コガレの中で何かが切れた感覚があった。この感じを自分は知っていた。考えるより先に足が動く。
雨と血で濡れた刃を握りなおし、レイに切りかかった。
同じ学び舎で育ったというだけで、自分は何を期待していたのだろう。
あの時、この鳶色の髪の少年の言葉で目を覚ましてくれると、心のどこかで安堵した自分がいた。しかし突きつけられた現実は、どこまでもがいても先には闇しかないことをコガレに教えた。
「コガレッ!」
悲痛な叫び声は雨音に吸い込まれ、地面に転がった死体もいつかは腐り土に還る。
返り血を腕で拭い、サフランは少し遠くに立つコガレに視線を向けた。彼の足元にセキの亡骸があった。
「……コガレ」
声をかけた途端、目の前で彼の膝が折れ、そのまま地面に崩れ落ちた。
「コガレ!」
傷口が開いたらしい。
泥水に混ざる朱を見て、サフランは絶望した。
サフランはコガレを背負い、雨の中を駆けた。来る途中、古寺があったのを思い出したのだ。とにかくそこで嵐をしのごうと思った。
ぬかるみに足を滑らせながらサフランは走り続けた。向かい風は強く、頬を打つ雨はひたすらに冷たい。呼吸もままならず、喉はひりひりと痛んだ。
やっとの思いで辿り着いた古寺は、柱が曲がり色は削げ落ち、今にも恐ろしい化け物が飛び出してきそうだった。
しかし躊躇する間などなかった。どんな魑魅魍魎が現れたとしても、今更怖いとは思わない。
埃を被った床に自分の上着をひき、そこにコガレを下ろした。
腹から血を流している。先程刺されたところを見なかったから、前に受けた傷が開いたのかもしれない。
「コガレ、コガレ」
呼びかけるが、苦し気な呼吸が返ってくるだけで、いつもの憎まれ口も聞こえない。
「どうしたらいい……?」
コガレにはこちらの声など聞こえていないらしく、黙ったまま額に脂汗を浮かべている。ぞっとするほど顔色が悪い。
「コガレ……ねえ、コガレ?」
呼吸が早くなる。心臓がばくばくと音を立てて、自分自身を急かした。
「コガレっ!」
「……くびの、うしろ」
強く呼ばれた瞬間、魘されるようにコガレは呟いた。閉じられた眼から一粒涙が零れ落ちる。それは悲しみか、痛みか。それとも。
サフランはコガレの首の後ろにそっと触れた。襟に何か、縫い付けられている。
薬の包みである。
サフランは縋るようにその包みを広げた。
優しく、整った文字が瞳に映った瞬間、涙がどっと溢れ出した。
(そら……っ!)
そこには、もしも傷が開いたらどうすればいいか、同封されていた薬の使い方と共に細かく記されていた。
迷いながら書いたのか、最後の行はインクが滲んでいた。
――サフランに必ず追いついて。
「そらっ……」
薬の包みを握りしめ、拝むように自分の額に押しつけた。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回は【第三章】懺悔の歌(一)です。
よろしくお願いします。




