【第五章】赤い影(一)
今朝、こうが宿を発った。このまま安静にさせておけば少女の怪我は良くなるだろうと言った。
彼は少女の身の上については無関心であり、大きな金を要求することもなかった。
そらもクロノも知らぬうちに行ってしまった。自分達を巻き込まぬようにと考えてのことだろう。
しかし、こちらとしては寂しさを隠せない。
暗い顔をしているリトに、マキバは言った。
「そんな不安そうな顔すんなよ。あの怪我人がしっかり回復するまで、俺達はついてんだから」
「うん……」
マキバとユーリは、当分の間宿を出るつもりはないらしい。それがひどく心強かった。
今日も空を見上げる。
晴天。
そらとクロノが命懸けで取り戻したものだ。
突き抜けるように澄んだ蒼が目を差す。
「朝飯食ったらちょっと調べてくる。そらの歌ってた曲が気になるんだ」
マキバがパンを口に含みながら、南の方角を親指で示した。古い図書館がある方向だ。
「ユーリと二人で行ってくるけど、昼までには戻るから」
「わ、私も行きたい」
声に寂しさが滲み出てしまった。恥ずかしくなって俯くと、逆に情けなくなってくる。なんとなく皆に置いていかれてしまいそうな気がした。もう二度と会えないような心細さを感じる。
ユーリがふわりと笑い、
「大丈夫だよ。僕らは急にいなくなったりしないから」
と言う。
その言葉に頷いてリトは大人しく宿に残ることにした。
少女を一人にしておくわけにはいかなかったのだ。
「ちゃんといい子にして待ってろよ」
からかうマキバにあかんべえをしながら、リトは二人の背中を見送った。
何となく、嫌な予感がしていた。
少女が寝ている部屋で静かに絵を書いて時間を潰していた。
特別絵が好きという訳ではない。どちらかと言うと家で大人しくしているより外に出て冒険する方が好きだ。
昼下がりに一度、少女が目を覚ました。
「気分はどう?」
リトが顔を覗き込むと、少女が一瞬だけ怯えたような顔を向けてきた。それをリトは見逃さなかった。
「大丈夫だよ。私何にもしないし」
「……んで」
「?」
「なんで、助けてくれたの……」
暫く考えてから、リトは「何でだろうね」と返した。
「逆に、どうして私達が助けないと思ったの」
「だって、私、ツテシフの人間だし……見たら分かるでしょ」
「うーん……」
少女の質問にリトは唸ってしまう。彼女にとってはクレアスの民もツテシフの民も同じである。なぜクレアスの民だけを助けてツテシフの民を見捨てられよう?
「よく分かんないや……」
確かに自分は世間知らずなのかもしれない。でも、間違ったことは言っていないと思った。
もう日は暮れかかり、ユーリとマキバが帰って来たら一緒に飲もうと思っていた紅茶も冷えてしまった。
「どこにいったんだろう……」
少女が寝ている部屋と酒場を何度も往復する。目を離す気など無かった。ほんの数分の間だったのだ。しかし、後悔したときには時もう既に遅く。午後五時をまわった時、部屋に少女の姿は無かった。
まだ、怪我が癒えていない筈なのに。
「マキバッ……、ユーリッ……」
短く叫んでリトは宿を飛び出した。
*
クレアス王城東庭園--。
「ふあー、今日も寒かったなあ」
一人の青年が夕暮れの道を歩いていく。練習用の剣を背負っていた。訓練からの帰り道で隊舎に戻っているところなのだが、周りにはもう誰もいない。
というのは最近、訓練が終わった後、さらに練習してから帰るようになったからである。
あの、黒髪で二刀流の説教爺。それが全ての理由だった。全く歯が立たなかった悔しさと、少しだけ心の底に芽生えた憧れのせいで、今日も彼は疲れ果てている。
名を、セキリュウという。
赤髪で、狼のように鋭い目をもつ男だ。背は少し低めだが、気にする程でもない。物心ついた時から家族はなく、礼儀も知らぬまま育ったため、周りからは嫌われていた。そのため、あの、クロノという男から言われた言葉が胸にしみる。
(命の重さに変わりはねえ……か)
何となく、いつも厄介者だという自覚があり、実際に人から「生きろ」なんてことは言われたことがなかった。
自分だってこんなつまらない戦ばかりの人生を惜しむ気もなく、死んだらそれまでで、次はもうちょっと人から好かれたいな、とかそんな暢気なことを考えていたところである。
それを、初対面の、あろうことか剣を向けた相手に、生きるんだ、と諭されるとは。
それこそ恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
「あああ……だ、だああっ!」
照れていると、後ろで何かが倒れる大きな音がした。
「え……?」
ふり返ると、誰かが地面に転がっている。セキは驚いて駆け寄った。
「大丈夫か」
背の高い、茶髪の男だった。彼の衣服は朱で染まり、腕や足には縄で縛られたような痕があった。
「く、クロノしは……皆が……」
抱き起こそうとしたセキの腕を痛い程に握りしめ、苦しそうに声を上げる。
(誰か、人を……)
セキが周りを見回したとき、ちょうど通りかかった者がいた。場内の警備の者だった。
「良かったっ、助け……」
「いたぞ! 捕えろ!」
警備の男が怒鳴る。
--何が起こって……。
セキは咄嗟に、庇うように前に出た。
「ちょ、ちょっと待てよ! こいつ怪我してんじゃん! 先に治療を」
「そいつは王国に逆らうものだ」
クロノという名を男の口から聞いたとき、薄々嫌な予感はしていた。今、クロノの教え子達が王国に歯向かっているという噂を聞いていたからだ。彼らは、クロノを処罰の対象として扱い続けるならば兵をやめると言っているらしい。この王国でも最強とされる集団なので、それを失いたくない王国側は必死に説得しているだとか。
(こんなやり方で……?)
一体誰が?
どうやって。
「そこをどけ。王の元に連れていく」
「え、王様のところに……?」
セキが声を震わせたそのとき、今まで蹲っていた男が顔を上げ勝気な笑みを浮かべた。吐き出すように言う。
「はっ……、あんなやつの言いなりになってたまるかよ」
警備員は容赦なくその腹を蹴り上た。男が短く呻いた。
「余程痛い目に遭いたいらしい」
「ク……ロノ師範は、悪く、な……ああっ」
鈍い音がして、思わずセキは顔を背けた。それでも警備員は何かに憑かれたように男を殴り続ける。
夕日が彼らを染め上げる。葉も枯れ落ちた庭に、三人の影だけがゆらゆらと揺れていた。
なんだ、これは……。
セキはこの一場面に、クレアスの崩壊を見た気がした。きっと、これがこの国の末路だ。
(本当の悪魔は、この国のなかに)
もうそれは取り返しのつかないほどに浸食し、人々の心の中に巣食っていた。
次回【第五章】赤い影(二)は 今日2017年4月30日23時 投稿予定です。




