【第六章】ビド(三)
(薬か……?)
持ってきた荷物を下ろしながら、香に近づく。
ヤジニグサだ。探せば野山で見つかるが、それを薬にするまでに多くの作業を要する。技術がなければ作ることは難しい。しかし強い効き目を持っている。幻覚を見せて心から壊していく。そんな恐ろしい毒薬だ。
そらはその香薬を手に取ると地面に放り、足でもみ消した。やがて小さな灯りは消え、少しの煙があとに残った。
かばんの中から瓶を取り出し、慎重にその燃えかすを入れて蓋をする。後で調べようと思ったのだ。こういう点で、そらは抜かりなかった。
***
――クロノさんっ、クロノさん!
自分を呼ぶ声が聞こえてくる。何度も何度も、必死に自分の意識を引き戻そうとする。でも、体が動かない……。
九十三日の約束。
早くあの手紙を届けなくては。
「クロノさん、ごめんなさい」
「そら」
「ごめんなさい」
そらを腕に抱く。ずる、と自分の体が横に流れた。
腹を濡らす赤い液体。刺さった短刀。
「ごめんなさい」
死ぬのが怖いんじゃない。
失うのが怖いんだ……。
***
「クロノさん!」
そらは何度もクロノの頬を軽く叩いた。
彼はやがて目を覚まし、ぼうっとした様子で「そら」と呟いた。
「良かった……気が付いたんですね」
「……」
一瞬安心したように目を細めたクロノだったが、すぐにはっとして、逃げろ! と叫んだ。
そらはぱっと後ろを振り返り、辺りを見回した。何も……いない。
「クロノさん?」
「あいつがまた来る! 俺はもう、いいから、早く」
「クロノさん、落ち着いて。毒消しがあるんです」
クロノの肩に手を置く。違う、クロノじゃない! そう思ったときにはもう遅かった。
手を離したとき、腕から伝ってきた血が指からぽたりと落ちた。
人間ではあり得ない、鋭い犬歯。とうとう身体まで蝕まれてしまったのか。顔を上げると、赤い瞳がじっとこちらを見つめていた。さすがに鎖までは切れないらしい。
かすかにその瞳に悲しみを感じる。
感情を押し殺して、押し殺して、やっとここまで無表情になれた。しかし、その瞳だけは、一点に曇りを残したまま楽になれない。
「お前は、どうしたいんだ?」
「……」
返事は無い。蘇るつもりなくして、蘇ってしまった。そんな戸惑いの表情とも見て取れた。
今、クロノの中がどのような状態なのか分からない。ひょっとしたら四六時中隙を突かれないよう気を張っていなければ、乗っ取られてしまうような状態になっているのかもしれない。
間に合うだろうか。この歌は彼に届くだろうか。
「そらっ」
突然彼は叫んだ。
「殺していけ! 逃げるだけなんて許さねえ! 殺していけ!」
「クロノさん」
「俺は、人でいたい……っ」
そらは首を横に振った。幾重にも鎖で巻かれた手首が、暴れる度に痛々しく切れる。今なら、すぐに楽にしてやれる。
毒消しはあった。でも、この人はこれ以上耐えきれるのだろうか。魔に心を奪われず、クロノでいることはできるのだろうか。
「毒消し……飲んでください」
震える手でもう一度クロノに近づいた。先程の会話の最中に、急いで作った飲み薬を彼の口元に押し当てる。
朱に染まった指を見て、彼は目を見開いた。自分がやったと、にわかには信じがたいのだろう。
「早く」
クロノは力なく首を横に振った。
「俺に人でなくなれって言いたいのか」
「いいです。俺が引っ張ってでもツテシフに連れていく」
「そんなの、勝手すぎる」
「あなたがそれを許したんだ」
自分は今、自我だけで動いている気がした。俺は感情を押し殺すことなど出来ない。
酷いことをしている自覚もあった。
それでもまだあなたは、此処にいる。ちゃんといるから。諦めるには、まだ早いのだ。
そらは飲み薬を自分の口に含んだ。
たとえ世界が敵となり、全てを失ったとしても、自分は彼の隣にいると約束した。
意味を瞬時に悟ったクロノが驚いている間に、素早く唇を合わせる。
クロノはなかなか唇を開こうとはしなかった。しかしここで引くわけにはいかない。
逃げようとする彼の頭を、持てる限りの力で押さえ込んだ。
そらはクロノの腕を思い切りつねった。先程噛みつかれたこともあり、遠慮はなかった。
「いっ……」
突然の痛みに、クロノが僅かに口を開ける。その隙に舌を差し込み、一滴残らず流し込んだ。
「お前、何をやっ……」
クロノの言葉は、途中で途切れた。
眠り薬を入れていたのだ。前に首を倒したクロノを支え、そらは僅かに視線を逸らせた。
本当はここで殺してしまった方がいいのではないか。そんな考えが頭から離れない。
(朝になれば、きっとビド兵が来る)
それまでに、何かを掴まなければ。
自分は何をするべきなのだ?
心が折れてしまいそうだ。もう限界も感じていた。きっとクロノはこれからも少しずつ、魔に蝕まれていく。
自分にそれを止めることはできるだろうか。
(とりあえず今できることをしないと)
そらは荷物から干した薬草を取り出した。そのまますり鉢に入れて擦っていると、何だか泣けてきて、ああ、自分は何をしているのだろう、と弱気になってきた。
このままこの場所にいれば、きっと自分はもう二度とあの村に帰れなくなってしまう。下手をすれば殺されてしまうかもしれない。
(自分は、弱虫だ……)
今になって、村に帰りたいと思うなんて。
***
マキバは、クロノがいくら強いとはいえ、まさかビドを通ることはないだろうと考えたらしい。
一度だけ「ごめんな」と謝って、崖になっている道を通った。ビドを避けるにはこの道しかないことをリトも知っていたから、反対もしなかった。
細い道を歩いている間、マキバは自分を内側にやり、絶対に手を離そうとしなかった。その手は凍るように冷たかった。
「やけに肝が据わってるな」
「なんか……非現実的過ぎて頭がついていかないの。今も夢を見てるみたい」
「怖いか」
リトは答えずに笑い飛ばした。
「……こんな道を、そらも通ったんだ」
半日かけて、ようやくビドを越えた。
そこで、二人は薪を燃やした跡を見つけた。
「……」
マキバは何も言わず、その焼かれた跡に触った。そして、じっと目を瞑ったまま、暫く動かなかった。
やがて立ち上がり、まずいかもしれねえ、と言う。
「クロノがビドに連れていかれてる。そらだけ何とか逃げ延びたらしいな」
「どうして分かるの」
「分かるさ。ここにたくさん知らないにおいが残ってる。で、クロノのがビドの方向にそれらと一緒に向かって、そらのが反対方向に転がり落ちて……なんだよ、なんで引いてんだよ」
「いや……引いてるわけじゃ」
本当に。引いていたのではない。リトは素直に驚きを隠せなかった。
マキバは自嘲気味に笑い、リトの手首を掴んで立ち上がった。
「あんたには言っておくが、俺は人じゃないんでね」
次回【第六章】ビド(二)は 明日2017年5月5日23時 投稿予定です。




