【第二章】繋がる歌(一)
先を急ぐつもりだった。自分達に十分な時間が無いのも分かっていた。
診療所の近くに小さな教会があって、そこからいつも子ども達の遊んでいる声が聞こえていた。
何てことない、エレム村の子ども達と同様、高い声で騒ぐ子ども達。
クロノの看病をしながら、そらはよくその声に耳を澄ませていた。
そしてクロノの傷が大方塞がり、思いを重ねた夜は明け――。
どこか気怠さの残る心地良さを感じながらそらは目を覚ました。
クロノは既に起きてどこかへ行ってしまっていた。少し前に「そろそろ起きろ」と声をかけられたような気がするが、あまり覚えていない。
「……」
そらは起き上ってまず窓を大きく開けた。篭った空気が入れ替わっていく朝のこの感じが好きだ。
クロノの残した温もりだけは逃がさぬよう、そらは毛布を頭から被りじっとベッドに座って空気が入れ替わるのを待っていた。
こうしていると昨晩のことが思い出されて仕方なかった。自分がどれほど頑張っても絶対に敵わないであろう鍛え抜かれた身体。耳元で囁く熱のこもった声。……欲情に濡れた瞳。訳が分からぬまま何度も好きだと告げた。
(正確には言わされたんだけど……)
(どうしよ……クロノさんに会ったらどんな顔すればいいんだろ)
冷めるどころか、ますますクロノのことで頭がいっぱいになっている。
このままでは壊れる。自分はあまりに彼のことを好きになりすぎた。
ずっと悩んでいるわけにもいかず、服を着替えていると、リクが部屋にやってきた。
「そら? そろそろ朝飯片づけられるぞ」
「え、やばっ……」
慌てて窓を閉めようとして――そらはその手を止めた。
教会の方から男の大声が聞こえてきたのだ。
「言ったはずだ。異民族は出ていけと」
「でもここを出たら私達には行く場所がありません。ここだけが私達の居場所なんです」
「市長はそんなことを許していない!」
「でも……っ」
そらもリクも固まったまま、その声を聞いている。
そのとき、窓が勢いよく閉められた。顔を上げると、いつの間に入ってきていたのか、スザクが難しい顔をして隣に立っていた。
「……あんまり面倒なことには首をつっこむな。聞かなかったことにしろ」
「スザクさん、町長じゃ……」
「市には逆らえねえ。奴らも嫌がらせで来てるだけだ。すぐに帰る」
扉の前ではクロノが腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
そらは朝食を食べながら、スザクとクロノの会話を聞いていた。
リト達が、作った朝食をそらの分も残してくれていた。大きめのおにぎりが二つと味噌汁、そして目玉焼き。
スザクとクロノは既に食べ終わったらしく、茶を飲みながらそらの前で話している。
リクは湯を沸かすふりをしてその場にずっと残っている。
「船はもう出せるぞ」
「じゃあ、今日の午後か、明日くらいに出発したい」
「ああ。そらもそれで大丈夫か」
スザクの問いかけに、そらはすぐ答えられなかった。
そらとリクの曇った表情を見て、クロノが溜め息をつく。湯呑をテーブルに置いて、黒色の瞳をこちらに向けた。
「……さすがにお前らがどうにかできるような問題じゃないの、分かるだろう。時間を割くのはいいけど、それでお前らが傷つくのは見たくない」
「……」
押し黙っていると、クロノは溜め息をつき、大きく伸びをした。
「あーあ……仕方ねえな。スザク、後でそらとリク連れて教会に行ってもいいか」
クロノの言葉にそらは顔を上げた。
「クロノさん……」
「まあ……止めても聞かねえだろうし。スザク、詳しい話、聞かせてもらえる?」
「それはいいが、町の権力を使っても無駄だった。かなり難しいと思う」
「一体どういう状況なんだ?」
「……」
今でこそミナトの町はクレアス王国の領地とされているが、百年前――戦争が起こる前はクレアス王国とツテシフの共存都市というひどく曖昧な場所であった。
ツテシフの人間は少なくなっているが、それでも昔からここに住んでいるツテシフの人達がいる。
