【第四章】思い(五)
結局、五人が宿に戻ったのは日付が変わってからのことだった。
皆、汗と泥と雨--一部蛇の粘膜で全身がどろどろになっていて、裏門から入り井戸の水で身体を洗い流してから宿に入った。リトはこっそり宿の温泉に入りに行ったそうだが。
女将はクロノを見ると、心底嬉しそうな顔をした。
そして、ゆっくりと、大きくなった彼を抱き寄せた。
「大変だったねえ……」
慣れないことでクロノはまず驚いたが、すぐに安心したように身を預け、静かに目を閉じた。
「こんなに背も高くなって」
「あれから十三年経ちますから」
「あの頃はまだ、二十にもなっていなかった」
クロノは照れ臭そうに笑い、その背中を抱き返した。
そらはそれを見て、無性にアンジュに会いたくなった。
(今頃心配してるだろうな……)
旅が終わって村に帰ったら、こんな風に抱きしめてくれるだろうか。それとも叱られるのが先だろうか。
そんなことを考えて、いつの間にか笑みが零れていた。
「皆、おなかが空いただろう。残り物でいいなら、酒場に降りておいで」
女将は、特別だよ、と優しく笑った。
怪我を負った少女をこの近くまで連れてきたのは、やはりクロノだったらしい。
その話を聞いて、まずは全員でこうのところへ押しかけた。
こうは畳の部屋に布団を敷いて少女を寝かせていた。腕を組んでその隣に坐している。
肩越しに振り返り、こちらに視線を移す。
「今は静かに眠っておる。おぬしらは騒がしいから出ていけ」
クロノは後ろを振り返った。
「お前ら一体、何したんだ」
「何にもしてねえよ!」
「でかい声を出すな」
確かにこのメンバーは煩すぎると思う。そらは先に部屋から出ようとした。
しかし、こうは出ていこうとした彼を呼び止めた。
「お前は残れ。話がある」
こうの視線が静かにそらを射止めた。
酒場は和やかな盛り上がりを見せている。
もらったパンを齧りながら、マキバ達三人は、カウンター席に座っているクロノを囲み、あれこれ尋ねた。
王国に追われている男である。興味は尽きない。
一体何をやらかしたのか、どこまで逃げるつもりか、逃げるあてはあるのか……聞きたいことは山ほどあった。
しかし、マキバは真っ先にそらのことが気になった。
「何であんたの逃亡をそらが手伝ってんだ。元々知り合いだったのか」
いきなり核心を突かれたのが余程嫌だったのか、クロノは眉間に皺を寄せた。そして目を逸らせ、ひとつ、溜息をついた。
三人は黙って彼の返答を待った。
「そらと、おかしな約束をしてな」
「約束?」
「そらと初めて会ったとき……ああ、秋祭りの夜だったかな。深夜の山奥。俺は訳あって、どうしても行かなくちゃならねえところがあった。そしてそらは、訳あって金を必要としていた」
「金?」
「念のために言っておくが、あいつの金の使い道は立派なもんだと俺は思ってる」
村に学校を作るとか言ってたな、と付け足し、クロノは続けた。
「官軍に追われてな。腹を刺されて死にかけていた俺を、そらは殺さずに助けたんだ。半年後、死ぬことを条件に」
「え?」
先にその話をそらから聞いていたらしいリトが、クロノの言葉を遮った。
「でも、その話をそらさんから聞いたとき、クロノさんを殺すつもりだなんて、一言も言っていませんでしたよ。今日だって、クロノさんが崖から落ちたかもって泣きそうに……」
不安げに言うリトに、クロノはぴしゃりと言い返した。
「それなら、そらがこんな旅に付き合う必要なんてなくなる。今すぐ村に帰った方がいい」
「そんな」
「じゃあさ、クロノ。そらを、俺達と一緒に連れて行っていいか」
被った水狩から、クロノの冷えた表情が見えた。
水狩を被っていることについては誰も怪しまない。酒場では珍しいことでなく、お忍びで来ている者もよくいるのだ。
布から覗くのは、感情を無理矢理押し殺したような、苦しげな瞳だった。
お前らに任せた方があいつも幸せかもしれない、と低く呟いた。
「……」
酒場では男達が、こちらの気持ちなどお構いなしに、ギターを片手に情熱的なメロディを口ずさんでいる。
マキバの隣に座っていたユーリは、途中、階段から降りてくる影を見た。
そらである。
しかし、状況を彼なりに悟ったようだ。階段の途中で立ち止ってしまった。
カウンターの真上なので、声ははっきり聞こえただろう。
クロノの声は冷え切っている。
そらはその言葉をひどく寂しいものとしてとらえたかもしれない。
ユーリは目の前のこの顔をそらに見せてやりたかった。
この、困り果てて、ひどく機嫌の悪そうな表情を。
その影に気づかないマキバは、そらが欲しい、ともう一度言った。
「本当に必要としてないお前なんかに預けられるかよ……」
騒がしい酒場とは真逆に、マキバの声は低く、重たかった。
その言い方にむっときたらしい。今まで言われ放題だったクロノが、弾かれたように言い返した。
「俺だってこんな言い方したくねえ。でも、あいつのこと考えたら言えねえだろうが。傍にいてほしいだなんて」
「え?」
「馬鹿野郎。このなかで俺が一番あいつを必要としてる。賭けてもいい」
「そう思うなら、もっと大切にしてください」
突然そらの声が聞こえ、マキバは弾かれたように目を見開いた。
同時にクロノが小さく呻く。
ユーリは苦笑した。
「マキバ、この二人を引き離しちゃうのは……ちょっと無理みたいだよ」
階段のところで天井を向いて座っていた影が立ち上がり、ひょいと飛び降りてきたからだ。そして、迷うことなくクロノの背中に飛びついた。
約束したでしょ、とそらは目を伏せて笑っている。
その笑顔は陽だまりのよう。
「心配しなくても、ついていきますよ」
ああ、彼はこの笑顔に惹かれたんだ。
「……別に心配なんざしてねえよ」
そう呟いて、やっと酒に口をつける彼の顔は、既にほんのり赤い。ほっとした表情なのは、彼が切実にそらを必要としていたからだろう。
マキバは悔しそうに頬杖をついた。
「じゃあさ、そら。今晩くらいは俺たちに付き合えよ」
音楽しようぜ、と彼は言う。
クロノの背中から額を離し、そらは笑顔のまま頷いた。
ユーリはマキバとともに一旦酒場を離れ、楽器を取りに自室に戻った。
次回【第四章】思い(五)は 今日2017年4月27日23時 投稿予定です。




