【第一章】城からの逃奔(一)
闇の中をただひたすら駆けていく。
一度も振り返らなかった。コガレがそうしろと言ったからだ。
夜目は利く方だった。泥を跳ねながら、とにかく北へ走った。
できるだけ遠くへ、遠くへ。そう言い聞かせた。
しかし、それでも限界がある。
普通の兵ならばともかく、王国には《濡烏》という特殊暗殺部隊があった。彼らは視覚で誤魔化されるような者達ではない。
聴覚、嗅覚、時には第六感――あらゆる機能を使って、確実に獲物を仕留める。
そして今、自分のすぐ傍にいる。
少し前から、クロノは背中に殺気を感じていた。
(もう逃げ切れないか……)
立ち止まり、くるりと振り返った。ここに剣があったとしても《濡烏》には敵わないだろう。その上、今は先ほどの木棒一本しか持っていなかった。
だが大人しく殺される訳にもいかない。
クロノは木棒の手元から先を指で辿った。
下から剣首、柄、剣格……そしてここが、剣身。
息を止めないよう、ゆっくりと吐く。
左右上にそれぞれ一人、背後に三人、正面に二人。持っているのは短剣か。
(ほとんど気配がしない)
どこから動くか。
じっと待っていると、左上が動いた。すぐに正面も。
やはり暗殺には慣れているらしい。考えもなく全員でかかってくることはなかった。多数の人間が一斉に闇の中で動くと、味方同士で切り合うような混乱に陥ることがあるのだ。
相手の短剣が木棒に刺さる。
まずい、と思った。しかし、やすやすと木棒が折れてしまうような扱い方はしない。
一度間隔を空け、全身の気迫を木棒に込めた。切れる、と思った。短剣と再びぶつかる。
これは剣だ。誰が何と言おうと、剣なのだ。負けるはずがない!
出した左足を踏ん張った。
パリンッ……。
何かが宙に飛ぶ。
(まずい……折れたか!)
クロノは音がした方へ顔を向けた。きらりと遠くへ落ちていく光るものが見えた。
相手の刃が折れたのだ。
「まさか」
《濡烏》が呆気にとられた一瞬を見逃さなかった。
想像上の柄で、その腹を突いた。小さく呻いて、彼は倒れた。
すぐに右から風切り音が聞こえ、クロノは身をかがめた。攻撃を避け、下から喉元を軽く突く。苦しそうに咳き込む声が後から聞こえてきた。
背後に二人。そろそろ焦って来たらしい。
クロノは乱暴に額の汗を拭った。
相当息の合っているふたりだ。攻撃する瞬間も同時で、防ぎきれなかった。
「っ……」
思わず声が漏れた。
何とか腕で首元は守ったが、そこから重い痛みがじわじわと襲ってくる。
しかしクロノは止まらなかった。
木棒を斜め上に振り上げて一人を投げ飛ばし、もう一人は蹴りあげた。
ほっと息をつく暇もなく、次の刺客の攻撃を交わす。
先ほどと同じ要領で突こうとした瞬間、不意に右手から下りてきた人影に右腹を刺された。
(しまったっ……)
片膝をつく。刺された場所に手を当てると生ぬるい感触があった。
様子を見るように《濡烏》の三人が少し間を空けた。これでも悪魔が宿っている体だ。警戒しているのだろう。行き先を塞ぐようにして立っている。
逃げることはできないし、倒すことも不可能だ。
でも、あの手紙を届けなくては。そう、ウサギと約束した。
(死ぬことも許されない……)
この状況で生きることが、罪滅ぼしのような気がした。クロノはゆっくりと、傷を庇うようにして立ちあがった。
すると、不意にどこからか声が聞こえてきたのだ。
――悲しい、悲しい……。
再び雨が降り始めた。
クロノは説明のつかないモノに対する恐怖に襲われた。まるで相手が見えないのだ。倒すべき相手が分からず、まして倒す術など思い浮かびもしない。
悪魔に魂を喰われたとき、人はどうなってしまうのだろう。
「雨だ……」