この診療所がある辺りは、そのような人々が多く暮らしていた。
「それで、そこの教会は学校としてツテシフ出身の子ども達を集めてるんだ」
「町ではやっぱり孤立してるんですか」
「一応あからさまな差別行為は俺の代で禁止にしたが遅かったな。百年近く掘られ続けた溝を埋めるようなものだ」
「教会にクレアスの子どもは?」
「いないな。学校は別にある」
「……」
他民族のことを気にする機会など、今までなかった。
「せめてミナトの中だけでもこの状況を改善できればなあ……」
スザクがそう零したのを、そらは聞き逃さなかった。
***
「え、そら達教会に行くの?」
久しぶりに外へ行く準備をしていると市場から戻ってきたリトと呉羽が丁度帰ってきた。
そらの話を聞いた二人が顔を見合わせる。そしてリトの丸い瞳がこちらに向いた。
「わ、私達も一緒に行っていい?」
そういえば、呉羽とリトはいつの間に仲良くなったのだろう。この二人の間にもその深い溝はあったのだろうか。リトがその溝を飛び越えて、呉羽がその手を取った。
(二人はきっと、特別だ……)
皆がそんな風にうまくはいかない。それでも、二人のような一欠けらの奇跡にかけてみたかった。
四人の保護者としてクロノも一緒に教会についてきてくれた。あの洋館の一件で自分とリトの二人がどれほど頼りないか証明されているし、そこに口だけ達者な呉羽が加わったところで、なんら変わりがないことも知っている。リクだってそらと同じくらい頼りないという認識だろう。
教会の周りで遊ぶ子ども達からは、早朝の不穏な空気は感じられない。
「やっほー、今日は何やってんの」
リトが率先して話しかけに行く。
「えっ、知り合い?」
「まあね。最近よく遊びにきてたの」
そらと呉羽の会話を聞き、クロノが苦笑いを浮かべている。
まさかこの二人に先を行かれていたとは。
リトは子ども達と短い会話を交わし、ためらいもせず教会の中に入っていった。
一階建ての小さな教会だった。正面の屋根から埃を被った天使の彫像が時計を持ってこちらを見下ろしている。それはどこか寂し気で。
暫くしてリトが一人の女の人を中から連れ出してきた。黒と白の服を身にまとったシスターである。
リトが手招きするのを見て、そら達はここぞとばかりに駆け寄った。
「こんにちは。そこの診療所でお世話になっている者です」
「どうも」
シスターは内気そうに笑い、ぺこりと頭を下げた。
「私はここの教会の責任者です。リトさんと呉羽さんが最近よく遊びに来てくれて……あ、お茶入れますね。良かったら上っていってください」
聖堂の奥は応接間になっていて、まだその奥にもいくつかの部屋があるようだった。
決して豪華ではないが、きちんと整えられた応接間に通される。
そら、クロノ、そしてリクの三人は並んで長椅子に座り、その両側にある椅子に呉羽とリトが座った。
紅茶の香りと共にシスターが戻ってくる。
その後ろから小さなお嬢さんが茶菓子を持ってついてきていた。
「いちごよ。よく手伝ってくれるの。すごく大人しいんだけどね」
「そらです。よろしくね、いちごちゃん」
そらが笑いかけると、驚いたのかいちごは走って部屋の外へ行ってしまった。
「あちゃ……」
そらが俯くと、隣でリクが笑い、耳打ちしてきた。
「覚えてないの? エレム村のあいつらも最初、そらのこと怖がって避けてたじゃん」
「……そうだっけ」
「あのときは今より人付き合い苦手そうだったしなあ」
ようやく思い出し、そらは目を細めた。
「懐かしいな……」
「ちょっと、二人でセンチメンタルにならないでよ」
呉羽の苛立った声に、そらとリクは顔を見合わせて笑った。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回は【第二章】繋がる歌(二)です。
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