【序章】雨(三)
ザイルが突然崩れ落ちたと同時に鏡が床に叩きつけられ、乾いた音を立てて割れた。
そして、ザイルの後ろには返り血を浴びたウサが立っていた。
「ウサ……」
彼の目は今までに見たことがないくらい、美しく静かだ。手にしているのは短剣だろう。まったくいつから持っていたのか……。
赤く染まった先を下に向け、じっとザイルを見つめていた。
「た、たすけ……」
ザイルが血に濡れた腕を伸ばす。
ウサはもう一度、短剣を握り締めた。
「ウサ、もういい! やめろ!」
それで憎しみは晴らせない。記憶がウサを苦しめるだけだ。兵は上を信じ続けなければならない。自分がそう教えてしまったから、きっとウサはいつまでも後悔する。
「ウサッ……」
ザイルの首筋から朱が吹き出した。それは彼が事切れたことを示していた。
「クロノ、鏡!」
ぼんやりとしている自分を現実へ引き戻すかのように、エレミスが叫んだ。
鏡。それはさっきザイルの手から落ちて、割れて。
下を見ると、その破片が自分の足元に散らばっていた。鏡の中の自分と目が合う。いや、自分ではない。目が赤い……。
破片一つ一つに、奇妙な程、自分の姿が統一されて映っている。
突然苦しくなった。何かが体内に侵入してくる。そんな感覚だった。何か、わからないもの流れ込んでくる。
持っていかれる!
クロノは立っていることができなくなった。床に膝をつく。地面が揺れている。どっと脂汗が吹き出した。
クロノが目を閉じたとき、どこからか歌が聞こえてきた。
《月が青い夜私は夢を見た
春の訪れを知らせる鳥になって
私の心はあの場所に還る……》
「クロノ、あと少し耐えるのだ!」
すぐ傍で老女の声を聞いた。呪術師だ。クロノの隣でブツブツと呪文を唱えている。その声に重なるように、ずっと歌声は聞こえていた。
土色の床が白に変わり、視界を遮った。血液が逆流していくような感覚。汗が背中を流れ落ちていく。
クロノはただ無心に歌だけを聞いていた。
《月が青い夜
湖に映る光に鏡を沈め
九十三日の夜を待つ
今日は祭りの日 秋祭りの日》
中性的な声だ。優しく、穏やかな歌声だった。
曲調は聞き慣れない民族特有のものだったが、それは心に響いた。
「何……魔の力が弱まった?」
老女の怪訝そうな声。どうやらこの歌に心を落ち着かされたのは自分だけではないらしい。
「気分はどうだ、クロノ」
ゆっくりと目を開けると、老女がじっと彼を見つめていた。その後ろでウサが泣きそうな顔をしている。
「俺、どうなって」
クロノの質問には老女が答えた。
「お前の中には、魔がいる」
「何」
「殺せ、この男を、殺すのだ!」
老女が叫ぶ。
ウサが大きく目を見開いた。そして手を掴み、クロノを立ち上がらせた。
「逃げましょう、師範!」
「ウサ、お前」
「ごめんなさい。こんなことになるなんて、思ってもいなかった……!」
彼はどこまでわかっていたと言うのだろう。
戸惑うクロノにウサは言った。
「師範は、生きていてください」
「行ってください、早く!」
ウサの声が後ろから追ってくる。
振り返ると、ウサの腹に誰かの剣が突き刺さるところだった。
しかし、ウサは止まらない。そのまま三人、四人、と切り続ける。
「ウサギッ!」
ウサが振り向いた。何か叫ぶ。
彼が死ぬのは自分のせいかもしれない。そんな風に思って、クロノは苦しくなった。
頷く。
約束は、ちゃんと守るから。
立ち止まろうとする自分に叱咤しながら走り続けた。ここで死んだ方が楽かもしれないとも思った。
でも死んではいけない。
あの手紙を、
あの手紙を届けなくては……!
混乱のなか、草むらの中から手が伸び、クロノの腕を掴んだ。
*
「ザイルの奴、やはり小物だったな」
クレアス王国、とある部屋の片隅。
太陽の光が直接届かない薄暗い場所に《闇の方》――フォグ=ウェイヴはいた。
彼は、部屋の隅の、豪華な装飾のついた椅子に座り、腹心達の報告を聞いていた。
「あの少年がザイルを殺そうとしていたと、気づかなかったのか?」
兵一人を殺した弓兵に尋ねる。
「い、いえ……他の者が邪魔で、上手く狙えませんでし……」
ザイルが動いた瞬間、兵は怯えた色をその瞳に宿した。
最後まで言い終わらぬうちに、朱が床を染めた。《闇の方》に殺されたのだ。隣にいた兵はその血を浴びても、表情を動かすことはなかった。
《闇の方》は冷たく笑った。
「さすがだな。同僚が殺されても、顔色ひとつ変わらない」
その兵は何も言わなかった。
「それにしても、クロノには私の術が効かなかった。何か知っていることはないか?」
「……」
彼は答えない。ただ、静かにこちらを見つめていた。まるで自分の心の内を見透かそうとしているように。
「ふん、生意気な奴だ。早くクロノを捕まえてここに連れてこい。いいな、コガレ」
*
「くっそ、てめ、放せっ……コガレ」
城の陰の草むらでクロノを捕らえたのは、いつかの教え子だった。確か、コガレという名だった筈だ。深い青の瞳と髪が、目の前で揺れた。
彼は布に含ませた匂いを無理矢理かがせてきた。
途端に体が動かなくなった。
何か言おうとすると、すぐに自分と同じくらい大きな手で口を塞がれる。
「静かに。俺を信じて」
彼は震える声で言った。
「《闇の方》に、ビャクを殺された」
消え入りそうな声だ。
ビャクもまた、クロノの教え子だった。
「《闇の方》……?」
「俺達では彼を止められません。魔に体を奪われたのがザイルだったら、迷わず殺していたのに」
「お前……なん、で」
薬のせいで頭がぼうっとしてきた。ふっと布に包まれたように、クロノは意識を失った。
***
「雨……少し弱くなったな」
灰色の空を見上げ、リクはひとり呟く。
先ほど、これまでに無いくらい強い雨が降った。しかし、偶然だろうか、そらが歌い始めると、少しずつ勢いをなくしていった。
ほんの二、三分程の出来事だった。
道場の軒下で壁に背中を預け、中にいるそらの歌声をこっそり聴いている。
《月が青い夜私は夢を見た
春の訪れを知らせる鳥になって
私の心はあの場所に還る……》
古くから伝わる民謡だ。その歌詞の意味はもう、誰に聞いても分からなくなってしまっていた。
「……」
リョウタは結局見つからず、先日葬式を村人全員でした。
この雨さえ無ければ。
誰に怒りをぶつければいいのか分からない。たったひとりの、大切な弟だった。
でも不思議だ。そらの歌声を聞いていると、悲しみさえ受け入れられるような気持ちになる。明日からはまた苦しい日々が続くのだと分かっていても、この歌に身を預けてしまう。
流れのない水面にそっと触れるような感覚。
ぽっかりと空いた自分の中にゆっくりと流れ込んでくる。
《月が青い夜
湖に映る光に鏡を沈め
九十三日の夜を待つ
今日は祭りの日 秋祭りの日》
もうすぐ、秋祭りの日がやってくる。
【序章】雨(四) は 2017年4月15日 23:00 投稿予定です。