前方から気味悪そうに呟く声が聞こえた。
このままでは拙い。
クロノは耳を澄ました。
しかし、あの歌は聞こえない。歌声を追う意識が雨の音に打ち消されていく。
雨が降ったのは幸運だった。自分の気配を掻き消してくれるはずだ。
相手にとってもそれは同じことだが、こういう場合、逃げる方が有利である。
辺りはまだ、真っ暗闇だった。
耳元で悲しい声を聞きながらも、クロノは誰もいない西方向に走りだした。
追いかけてくる足音。
無我夢中に走った。捕まった時が自分の最期だった。しかし、クロノの予想に反し、しばらくして《濡烏》の足音は聞こえなくなった。仲間をとったのかもしれない。
しばらくクロノは走り続けた。
*
「あーううー……」
「大丈夫? そら」
秋祭りの準備のため、道場に閉じこもる日が続いた。
肩に手を当てて呻くと、子ども達が心配して集まってきてくれる。
祭りとは皮肉なものだ。どれだけ雨が続こうと――どれだけこちらの願いが届かぬとも、収穫祭はする。そしてしぶとく次の豊作を祈る。
今は祭りで使う蓑を必死に編んでいた。人の少ないエレム村では一人一人の負担が重い。隣ではアンジュを含め、村の大人達数人がふうふう言いながら藁をつないでいる。
一方、リクは別のグループに加わり、市場に買い出しに出かけていた。夕方頃に戻ると言っていたが……。
「それにしても雨、止まねえなあ」
ひとりがぼやいた。こうじめじめしていると、気持ちまでが沈んでいくと言うのだ。
「あの悪魔、早く捕まってくれねえかな」
「……やめろよ。子どもがいるんだ」
昨日のことだ。
雨もちょうど治まってきた頃、城から使いがやってきた。
亜麻色の短髪とエメラルドの瞳が印象的なその男は、馬から下り、集まってきた村人に一枚の似顔絵を見せた。
「雨の原因だ。城から逃亡した極悪人でな。この男を見たら殺すか、捕まえて城に送ってくれ。賞金を与える」
使いは相当疲れているようだった。
朝から晩までたくさんの村をこうして回っているのだろう。
その似顔絵には、この王国では珍しい、黒髪の男が描かれていた。
「何でこの人が雨の原因なんですか?」
思わず、手前にいたそらは尋ねた。
使いは一瞬答えに詰まり、わざとらしく手元の資料をめくった。少し唸る。
「悪魔……いや、こんな子どもに言ってもしょうがないか。とにかく見つけたら殺すことだ。この村もそろそろまずいだろう?」
「……」
「何だ、その目は。悪いが俺は忙しいんでね、質問にいちいち答えているほど暇じゃないんだよ」
男の言葉にふつふつと怒りが込み上げてきたが、そらはそれを呑みこんだ。
その代わり、無言で彼を見上げじっと抗議の瞳を向けた。
その視線に気づき、書類から顔を上げた男が首を傾げる。
「……やけに美しい顔立ちをしている……男か」
気持ち悪いな、と思いつつそらは頷いた。
「色々無礼を働いてすまなかった」
何やら剣呑な気配を感じ、そらは腰を引いた。
しかし彼は構わず片膝をつき、硬い両手でそらの手を包んできた。
真摯な目で見つめられ、そらは逃げるタイミングを失ってしまった。
また、男の瞳があまりにも綺麗で、思わず見とれてしまう。
優しそうで、しかし、芯の強い瞳だった。
「まあ……不安にもなるよな。でも大丈夫だ。今王国全体で探しているから、雨なんかすぐに止んでしまうさ」
そらは固まったままだ。
「俺の名前はシトラ。また会ったら、茶でも一緒にどうかな」
再び雨が強く降り出した。
シトラの後ろに控えていた兵が「早く行きましょう!」と叫ぶ。
シトラはふっと目を細めた。そして、背を向け、無駄な動き一つなく、精錬された動きで馬に跨った。
次回【第一章】城からの逃奔(二)は 今日2017年4月16日23時 投稿予定です。