【第二章】廃都ラス(二)
「ああ、あなた方が。突然うちの者が迷惑をかけてすまなかった」
ふたりを見て、まず彼は謝罪の言葉を述べた。クロノが何か言いたそうな顔をして視線を向けてきたが、そらはけろりとしたまま軽く頭を下げた。
「こちらこそ紛らわしくてすみません」
同時に頭を下げたらしいクロノに机の下で小突かれる。
初老の男はそのことに気付きもせず、向かい側に腰を下ろす。案内人はさっさと茶を置いて出て行ってしまった。引き戸の閉まる音が妙に重たく残った。
「静かすぎて怖いだろう」
「一体何があったんですか」
そらが尋ねると、初老の男は苦笑いを浮かべ、少し間を置いてから答えた。
「アレの怒りに触れたんだよ」
「アレ?」
隣で、クロノが一瞬何かを思い出したように顔を顰めた。
初老の男は持ってきた本を机の上に広げた。とても古いものらしく、色は落ち、ページをめくるたびに埃が舞う。あるページを過ぎようとした瞬間、今まで黙っていたクロノが、素早くページの間に指を挟み、止めた。
「今のじゃないですか?」
男が手を離したのを確認してから、そのページをゆっくりと開く。
そこには、緑色と水色が混ざり濁ったような色をした竜が描かれていた。
「……ラスの守り神ですね」
クロノが呟く。
聞くと、以前ラスを訪れた時にこの竜が描かれた壁画を見たそうだ。そして、さらに何か言おうとして--口を閉ざした。その一部始終を見ていたそらは怪訝に思ったが、男が竜の説明を始めたので、その先を聞くことはできなかった。
「ラスはこの水竜によって守られていた。神殿に供えられた水の玉……それが盗まれるまでは」
「水の玉?」
「水の玉を神殿に置き、その前に毎朝一杯の水を供える。それが我らと水竜の契約だった。それを続けている間は平和だった」
「盗まれたんですか?」
「ああ。二年前にね」
「そのまま水の玉が見つからないんですか」
「……いや、見つかったよ。すぐに盗んだ男の死体が発見された。首を食いちぎられていてね。血のついた刃物と一緒に近くで見つかった。水の玉は慌てて神殿に戻したが、それからこの有様さ」
「……」
元々この地域は雨が極端に少ない。
水が地面から湧き出るラスはこの地域の奇跡だった。都から水を引いていた周辺の村や町は、ラスの水がなくなると同時に水不足に襲われた。おかげで畑は今年も凶作だ。この冬はまだ蓄えた穀物があるが、来年あたり大飢饉になるかもしれない。
盗人一人のために、なぜ自分達がこんなに苦しまなければならないのか。
初老の男はそこまで言って、本をぱたんと閉じ、重い溜息をついた。
「クロノさん、何か隠してるでしょ」
「あ?」
日も暮れ、月が姿を現した頃、ふたりはラスの神殿を目指し歩いていた。
マキバ達は近くの宿に泊まるそうだ。自分達も用が終わったらそこに行くつもりだった。
「なんでそう思うんだ」
「だって、普段ならこんな--危なそうなことに近づかないじゃないですか。首、齧られてたんでしょ、ぱっくりと」
「怖いのか?」
「怖いですよ。でも……俺は、どうせ通るなら何とかしたいんです」
「お人好し」
再びクロノが背を向ける。
自分の質問に答えてもらっていない。腹が立ってもう一度尋ねようとすると、彼が自分の少し手前で立ち止った。
「……一回、見たことがあるんだよ、竜。ちょうどこの時間かな。昔戦場に行く途中、この都で一泊したんだ」
枯れ木の手前でクロノは足を止め、労わるように幹を撫でる。
「その夜、眠れなくて外に出た」
戦が怖かったのだとぽつりと付け足した。
「……そしたら、夜だっていうのに、遠くで水色に光ってるんだよ、何かが」
「近づいたんですか?」
「ああ。すぐ手前まで行って姿を拝ませてもらった。夢だと思ったからな……あれは、確かに竜だった」
自嘲気味に笑う気配。
信じられないだろ? と。
「でもさ……すっごく綺麗だったんだ。よく分かんねえけど、自分はまだ死なないと思った。もしものときはお前が守ってくれるんだなって……死ぬのが怖くて、殺すのも怖くて……そんなどうしようもない兵にもその姿を見せてくれた」
「もしもその竜に会えてなかったら?」
「……今頃こんな憂き目にはあってねえだろうな」
クロノのくつくつと笑う声に親しみさえ感じられる。
「それじゃあ尚更、頑張らなくちゃですね?」
「ま、借りた恩は返さねえと……」
「でもほっとしました。クロノさんも最初は人並みに恐怖の感情があったんですね」
「馬鹿野郎。今でも怖いものだらけだよ。火あぶりなんて絶対に御免だからな」
「シャレになんないですね」
ははは、と笑うと頭をどつかれる。痛い、と言いながら彼を見上げたら、彼も声を上げ笑っていた。珍しい。
本当は……怖いのではないか。
何でもないように振舞っているのは、彼の方ではないか。
「……クロノさん?」
真面目な顔になって、そらは言った。
「あ?」
「そんなことは、俺がさせませんから」
面白いくらいにクロノがぽかんとしているので、今度はにやりといやらしい笑みを浮かべた。親指の爪で首元を軽く撫でながら、さらに一言付け足す。
「そうなる前に、俺が一息に殺ります」
「てめ、生意気……」
「楽勝ですよ。らっくしょー」
歌うようにそらは言いながら、もう一度心の中で誓った。
……必ず俺が、助けてみせると。
次回【第二章】廃都ラス(三)は 明日2017年5月13日23時 投稿予定です。




