【第三章】決意、それぞれの道へと(一)
ウォックの町を出てから、そらはよく喋るようになった。何かが吹っ切れて明るくなったのか、そう振舞っているだけなのか、クロノには分からない。
しかし、その分クロノも口を開くようになり、旅は平穏に進んだ。
そらはよく薬草の話をした。
道中、薬になる野草を見つけては、嬉しそうに手に取り、その効能や使用方法を説明する。時にはそれにまつわるエピソードも語った。
「この薬草はクリムソンの林檎の木から採ったもので鎮痛や熱冷ましに使われます。クロノさんにも使ったんですよ」
あの、そらの生活が一八〇度変わった夜のことだ。
そらは青緑色の、いかにも苦そうな葉をクロノの前に掲げた。
「よく効きますが、これを薬にするまでに数年かかるし、飲ませにくいので、ほとんど使われません」
「なんでそんな面倒なもん……」
「興味本位で栽培してたんです。さすがに風邪を引いた子ども達に飲ませる訳にもいかないし……、丁度良いところに実験台が転がっていたものです」
「実験台って」
クロノは呆れた顔をそらに向けた。
彼はけろりとした表情で続ける。
「あなたに飲ませた張本人が言うべきことではありませんが……自分では絶対に飲みたくない代物ですね」
記憶の底に押しやっていた、あの想像を絶する苦味を思い出し、クロノは顔を顰めた。意識が朦朧としていたから、何とか二度目は飲み込めたが、はっきりした意識があれば、その苦味に驚いて死んでいたかもしれない。それくらい、苦い。
「ったく……心底恐ろしいぜ」
「でもこのお姫様、春には綺麗な花を咲かせるんですよ」
「林檎姫じゃない。お前のことだ」
そんなクロノのぼやきも気にせず、そらは続けた。
花言葉は--。
にっこりと笑う。
あの日、赤髪の男と何があったのか、そらは肩まで伸びた髪を一つに束ねるようになった。それもまた凛としていて似合う。
夜中、目を覚ましたときの話はしなかった。そらの中で何らかの納得ができたのならば、横から余計なことを言う必要はない。しかし今度、自分の過去を話してみてもいいかなと思った。
あの一晩で、そらは悲しくもたくましくなったようにも見えた。
「花言葉は〝最後の願い〟昔から最終手段として使われてきた薬草なんでしょうね」
「そんなに深刻だったか」
「言ったでしょう。どこかで使ってみたかったんです」
そういたずらっ子の笑みを浮かべるそらの肩には小さく丸っこいネズミがちょこんと乗っていて、先程から一生懸命木の実を頬張っている。
名は、ハニという。蜂蜜色をしているからと言ってそらがつけた。
「ハニ、ハニー」
「ったく、まだついてきてんのかよ」
「いいじゃないですか。大切な旅仲間でしょ」
(旅仲間、かー……)
そらは優しかった。
あの夜、よく呆れもせず、半ば自暴自棄になっていた自分の傍にいてくれたものだと思う。
そらは尋ねた。
何故北に向かっているのか、と。
低い声がさらに低くなって、さぞかし聞き取り辛かっただろう。
しかし、彼は最後まで黙って聞いてくれた。
クロノは一言一言、絞り出すように、これまでの経緯を語った。
もう何も、隠す必要はないように思われた。
ウサが相談に来たあの日から、王国を追われるまで。
そしてそらと出会うまで。
すべて、はっきりと自分の記憶に刻んでいくように話した。
嘘みたいな話だ。ウサの死も、自分の中にいる奴の存在も、何もかもまだ受け入れられていない。自分の無力さがウサを殺した。自分の弱さが、幾多の人間を殺した。
今になって分かる。
俺はあのとき、死ぬべきだったんだ。
「クロノさん」
クロノの話を聞いて、そらは何を思ったのだろう。
彼は言った。
「行きましょう、ツテシフ」
同情でも哀れみでもない。どうしようもない程、真っ直ぐな瞳を彼は向けてきた。
小指を差し出してくる。
それがどれだけ空虚な行為であることか。
しかし、クロノは迷うことなくそれに自分の小指を重ねた。
触れた指はひんやり、冷たい。
緊張が解けたようにそらがニッと笑い、小指に力を込めてくる。
「大丈夫です。たとえ王国の民がみんな敵だったとしても、俺だけはクロノさんについていきますから」
「お前、慰めてるつもりか? 大体、」
最後まで言わせずに、そらは小指を額に寄せた。
「約束です」
「……」
「その手紙を必ず届けましょう。どれだけ苦しくても」
三度、縦に振る。
互いのすべてを懸けた約束だった。
*
(光が……辛くなってきた)
呪術を使い始めてから、日の元に出ると眩暈を覚えるようになった。
元々、フォグ=ウェイヴは呪術師の身だった。そこからどんどん這い上がり、今の宰相という地位に至る。全ては王に近づき殺し、国を滅ぼすため。
迷宮神殿に封印された悪魔の話は呪術師の間で有名だった。しかし肝心の迷宮神殿がどこにあるのか分からず、どこか伝説じみた話だった。
