【第五章】赤い影(五)
「他に頼れる人なんていないわ。あの医者もきっともうこない。村の者も流行り病だからと言って、誰も助けてくれないの……」
「わしは体力に自信があるからの」
老人は無愛想にそう言った。
そらはしばらくの間、苦しんでいる子どもに声をかけたり、そっと触れたりして様子を見た。病のことについて一言も発しない自分を、皆、緊張した様子で見守っている。
ここである判断を下すのは、酷なことかもしれない。しかし――、ここまで病気が進んでいると手段が限られた。その手段に子どもの体力がついてこられる訳もなく。
一時間程様子を見て、そらは女の方に向き直った。
「……先程の薬草を使って回復を試みますが、あまり効果は無いと思います」
そらが女に言った言葉は、少し遠回しであったが、はっきりと現状を伝えていた。
「やっぱり難しいんですね」
「……」
女は深く息を吸った。
***
「ごめんなさい、少し、外の空気を吸ってきます」
女はそう言い、外へ出ていった。混乱しているのだろう。
「クロノさん、頼んでいいですか」
そらがじっとこちらを見つめてくる。その苦しげな表情に心が痛んだ。
クロノはそっと立ち上がり、女の後を追った。
外は大雨だった。風が強く吹きつけるなか、軒下で女は泣いていた。
言葉では言い尽くせないほど女は悲しんだ。
クロノはどうしていいか分からず、ただ黙って隣に座り、強く地面を打つ雨粒を見つめていた。
それは水たまりに落ちては波紋を作っていく。奏でる音が、そらに似ていると思った。
やがて、女が口を開いた。
「私、さっき見ちゃったんです」
「?」
「あの子に込められた思い。きっとあの子の母親も同じだったんです。だから見えたんだわ」
彼女は、そらの後ろに若い女を見たと言う。そらと同じく、灰色の髪をした美しい女だったらしい。
その夜は、疲れ切っていた女の代わりに、そらとクロノがふたりで幼子を見守った。
そらは採った薬草を調べ記録していたため眠気に襲われなかったが、このところ《濡烏》の動きを心配し睡眠不足だったクロノは早々に眠ってしまった。
***
月が傾きかけた頃、長老が夜食を持ってきてくれた。
「おや……相方は寝てるのかい」
長老はそらの向かい側に、囲炉裏を挟んで座った。
「お前、もしかしてエレム村からきたんじゃないか」
「なんで分かったんですか」
「これほど薬草の知識を持っている奴はそうそうおらん」
そらが顔を上げると、長老は目を細め懐かしそうに話し始めた。
「わしも昔、重い病気を患ったことがあってな。エレム村から、薬草を採りにきていた男に助けられた。名前は……確か、サラといったかな」
「サラ……」
それが先生の名前らしい。そらはその名前をそっと心の奥にしまった。
「その男もお前が助けたのか」
驚いて長老を見つめると、彼は白い髭の下で笑ったようだった。
「分かるわい。城から逃亡してきた男はひどい怪我を負っているはずだと、治安部隊が言っておったからな」
「え……でも、あの人は俺たちのことを知らないって」
「そら。お前もまだまだじゃのう」
子を守るためなら、それくらいの嘘をつく。長老はそう続けた。
それからふたりは長い間話した。
長老は試すように、色々な話題をそらに振ってきた。それは王国の政治についての議論だったり、歴史のことだったり、多方面にわたった。
物知りと言われるそらでも知らないことは山ほどある。むしろ、知っていることなど、この世界のほんの一部に過ぎないのかもしれない。
話しながらそらは胸が高鳴るのを感じた。今まで知らなかったことを教えてもらうのは何よりも楽しく、満たされることだった。
長老は、多くの物語をそらに持ちかけ、問うた。当たり前だと思っていることこそ疑うべきであるとそらに教えた。
「そら、お前は賢い。一村の教師にしておくには勿体ない存在じゃ。落ち着いたら文章を書くといい。本は後の世まで残りやすい」
「本を……?」
長老は真剣な眼差しを向けてくる。
そらは突然そんなことを言われて不安になったが、視線を逸らすことはできなかった。
次回【第五章】赤い影(六)は 明日2017年5月3日23時 投稿予定です。




