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九十三日の幻、永遠の約束  作者: 吾川あず
【第二部】逡巡
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【第三章】西へ(五)

「マキバ、ここタンコブできてるよ」


 ふさふさの金色の毛を撫でながら、ユーリが言う。

 マキバはとても気持ち良さそうに「んー」と返事をした。先ほどシャワーを浴びて、ほかほかに温まっていたのだ。

 不意に、背中を撫でる手が止まり、マキバは顔を上げた。


「ユーリ?」

「マキバ、最近人の姿にならないね」


 後ろから抱きかかえられ、鼻を寄せられる。ぬいぐるみのように、なされるがまま、マキバはしゅんとなった。


「人の姿も気に入ってたのになー……」


 その姿じゃあ不便な時だってあるでしょ、とユーリは言う。


「僕が名前呼ぶたびに困ったような顔するし。何考えてるのか知らないけど、すっごく面倒なこと悩んでるんじゃないの」


 少しの間、マキバは押し黙っていたが、やがて口を開いた。


「なあ、ユーリ。ここにいるのは、一体誰なんだろうな?」

「……」


「俺があんたのお兄さんの姿をしてる時、俺がマキバを名乗ってる時、そこにいるのは本当に俺でいいのかな」


「俺はいいと思うけど? マキバ――狐さんに本当の名前があるんだったら、知りたいけどさ」

「無いよ。いちいち子どもに名前をつける動物なんて人間くらいだ」


 だから、不安になる。自分には名前がないから。ひょっとすると、狐の自分はあのときに死んだのかもしれない。

 じゃあ、今ここにいるのは一体誰なんだ?


「マキバって呼ばれるのは嫌?」

「ユーリこそ嫌だろ。その名前を、お兄さんを殺した狐が借りてるなんて」

「マキバ」


 すっとユーリの声が冷たくなった。


「戻って」

「は?」


「人の姿に戻って。今すぐ」


 ぽかんとしていると、早く、と怒鳴られた。

 慌てて人の姿に化けると、すぐに頬に熱い痛みが走った。本気で、グーで殴られた。


「っ……」

「痛い? 今痛いって感じてるのは、マキバじゃないの?」

「……」

「狐って呼んだ方がいい?」

「やだ……」


 ぶわっと涙が溢れ、ぼろぼろと顔を濡らした。あの、温厚なユーリに殴られたのだ。ショックが大きすぎる。そして、狐、という響きがあまりにも冷た過ぎて。


「兄さんを殺したのは自分だって、本気で思ってるの? だったら、もう一発殴るけど。それで、君とは絶交する」


 唇を噛み締める。


 痛みを感じているのは「マキバ」か。それとも名前のない、よく分からない妖物か。


「……たぶん、本気で思ってるんだろうね」


 ぽつりとユーリは言って、古いベッドに座りなおした。


「世の中に、同じ名前の人間が二人いたっておかしいことじゃないよ、全然」

「そりゃそうだけど……」

「言っとくけどね、兄さんと狐さんは、全く似てないよ。そりゃあ、姿はそれなりに似てるかもしれないけど、兄さんはもっと大人しい人だった」


 何も言い返す言葉が浮かばず、マキバはただ押し黙った。


「もしもね、狐さんが魔法にかかって、鼠にされても、小魚にされても、僕は『マキバ』って呼びかける。だって、僕にとって『マキバ』は『マキバ』で、それ以外の何者でもないんだから」


「もしも誰も俺だって分からなかったら?」


「僕が必ず見つけ出す。それで、君は『マキバ』だよ」


「もしもお兄さんが帰ってきたら?」


「『マキバ』が二人に増えるね。いいんじゃない? 俺はそのままお兄ちゃんのことをお兄ちゃんって呼ぶし」


「俺が死んだら?」


「……身体はただの『もの』かもしれない。でも『マキバ』は、必ずどこかに存在する」


「分からねえな」

「適当でいいんだよ。考えだしたらおかしくなっちゃう。自分と外の境界線なんてあってないようなもんなんだから」


 でもね、とユーリは付け足した。


「僕が君を『マキバ』って呼ぶならば、君は『マキバ』で、その『マキバ』を僕らは愛してる。だから心配しなくていいんだよ」


 ユーリは再び立ち上がり、マキバの隣に立った。そして、笑った。


「背の高さ。いつの間にかおんなじになってるよ」


***


 朝方、エメが部屋にやってきて、入るなり嫌な顔をした。


 あらかじめ大切な話があると言われていたから、そらは起きて待っていたのだが、一緒に目を覚ましたはずのクロノがいつの間にかまた寝息を立てていた。この数日間、まともに睡眠をとれていなかったのだ。

 そらを後ろからしっかり抱えるようにして眠っている。自分が目を覚ましてからずっとこの調子だ。


「何なんだ、お前らは……」

「俺が悪いんです……」

「朝からべたべたするな。鬱陶しい」


 台に盆を置きながらエメが眉間に皺を寄せる。盆には三つ、マグカップが乗せてあり、そこから湯気が上がっていた。コーヒーの香ばしい匂い。

 エメは木椅子に腰かけた。


「まあいい。どちらにしてもお前とふたりで話す時間は欲しかった」

「俺もです。えっと……」

「昔のようにエメと呼んでくれていい」


 エメはマグカップをひとつそらに渡した。


「……エメ。クロノさんから聞きました。俺を助けてくれたのはあなただったんですね」

「助けただなんて……とてもじゃないけど言えねえな。……思い出せたのか」


 そらは首を横に振った。


「まだです。……怖くて」

「それが自然な感情だ。何もおかしくない」

「クロノさんに助けられました」


 話を聞いていたら冷や冷やする。そう言って、エメは溜め息をついた。


「お前も死にかけたクロノを助けたそうじゃないか」

「ほんと、偶然なんですけどね」


 話しているうちにエメの三白眼にも慣れた。キャロット色の髪も鮮やかで可愛いと思った。そして、頼もしさをも彼女から感じていた。


「そら……お前はもう大丈夫だ。何があっても。こいつがいるからな」


 そらの頭をぽんぽんと軽く叩いて、エメは表情を崩した。視線はクロノの方に向いていた。

 自分の肩に顔を埋めるクロノの重さが、かすかに軽くなった。


ここまで読んで下さり、ありがとうございます。

次回【第三章】西へ(六)は 明日2017年5月23日23時 投稿予定です。

お楽しみに!

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