【第六章】ビド(一)
――夜明け前のこと。
「そらっ、起きろっ」
その怒声で目を覚ますと同時に、地面に押さえ込まれた。頬を擦りむいたが、クロノには気にする余裕もないらしい。
辺りはまだ暗く、暗闇の中で幾人もの影が動く。
「くそっ……何でビドの奴らが!」
「ビド?」
思うように体が動かないのは、彼が押さえ込んでいるからではないらしい。骨の内部から電流が走っているように痺れていた。
「匂薬ですか……」
どこかつんとする臭いに、そらは顔を顰めた。
「悪い。全く気付けなかった」
クロノは、お前だけでも逃げろ、と言いたそうな顔をしているが、この状況では不可能だ。
「くそ……」
小さく舌打ちするのが聞こえた。
脳さえも麻痺して、うまくものが考えられない。
どうしてビドの奴らが?
自分を押さえていたクロノの体が宙に浮いた。驚いて目を見開くと、クロノは目を閉じたまま動かず、そのままどこかに連れていかれてしまう。
風がごおごおと葉を揺らす。
クロノさんっ……。
暗闇のなかで、低く話し合うような声が聞こえた。
「こいつは……?」
「後で下手な噂を流されても面倒だ。連れていくぞ」
そらはぐいと身体を反転させ、かばんのポケットに入れておいたものを口に含んだ。毒消しだ。
「何っ……」
「は……」
後は必死だった。爪で土を掻き、足をつまずかせながらも立ち上がった。そして闇の中に紛れようと走り出した。この暗い時刻、姿さえ隠すことができれば……。
次の瞬間、足場が崩れ、そらは宙で大きく一回転をした。崖になっていたらしい。
(しまっ……)
どすんっ、と大きな音。背中から落ち、刺すような痛みが広がった。土の匂い。周りの音が遠くなっていく。
そのまま、そらは気を失った。
***
(ごめん……マキバ……)
久しぶりに昔の夢を見た。
ビドは崖や山に囲まれ、攻められにくい地形にある。
百年前の大惨事の後、クレアス王国は戦でばらばらになった国を恐るべき早さで統治していったが、軍事体制の整ったビドだけは落とすことができなかった。
そのためビドには独自の宗教文化が存在するし、独自の政治もある。
ユーリはそんなビドの呪術師の家の出であり、代々、王に仕える身分だった。
家にはルールがあった。それは六歳になり魔力が皆無であれば、その子を殺さなければならないというものだ。魔力がなければこの家にいても恥を晒すだけである。それならば死んだ方がいい、という考え方だった。
ユーリには三つ上の兄がいた。お天道様のように明るく優しい兄だった。
――名を、マキバという。
彼は、ユーリがもらうべき魔力を全て先に持っていってしまったのだろうか。家の者のなかでも特に強い魔力を持ち、使いこなせないところもあった。
彼が六歳の誕生日を迎えたとき、本格的な修行が始まった。手始めに、井戸に住む蛙を呪い殺し、次に家来に呪いをかけた。
当時マキバが受けていたショックは、きっと、ユーリには想像もつかないほど大きなものだったに違いない。しかしマキバは、その悲しみを決して見せようとしなかった。
彼は周りに対して次第に心を閉ざしていった。この頃から、家の者に対する不信感を芽生えさせていたのかもしれない。一方でユーリには変わらず笑顔を向け、彼を大切にしていた。
そして、それから三年が経った。ユーリの番だった。彼にはついに魔力が宿らなかった。
自分が殺されてしまうことをユーリは知らなかった。
六つになる前の夜、マキバはユーリを連れてビドを出た。山の中に紛れてしまえば……自分の魔力があれば、弟を助けられると彼は思っていた。
居場所を隠すために力を使い、結界を張っていた。闇の中をひたすら走る。
「兄ちゃんっ、何っ?」
「逃げるんだよっ」
「何でっ……、お母さんは? 皆は?」
ユーリの質問に、マキバは一瞬だけ足を止めた。
この時、彼がどんな気持ちで自分を連れだしたのか、ユーリには分からなかった。
しかし、マキバは感情のこもらない声で呟いた。
「お前は明日、その大好きな人達に殺されるんだよ」
そのとき、茂みから音がした。
ユーリ以上にびっくりして、マキバは音がした方へ視線を向けた。
そこにいたのは一匹の、小さな子狐だった。ぐったりとして倒れたまま、瞼を開ける気配すらない。
「怪我……してる?」
この辺りでは鷹や鷲も生息する。恐らく襲われたのだろう。背中には突かれたような傷があった。
もう山の奥まで逃げた。そろそろ足を止めてもいい頃かもしれない。そう思って、マキバは子狐の手当を始めた。彼は自分の袖を噛み切り、その布で傷口を覆った。
マキバにどれほどの技術があったのかは知らない。しかし何らかの力を使い、傷を癒してやろうとしたのだろう。
彼は二人を長い間隠し続けた結界を、解いてしまった。暫くは何も起こらなかった。
マキバが手を当てたところから、狐の傷は次第に癒えていった。
「僕もお兄ちゃんみたいになりたいな」
「こんな力、いらねえよ」
「でもこうやって助けられるでしょ。それってすっごくかっこいい」
まだ六歳のユーリにとって、三歳上の優しくてしっかり者の兄は憧れの存在だった。たまに兄弟喧嘩することもあったが、それでも兄のことは大好きだった。
兄も自分を何よりも大切にしてくれていたと思う。
ユーリの言葉が嬉しかったのだろう。マキバはふにゃりと表情を崩した。
「――助ける、力か……」
そのとき突然マキバが血を吐いた。
「お兄ちゃん?」
地面に倒れ、首を掻き、苦しそうにもがく。
「何、どうしたの」
暗闇の中、ユーリは苦しむ兄を助けようと悪戦苦闘したが、結局何もできなかった。
気づいた時には、もう、彼の息の根は止まっていた。
「お兄ちゃん……?」
返事は無い。暗く、錯乱していたこともあり、ユーリがその酷い死体をはっきりと目にすることは無かった。しかし、一つだけはっきりと思い出せるのは、彼の、苦痛に歪んだ顔だった。
目を覚ましたとき、心配そうにこちらを覗き込んでくる狐の顔が見えた。
「……きつね?」
まばたきをして、再び目を開けると、見覚えのある少年の顔があった。
「……だれ」
その言葉を聞いて、彼は悲しげに笑った。
「マキバ。……君の友達だ」
次回 【第六章】ビド(二) は 明日2017年5月4日23時 投稿予定です。