それが、宰相になって数年、ツテシフに偵察に行っていた部下のザイルが湖のほとりで鏡を見つけ持って帰り、自分の目に入った。
偶然か、それともはじめから定められていたのか。とにかくそれは、百年前に魔を封印した鏡だった。
これで、この、憎いクレアス王国を滅ぼすことができる。
この鏡を見つけてから自分の目的が少しずつ変わり始めた。最初は本当に、復讐することだけを考えていたのだ。それが、呪術の力を使って王国の頂点を望むようになった。目指すのは、闇に包まれた王国。自分だけがすべての力を手にしている世界だ。
結果、ザイルは死に、どういう訳か、クロノという武術師範がその魔を体の中に取り入れてしまった。
彼は今も逃亡中である。彼がどうして今も悪魔に喰われることなく生きているのか、不思議で仕方なかった。
国王は、同じ呪術師である老女の意見を取り入れ、クロノを殺すことを国中に命じた。
しかし、彼は元々剣術において城一と称される男である。まして、恐ろしい悪魔が取り憑いている体だ。そう簡単に殺されるとは思えない。そして憑代は自殺もさせてくれないから。
自分は目的のためにクロノを生かして連れてこなければならなかったが、彼の安否を心配することはなかった。
生きてここに戻ってきた暁には、一体何の魔法を使ったのか、どんな手を使ってでも吐かせてみせる。
以前、彼の調練を見たことがある。あの鬼のような表情が情けなく崩れる様を見るのも、案外面白いかもしれない。
「クロノ、か……」
王国では《濡烏》の他、エレミスが治安部隊を動かして彼を追っていた。
エレミスは大臣として大きな権力を持つ男だ。元々クロノと仲が良かったらしい。
クロノを殺せ、という国王の判断、そして、そのために教え子を使えという命令を彼はどうしても許せないようで、渋々、クロノとは縁のない兵を動かしている。確かに王国は残酷だった。
*
夜明け前、苦しくて目が覚めた。血なまぐさい悪夢を見ていたような気がするが内容は覚えていない。
クロノを現実に連れ戻したのは、そらの歌声だった。
森が重苦しく沈黙しているなか、そらの歌声は優しく響いていた。
「そら……」
名を呼ぶと、彼は振り返った。
「大丈夫ですか。魘されてました。声をかけても起きなかったので」
「続けろよ」
肩でそらの体温を感じながら、もう一度目を閉じる。どうしようもなく眠かった。
時々、ひどく魘される。戦場で初めて人を殺したときから夜が長くて苦しかった。
人殺しを続けていたら、心が麻痺して、いつの間にか嘔吐することも、悲しむことさえも忘れてしまう。
それでも夢は見る。目が覚めても大抵一人で、共に酒を飲む相手を探すのも億劫だった。
以前エレミスに、夜が長すぎる、とぼやいたら、女を抱け、と返された覚えがある。そしてその通り無茶をした時期もあったが、それでも心が安らぐことはなかった。
しかし、今はとても落ち着いていた。
そらの歌声は悲しみを忘れさせるんじゃない。悲しみさえも受け入れる、そんな優しさを教えてくれる。
もう一度眠りの淵へ落ちていく。
「!」
不意にクロノは飛び上がった。すぐに刀を手繰り寄せ、驚いているそらに言う。
「……《濡烏》だ」
「え?」
ハニが威嚇するようにじいじいと鳴いた。木の上を駆けて、こちらに近づいてくる気配。
「ウォックで無茶し過ぎたな……。これで足がつかない方がおかしい」
「官軍ですか」
「暗殺部隊だ」
「逃げます? バトります?」
布に巻かれた槍を抱え、尋ねてくる。
「……」
次の町に行くのに三日はかかる。逃げきれるとは到底思えなかった。
「とにかく走るぞ!」
「はい!」
夜明け前を狙ってくるところが《濡烏》らしい。闇に紛れて誤魔化せる相手ではなかった。
もしも、そらが見つかったら。
(ここで食い止めねえと)
クロノは足を止めた。
「どうしたんですか、クロノさん!」
「次はアンデの町だ」
「え?」
クロノは筒状に巻いた地図をそらに投げ渡した。それは美しい弧を描き、驚いているそらの手の中に納まる。
「木の宿。そこで待ち合わせよう」
そらの顔が強ばった。
「大丈夫なんですか」
「ああ。クロノって言えば助けてくれるはずだ」
「そうじゃなくて!」
ああ、俺のことか。
クロノは口元に笑みを浮かべた。そらの腰から小刀を取り上げる。
「必ず戻るさ」
何か言いかけたそらを目で制し、早く行け、と手を振った。文句なら、必ず、後でいくらでも聞いてやるから。
必ず追いつく。
そしてお前の元に戻るよ。
「行け! 早く!」
何十人もの足音が近くなる。
そらはぎゅっと唇を噛み締め、頷いた。そして、背を向けて走り出した。
「饅頭! そらを」
こちらは威勢の良い返事があった。
クロノは辿って来た道を振り返り、大刀を抜いた。
(上手く逃げてやるさ……)
遠く、空を駆ける影が見えた。
次回【第三章】決意、それぞれの道へと は 明日2017年4月23日23時 投稿予定です。




