【番外編】ゆめうつつの兎(前編)
水の中に沈んでいく。
息ができない。必死にもがくが、高い場所から落ちた衝撃で身体はさらに水底に沈んでいった。
(また、奴が来る)
(次に目覚めたときは)
(もう、俺じゃないかもしれない……)
ゆっくりと目を開けると、ずっと遠くに水面があった。自分はこの世界で独りだった。
再び目を閉じて、今度は水の流れに身を任せてみた。
(まずい……そら、ごめん……)
目を覚ました時には既に川岸に打ち上げられていた。
怪我を負った少女を背負い、アンデの町に向かっていた。しかし途中で誰かに襲われた。
……あの子はっ……。
はっとして、クロノは「やめろっ」と叫んだ。
気を失っている間、そして今も、体を支配していたのは魔だった。
腕に力を込めて、川から這い上がろうとする自分を止める。
己の意志とは無関係に、体が勝手に動き、生きようとしていた。
行かせてたまるものか。
ここで負ければ一生戻れなくなる。
そんなことは絶対に許さない。
「……は……は……」
必死に岩にへばりついている自分を、溺れているのだと勘違いしたのだろう。
「大丈夫かい、そこの兄ちゃん!」
と声をかける者がいた。何人かの足音がこちらに近づいてくる。
「来るな!」
水中から顔を上げ、叫んだ。既にこの手はガタガタと震えながら刀の柄を握りしめていたのだ。
「親分、何か言ってますぜ」
「構わん。荷物を奪うついでに助けてやれ」
山賊だ。周りを取り囲んで、こちらの様子をじっと窺っている。
「ころ、せ……」
うわごとのように「殺せ」と何度も呟くクロノを見て、彼らは気味悪く思ったのだろう。
「こいつ、おかしいですぜ……目ん玉真っ赤だし。親分、荷物だけ取って逃げましょう?」
と言い、クロノの肩を乱暴に掴む。
水面に映った自分の顔を見て、クロノは息を呑んだ。
(目が……赤い?)
--やめろ!
そう叫んで顔を上げた時にはもう時既に遅く、悪魔に浸食された手は鯉口を切っていた。
水の流れる音に包まれながら、再びクロノは目を覚ました。耳元で水が石とぶつかっては心地良い音を立て、自身の意識が近くなっては遠くなり、遠くなってはまた戻ってくる。
全身が冷え切ると同時に、悪いものに浸食された体は浄化されていく。
このまま、死ねばいい。
自分が自分であるうちに。
周辺は闇に包まれ、今が日没なのか、夜明けなのか、それさえ分からない。
一体自分は、どこでどうなって、どれくらい気を失っていたのだろう。
今ここにいるのは本当に自分なのだろうか。
なんとか、山賊たちは逃がした。
しかし怖い。
体が動かない。浅瀬に打ち上げられ、そのまま死ぬこともできず、まだ息をしている。
でもあと少しの辛抱であった。
このまま、ゆっくりと逝けたら。
(……まさかな。そんなこと……)
クロノは自嘲気味に笑った。楽に死ねるわけがない。もうそろそろ呼吸が辛くなってくる頃だ。
ゆっくり、ゆっくり、苦しみながら死んでいくんだ。
(これが罪の重さか……)
そらに来てほしい。傍に来て、手を握っていて欲しい。眠りにつくまででいい。それなら、耐えてみせるから。
自分であることを確かめながら、ちゃんと、全部受け入れるから。
そんなことを考えていると、崖の上、遠くからそらの大声が聞こえてきた。
「クロノさん--」
自分を探しに来たようだった。
しかし、きっとここを見つけることはできないだろう。
オレンジ色の空が見える。
鳥達が、一斉に飛び立っていく。
自分も、あんな風に自由になれたら。
そして先程までの切実な願いは叶わないことに気付く。……少し、贅沢過ぎる願いだったのかもしれない。
「っ……」
黙っていた手が不意に、再び刀を握り、震えだした。
(まさか……そらを?)
一気にここで死なねばならないという思いにとらわれた。きっとそらは、自分を殺せないだろうから。
「だっ……」
駄目だ。行ってはいけない。
「う……そらァッ……」
逃げろ。
俺の手の届かないところまで。
そら……。
握りしめた刀を自分の首元に持っていく。逃げようとした右手を左手で支え、自身に近づけた。
刃が皮膚に触れ、地面にぽたりと朱が落ちる。
いけるか。
馬鹿。いけなくてどうする。
大丈夫。一瞬だ。
(ごめんな、そら……)
約束、守れなかったな。本当に、ごめん。
ガタガタと、死を拒むように全身が震える。暴れる足をまず切り落としてやろうかと思い始めた時、不意に耳元で懐かしい声がした。
(ウサ……)
まさか。幻聴まで聞こえ始めたというのか。
「あ……く、そ……」
「動かないで」
クロノは大きく目を見開いた。
今、確かに。
「ウサ……」
ぼろぼろと涙が頬を伝っていくのを感じる。
悲しいのか、嬉しいのか。苦しいのか、心地いいのか。
ここはどこなんだ?
俺は、今--。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
右手に掛けられる指。それは確かな温もりをもって、クロノに触れる。
「落ち着いてください。まだあなたは負けてなんかいない。……ほら、ちゃんと、俺の温度分かるでしょ?」
「……ああ……」
刀が地面に転がった。
そのまま自身も力なく横に倒れる。一気に力が抜けて、動くこともできない。息をすると肋骨の辺りが鋭く痛んだ。頭がくらくらとしていた。
「崖からダイブして、その下で暴走して……おまけに何時間も冷たい水の中に。本当にもう駄目かと思った……」
「今まで……どこに」
久しぶりに見たウサの顔は泣いていた。クロノの頬を両手で包み、額を寄せる。
「やっと、会えた……」
次回【番外編】ゆめうつつの兎(二)は 今日2017年4月29日23時 投稿予定です。




