【第六章】離れる手(二)
口の中で叫ぶが、クロノの大きな手は声を出すことすら許してくれない。
やがて、馬に乗って駆けてきたのは、亜麻色の髪にエメラルド色の瞳をした男だった。確か、治安部隊の隊長だった男だ。
名を――シトラ、といった気がする。
「てめえ……やっぱり」
彼はクロノに向けて銃を構えた。
「そらっ!」
リクの声。
驚いて目を見開くと、何だか懐かしい顔が見えた。
クロノの腕に力が籠る。
「……撃つなよ。殺すぞ」
首にかかっている手は、どうやら刀を持っているらしい。刃先が光ったのを見た。
――違う!
口を塞ぐ手をのけようと、そらは必死に両手で引いた。しかし彼の手は石のように動かない。
じり……、と周りの者が近づいて来る。それを見たクロノが再び舌打ちをした。
「お前らが来たかよ。皮肉なもんだな……」
その声はひどく温かく感じられた。
「……」
「そらを離せ」
シトラが言う。構えた銃は決して下ろそうとしない。
(あっ……)
シトラの目線が、ずれた。
後ろだ。後ろからクロノを狙っている者がいるらしい。
クロノは気づかないのか。
(クロノさんっ……)
気持ち口を押える手が優しくなった気がした。これで最後なのだと彼も気づいている。この機会に自分を帰す心算なのだ。
(そんなこと……)
させない。クロノには手紙を届けてほしい。まだ、死んで欲しくない。
そらは後ろに身を引き、思い切り飛び上がった。
「っ!」
頭に激痛が走る。しかし、クロノも相当痛かったはずだ。予想通り、拘束する腕の力が弱まり、そらは地面に転がり落ちた。
「いっ……」
クロノが顎を押さえる。さすがの彼も、これは予想していなかったらしい。
「そら!」
リクが駆け寄ってくる。手には、シトラから渡されたのか、護身用の銃。
躊躇する暇はなかった。そらはそれを奪い、シトラに向けた。
「そら……?」
怖くて、リクの顔は見れなかった。ただ、自分の名を呼ぶ、不安げな声が心に刺さった。
シトラの視線とぶつかる。
「撃ったら、俺も撃ちます」
「――」
正義なんて必要なかった。ただ、自分の守りたいものを守っただけ。
たとえ誰かを傷つけたとしても。これが過ちだとしても、自分は決して後悔しない。
絶対に、後悔しないから――。
ねえ、ウサさん。あなたも同じような気持ちだったのかな――?
シトラの銃先が、そらに向いた。
*
攻撃的でもなく、暴力的でもない、むしろ残酷な程に静かな瞳。
そらのその顔を見たのは初めてだった。
しかし自分はこの表情を知っていた。
――ウサ……っ
シトラの銃先がそらの方に向けられる。
「そらっ」
いつもならば、呼べば誰よりも早く振り返る彼が、今は一瞥もくれない。
そら、お前はウサじゃない。
ウォックの町で撃たれてから銃を見ることすら嫌いになっていた彼が、今は震えながらもそれを握りしめている。
全て、自分のせいである。
一体どこで、間違えたのだろうか。
それとも最初から間違えていたのか。
*
初めて銃を握る手は小刻みに震えていた。しかし自分のやるべきことはきちんと分かっているようで、混乱することはない。
シトラがかすかに動いたのを感じた。
――撃たれる。
自分の信じるもののために、誰かを傷つけていいのだろうか。それは許される行為だろうか。
ウサさん。ここまではあなたと同じ気持ちだった。クロノさんを守るために自分は死んでも良かったし、他人を傷つけても良かった。
でも、いつだってクロノさんが求めている答えは、そこにはなかった。ねえ、そうだったでしょ?
銃声。あっと思った。逆に、それしか思わなかった。
随分と呆気なく終わるものだ。
結局自分は何も変わらなかった。
クロノが傷つくとか傷つかないとか、そんなことよりも、その瞬間、単純に「怖い」と思った。
リクの背中を追えなかったあの日から何も変わっていない、弱い自分がそこに在るだけだった。
もしもこの指に力を籠めていたら、自分は後悔しなかっただろうか。
動けなかった。咄嗟に目を閉じた。
目の前に現れた黒い影。良く知った背中。
胸板を強く押され、後ろによろけ……。
*
倒れた自分を受け止めた両腕は、ひどく頼りないものだった。
「くろの、さ……」
「そら、落ち着け。大丈夫だから」
「俺が、撃った……」
混乱しているようだ。
クロノはまず、そらの手から銃を取り上げた。煙は上がっていなかった。
「そら、大丈夫だから。お前が撃ったんじゃない」
息も絶え絶えに、でも心底ほっとしていた。
血の塊を吐いた。
左胸の少し下――肺ががおかしい。息をするたびに死ぬのではないかという程の激痛に襲われる。
うっかりすれば手放してしまいそうな意識を、何とか持ちこたえる。
「そら……、まだ終わってねえぞ」
クロノはそう言って笑った。
このまま、一人で逃げちまえ。
そういうつもりでそらに言ったのだが、彼の腕は自分を守るように背中にまわっている。
(やっぱりお前は強いよ……)
周囲を囲まれる。
じりじりとそれは近づいてきて、剣が届くほどの距離で立ち止まった。
そらの腕に力が籠る。頭を抱えられ、そらの薄い胸が額に当たった。
「そら、これ以上罪を重くするな」
若いくせに大人びた口調。そらはそれには答えず、その場を動こうともしなかった。
そらの真っ直ぐな瞳が灰色の光を放ち、男の銃先を睨んだ。
頭がうまく働かない。まずいんじゃないのか、そら。
「そらあっ!」
不意にマキバの声が近くで聞こえた。
「マキバッ……」
周りがざわつく。どうやら狐の姿で現れたらしかった。
「リト、こう先生呼んできて!」
「わかったっっ」
同じくらい近くでユーリの声がして、それに答えるリトの声が泣いていて、不思議と安心した。
そして次の瞬間。
「師範っ!」
狭くなっていく視界の中に移り込んだ、見覚えのあるなで肩。
「サフラン……」
「師範っ、助けに来ましたよう……!」
涙声である。片手に持つ短剣が朝日を反射する。
「馬鹿野郎……」
涙が、零れた。
しかし、逃げ切れるとは思えなかった。
王国からもそうだがもう一つ、あの存在。
(まずい……また、あいつが)
「そら……、あいつが、来る」
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回【第六章】離れる手(三)もよろしくお願いします。




