【第一章】城からの逃奔(二)
空は相変わらず灰色のままだ。
シトラが村にやってきたあの日から、大人達は似顔絵の男を「悪魔」と呼ぶようになった。
彼の小声が聞こえたからなのか、雨を降らす禍だからなのか、そらには分からない。
「そら、これ読んで!」
祭りが始まるまで子どもたちのお守を任されたそらは、道場に彼らを集めていた。村人からは子どもたちの面倒をみることにおいてのスペシャリストだと認識されている。
文字の稽古の後、一番下の子が持ってきたのは悪魔が出てくる童話だった。
どうして今この本を選んだのか、そらには分からない。
しかし下手に断ることもできなかった。
その子を膝に乗せて物語を読み進めていると、ふと、一人が首を傾げた。
「悪魔って、嫌われてるの?」
そらは読む手を止めた。
ふう、と溜息をつく。
「ちゃんと聞いてたか? 嫌われてるからこの話になるんだろうが」
「でも……なんか、悪いことしたの」
子どもに童話などを聞かせていると、嫌われるのにも理由がいるし、退治されるのにも理由がいる。
本には書かれていないからその穴を埋めるのは読み手の仕事だ。
鬼が退治される話を読んだ時など、鬼が可哀そうだ、と言われてしまった。
鬼には善悪がある。
しかし、悪魔は、神に逆らう者だ。
そらは答えた。
「悪いことをしたんじゃなくて……それ自体が悪いものなんだ」
存在しているだけで悪いもの。悪魔なんて昔からそういうものだ。
人の悲しみが生んだ存在なのか、実際に存在するものなのか、そらには分からない。しかし、人から忌み嫌われる者は一体どれ程の悲しみを抱えているのだろう。
「可哀そう……」
腕の中で言われ、動揺した。思わず大切な本を落としてしまう。
「そうだな」
努めて冷静に答えながらそれを拾うと、一番前に座っていた子が、
「でもそらは殺すんでしょ?」
と尋ねてきた。
心臓を突かれたような気分だった。
……この子たちは気付いてるんだ。大人が思っているよりずっと繊細に不安を感じている。
決して自然ではない現象。人の元に禍をもたらしていく雨。普段は温厚な大人たちの、やり場のない怒り。
全ての原因が悪魔にあることは分かっている。でも、彼はどうしてそんなことをするんだ?
純粋であるからこそ、誰かが悪意を持って、自分たちに酷いことをしているとは考えられない。
彼らにとって悪魔は、何もしていないのに悪い力を持って生まれてしまった、いわば犠牲者なのだ。
でも、でもでもでも。
そらは必死に同情の気持ちを打ち消す。赦すことなどできない。たとえ彼が犠牲者であろうと。
リョウタが死んだ。
そして今年は凶作だ。
このまま雨が降り続けば、きっとこの村は生き残ることができない。
悪いものを断罪するんじゃない。すべて、自らを守るために。
「ああ……殺すよ」
少し間を空けて、そらは答えた。
*
日の当らない路地裏で、クロノは苦しく息をしていた。深手を負った腹に手を当てて、脂汗をかいている。
(まずいな……)
あれから一夜で町までやってきた。人通りが多い。もしも今、誰かに見つかれば、逃げることもできないだろう。そう思い、日が暮れるまで路地裏の隅で身を隠していたクロノだったが、出血が治まらず、少し焦っていた。
水狩織を頭から被り、かろうじて人目を避けることができた。今のところ、体温も何とか維持できている。
水狩織というのは、クレアス王国に古くから伝わる織物のことである。
水を通さないほどきめが細かいから「水狩」と呼ばれる。保温に優れているし、肌触りもいい。洗いやすいし、すぐに乾く。ただ柔軟性はあまり無い。
水狩に抱かれながら、クロノは暫し目を閉じた。
遠い昔、これを織っていた女性の後ろ姿が浮かんだ。彼女もまた、死ぬまでひとりだった。
「う……」
痛みに呻いたそのとき、小さな娘が路地裏に現れた。人波に押されたらしい。
クロノと目が合う。
彼は「しい」と口元に人差し指を当てた。この怪我を見て、騒ぎになることを恐れたのだ。
しかし残酷にも、現実は予想を裏切った。
娘は使いが見せた似顔絵をしっかり覚えていたのだ。
「悪魔! 悪魔がここにいるわ!」
ぞっとした。
(相手は城の奴らだけじゃないのか!)
コガレが、これからはひとりだと言った訳がようやく理解できた。
クロノは立ち上がり、走り出した。
後ろから混乱した人々の声が追いかけてくる。
体のいくつかの機能が錆びてしまったかのように、上手く動くことができない。背後の声さえぼんやりとしか聞こえなかった。
しかし、足を止めることはなかった。
クロノは血の混じった唾を地面に吐いた。
痛い。苦しい。寒い。息ができない!
(誰か、助けて……)
【第一章】城からの逃奔(三)は 2017年4月17日 23時 投稿予定です。