【第五章】追手(二)
皆を起こしてはいけないので、少し離れた場所へ移動する。歩くたびに霜を踏む感覚。どこか浮かない気分は続いていた。
「ここら辺でいいだろ」
先を行くクロノが立ち止った。くるりと振り向き、棒の先を向けられる。
どきりとした。
彼とこんな風に向き合うのは、あの嵐の夜以来である。
――やらなければ、やられる。
そらも両手で棒を握りしめ、先を彼に向けた。構えた瞬間、先程の鬱な気持ちも忘れ、ただ目の前の男を打つために集中した。
動機が激しくなる。心臓の音がやけにうるさい。
クロノは動かない。ただ、じっとそらを見つめていた。
(隙が無い!)
(クロノさんは、一体何を考えて)
集中が途切れた。それを見計らったように、クロノが動いた。
もしクロノが本気で自分を殺すつもりならば、確実に自分は死んでいただろう。しかし、クロノは自分が構えていた棒の先を軽く打っただけだった。
「まあ、最初にうちに来る奴らよりはもったな」
クロノは楽しそうに笑っている。
「でも、そんなもんじゃねえだろ、お前は」
間髪入れずに強い衝撃が腕に走った。クロノが思い切り、棒を打ったのだ。しかし、これで怯むそらでもない。
次はそらから動いた。
振り上げ、下ろす。
耳元で風切り音。
鋭くなったクロノの目。
「っ!」
肩に強い衝撃が走った。
クロノが攻撃を避け、鋭い一撃をそらの肩に喰らわしたのだ。
「いっ……」
「立てよ。まだいけるだろ」
「くっそ……」
立ち上がり、再び打ちに行く。
その後、やられては立ち上がり、やられては立ち上がりを延々と繰り返したのだが、結局、そらの棒はクロノに一度だって当たることは無かった。
***
物音でスザクは目を覚ました。そらが起きたらしい。普段ならば気にせず再び眠ってしまうのだが、今夜は、そらとクロノのことが気になって目が冴えてしまった。
ここ一週間、とても気になっている。夜明け前、二人の姿がないのだ。
寝ているふりをして、暫くそらの様子を窺った。
向こうではうとうとしながらクロノが炎の番をしていた。
何でも《濡烏》という王国の暗殺部隊に追われているらしい。ビドの町で無茶をしたものだから、そろそろ王国も北に向かっていることに気付いただろうと心配している。彼らの気配に気づけるのはおそらく自分だけだと言って、炎の番を他に譲ろうとしない。
(まあ……こんだけ守らなくちゃいけないのがいるからな)
寝ている間に《濡烏》に見つかれば、自分だけでなく、周りにも危険が及ぶ。《濡烏》に気付けるかと問われれば、スザクも自信がなかった。
上体を起き上らせたままじっと動かないそらに、クロノが気づき、小さく声をかける。
「そら」
我に返ったようにそらは顔を上げ、クロノの元に駆け寄っていった。
それから暫く沈黙が続いた。寝てしまったのかと思い、スザクは再びうとうと始めた。
朝方、クロノとそらが動き始めた。炎を消し、二人でどこかに移動し始めたのだ。
スザクは二人の後を気づかれないようにこっそりと追いかけた。
二人は少し歩いたところで立ち止まった。そして、それは突然起こった。クロノが振り向いたと同時に、そらが木の棒を構え、走り出したのだ。
まだ構えてもいないクロノに向かって、大きく振りかぶる。そこに一寸の迷いもなかった。
しかし、クロノの反応も早かった。彼はそらの脇を思い切り殴り、地面に転がした。
「っ……」
そらはすぐに起き上がり、再びクロノに挑んだ。
(何……やってんだ……?)
