【第四章】思い(六)
やっと二人きりになったので、尋ねてみる。
「悔しい?」
彼はケースからバイオリンを取り出しながら苦笑した。
雨に濡れ風に吹かれぼろぼろになった楽器ケース。装飾は見えなくなり、傷は入り、角も欠けてしまった。それでも、とても大切にしていた。
「すごく良い歌い手を見つけたと思ったんだけどなあ……」
「それだけで口説いた訳じゃないだろう?」
「……ああ。そらもリトも、あとクロノも、人として好きだ。今の時代、自分さえ良ければいいのかと思ってたけど、全く違ったな。皆、会ってから間もない友達のために必死になれる」
こんな風に素直に口を利くマキバは珍しかった。酒場の雰囲気に酔ったのかもしれない。
軽くしゃがんで調弦をしている彼の背中に自分の背を預けた。
「クロノさんはあの女の子を抱えてここまで来たんだね。そして、マキバとリトが助けようと計らった。そらは、自分のことみたいに必死だった」
マキバは手を止めた。
「それであんたは、そらの力になりたいって言った。そこには何人にも干渉されない心があった。……冷や冷やしたけどな」
そこに、不思議な縁を感じざるを得なかった。
「ねぇ、マキバ。君は一体、何者なんだ?」
今まで気にしたことなどなかったのに、突然そう聞きたくなった。
ややあって、マキバは静かな瞳をこちらに向けた。
「……ひかない?」
いたずらっ子のような笑みをその口元に浮かべている。
「やっぱりいいや」
ふっと息をついてユーリは笑い返した。どこかの昔話のように、話したとたん消えてしまう類のものだと困る。
……とても、とても困るのだ。
気づいたら傍にいて、いつも守ってくれる存在。
いつからだろう。彼が自分の隣にいるようになったのは。
*
その音楽は酒場の者をとても喜ばせた。
いつの間にか、会話や皿の音が一つも聞こえなくなっている。
澄んだユーリのフルートの音と情熱的なマキバのバイオリンの音が混ざり、鮮やかな色を作る。
そしてそらの、のびやかな歌声。
クロノは息をすることさえ忘れ、その姿に見惚れていた。
まるで波のようだ。
静かで優しく、時に荒々しい。そこには生命の持つ強い力があった。乾いた砂浜にその水は沁みわたっていく。
「なんだか元気になったみたいだ」
演奏が終わった後、酒場にいた者達は皆、口を揃えてそう言った。
*
結局、皆が寝静まったのは、それから一時間程経ってからだった。
酒場ではまだ何人かの男達が、残ってだらだらと酒を飲んでいる。そのなかに紛れ、クロノも静かに朝を待っていた。
小さな寝息をたててこちらに体を預けている小さな肩に水狩をかけてやる。部屋に帰って寝ればいいのに、と思う。いつか切りたいと言っていたその髪をそっと梳いてみた。癖のない、繊細で真っ直ぐな灰色の髪。
「おぬしも疲れが溜まっておるな」
声をかけられ、振り返ると、先程の医者がじっとこちらを見ていた。
「そらは良い薬師だ。うまく眠れないなら相談するといい」
そらの寝顔をちらりと見、こうはクロノの隣に座った。ボロボロの白衣を着ているが、腕はとても良いらしい。
「お前は俺のこと……分かってんのか」
「一千万金の首らしいな。だが生憎、人殺しに興味がない」
「ふうん……」
変わった男だと思った。長い銀髪を後ろで結んでいる。神経質そうな目が印象的で、病的なほど細身だ。
「そらに、うちで働かぬかと尋ねたら断られた。どうしてもおぬしがいいらしいな」
「本当におかしなやつだよ。薬師が必要なのか」
「ああ。どうも不器用で薬の調合は苦手だ。とりあえず今必要な薬は無理を言ってもらったが」
長い間薬を煎じてくれていた妹が先日亡くなってな、とこうは話した。淡々と--感情を押し殺しているような口調だった。
そらはマキバにも、こうにも、一緒に来ないかと誘われた。そしてどちらも断ってしまった。
……自分を選んだ。
馬鹿じゃないか、と思う。
これに金が絡んでいなければ、ただただ苦しい思いをして帰るだけじゃないか。
いや、帰れるかどうかも、もう怪しくなっている。
「一体何を思っておぬしなんかに付いていくんだろうな」
心を見透かされた気がした。クロノは俯き、余計なお世話だよ、と返した。
「……これか?」
顔を上げると、こうが両手でハートマークを作っている。
「は?」
彼は真顔だ。ハートマークをさらに近づけてきたので思わず後ろにのけぞった。
「おい……そらも俺も男だぜ」
「分かっている。だが、そらはきっと、おぬしのことが好きだぞ」
「フラれたからって適当なこと言うなよ」
「クロノ、察してやれ。この子は良い子だ」
恋愛だけで片付けられる程、軽い話ではない。後で傷つくのは全てそらだ。いずれ彼がクロノを殺すことになるのならば、尚更。
そう、言いたいのだろう。
最後までそらが一緒にいるならば、その可能性はぐんと高くなる。魔に浸食されたクロノを少しでも落ち着かせる力を持っているならば、とどめを刺すのは彼にしかできないことなのかもしれない。
「好きな奴を殺せるか?」
こうの言葉に、クロノはぐっと唇を噛みしめた。