スザクは茫然としまま、木陰から様子を窺っていた。
それは長い間続いた。
何度打たれても、そらは立ち上がった。普段の彼からは想像できないような気迫のこもった強い声が朝の山に響いていく。
「クロノも手加減しねえよなー……」
振り返ると、いつの間に隣にいたのか、マキバが苦笑いを浮かべていた。狐の姿である。
「稽古にしては厳しすぎる。クロノもそらが憎いわけではないだろうに」
止めた方がいいか、と尋ねると、少し考えてからマキバが答えた。
「あいつらは、ああいう形でしか繋がれないらしい。でも大丈夫さ。心配ない」
マキバの言う通り、スザクの心配は杞憂に終わった。
旅は平穏に進んだし、元気のなかったそらの表情も段々明るくなった。夜中に泣きながら目を覚ますこともなくなったようだ。
根こそぎ取っていかれた自己愛や自信が、あの暴力的ともいえる稽古で戻ってきたらしい。
あの朝の一時間は別として、クロノはそらに優しかった。そらも気づいているだろうが何も言わない。
散々傷つけてきた、今にも切れそうな絆を二人で病的なくらい必死に守っているように見えた。
***
夢の中で低く何かを唱える声を聞いた。ビドの町で聞いたのと、同じような声と調子だった。最近悪い夢ばかり見ているが、こんな風に直接耳に響いてくるようなものではない。
はっとして目を覚ます。つんとした寒さを鼻先で感じた。
朝方であった。
「クロノさん……?」
隣で寝ていた筈のクロノの姿がない。稽古の時間にしては早すぎる。
先程の夢のことがあった。そらは心配に思い、毛布を頭から被ったまま、クロノを探しに出かけた。
山はまだ眠っているようだ。足元もよく見えぬまま、そらは駆け足で進んだ。
突き刺すように冷たい暗闇。追えども追えども遠ざかっていく背中。
名前を呼ぶ声はもう届かない。
「クロノさんっ!」
この感じを自分は知っていた。
旅の始めに見た夢とよく似ていた。ただ一つ、違いがあるとすれば、無理に走れば走る程足は痛むし、息は上がってくる。
地面にぬる、とした感覚があり、どきりとした。
振り返れば、クロノを殺してしまう。
金縛りに遭ったように、指先ひとつ動かすことができなかった。
心臓の音ややけにうるさい。それは首元から脳に伝わり、頭痛を引き起こした。
しかし、呼ばれたのは自分ではなかった。
「姫……」
そらははっとして、我に返った。
「クロノさん……?」
少し離れた場所にひらけた場所があった。そこに一本の木が寂し気に佇んでいる。その木に背を預け、クロノ――いなが座っていた。
暗闇の中、赤い瞳がこちらを見上げる。
「いな……」
恐る恐る近づく。彼はひどく苦し気な呼吸を繰り返していた。
「どうして……」
「誰かが……私を呼ぶんだ……」
「誰か?」
くわっと男の目が見開かれた。
「姫……、姫……、すまなかった、私を、私を許してくれ……許してくれ……」
「いな……?」
「姫……」
強い力で腕を引き寄せられた。驚いたそらはその手を振り払い、背を向けて逃げようとしたが、その足首をいなが引っ張った。
「あっ」
顔面から転び、鼻を思い切り打つ。しかし痛がっている暇もなく、ひっくり返され、仰向けにされた。
「姫……」
頬にぽたりと冷たいしずくが落ちた。上から見下ろす赤い瞳から流れた涙だった。
「守れなくて、すまなかった……」
動けなかった。
ゆっくりと近づいてくる唇。それは、もう二度と会えない誰かに対する謝罪。
死んだ者は帰らない。絶対に。
違う、と否定することもできず、そらはただそれを受け入れた。
間違いなく、クロノの唇だった。悲しかったけれど、抵抗する気にもなれなかった。
口内で塩の味が沁みる。
深く、深く浸食してくる。
例えばそれは、自分の帰りを待ちながら死んでいった者に対する謝罪のような。
「違う……いな、俺は違う……」
「姫……」
死んで尚、探し続けて。
挙句の果て人から忌み嫌われる存在へと姿を変えた。
ずっと一人で抱え込んできた心痛。
彼女さえ。
彼女さえいたら救われたのに。
「いな……」
ふと、アンデの町で見た、あの夢と繋がった。
(ずっと、そこにいたんだね……)
助けに行く。必ず、いなを連れて助けに行くから。
そらは彼の腕を引き、起き上ると同時に頭を抱え込んだ。
「大丈夫だ……。姫は、きっとあなたのことを、恨んでなんかいない……」
低い嗚咽が聞こえた。まるで、地獄の茹で釜の底からふつふつと湧き上がってくるような、恐ろしく悲しい声だった。
「一緒に助けに行こう」
「……」
「今なら、まだ間に合うから……」
長い間、それこそ月が太陽に変わるまで、ずっとすすり泣く声が聞こえていた。百年分の涙だった。
魔は再び眠りにつき、クロノが静かに寝息を立てている。もうそろそろ皆が起きて、出発の準備を始める頃だろう。
「クロノさん、クロノさん」
「う……」
「大丈夫ですか」
揺すり起こすと、彼は額を押さえながら起き上った。頭が痛むらしい。
先程のことが夢でなかったと証明するかのように、そらは元の道を辿ることができた。実際、皆の荷物はそこに在り、焚き火をした跡もしっかり残っていた。
しかし、皆の姿が見えない。
「どこに行ったんだ、あいつら……」
太陽は既に上っている筈だというのに、山の中は薄暗かった。
気味が悪いほど静かだった。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回【第五章】追手(三)は来週土曜日投稿予定です。
お楽しみに!




