【第二章】ウォックの町(一)
突き刺すような寒さを感じながら自分は走っている。
暗闇のなかをずっと走っていくと、やがて前を歩いていく背中が見えた。
「クロノさんっ!」
そらの声に気付くことなく、その背中はどんどん遠ざかっていく。待って、と叫ぶが、その声は届かない。彼の姿が見えなくなってもそらは走り続けた。不思議と息は上がらなかった。
地面にぬる、とした感覚があり、そこでようやく足を止めた。ゆっくり足踏みをすると、ぴちゃ、ぴちゃ、と水の音がする。不意に肩を後ろから掴まれた。
「そら」
クロノの声だ。ぱっと振り返る。
「よかった、クロノさん。俺、探して」
そらは途中で言葉を止めた。
血に濡れた頬に、ぎらりと光る眼。口からはみ出している犬歯は鋭い。
クロノさん……?
咄嗟に振りほどいたクロノの手は朱に染まっており、それは迷うことなくそらの首を絞める。
「あ……っ」
もう駄目だ。そう思った瞬間クロノが崩れ落ちた。
同時に自分が何かを手にしていることに気が付く。
「あああ……」
それは、赤く染まった短刀だった。
俺が、殺した。
「そら。……おい、そら!」
夜明け前、クロノに肩を揺すぶられ、そらは目を覚ました。
いつの間にか毛布が肩から滑り落ちている。
「夢……」
寒くて身震いすると、隣から手が伸びてきて、毛布を掛けなおしてくれた。
じっと腕に額を寄せた。心臓がまだ、バクバクと鳴っている。先程まで血に濡れていた指先が震えた。
「酷いうなされようだったな」
顔を上げると、クロノが笑っていた。
渡された白湯をすするとひどくほっとした。全身に沁みわたり、失われた体温がゆっくりと戻ってくる。
「心配してくれてたんですか」
「馬鹿。あんまり油断してると寝首を掻いてやるからな」
クロノの言葉にそらは笑い返したものの、まだ緊張は解けず、コップはぎゅっと握りしめたままだった。
*
紫に染まる静かな山道を会話もなく歩いていく。
初めは、ひどく低血圧らしいそらが「眠い、眠い」と駄々をこねていたが、自分が聞く耳を持たない今、その声さえもなくなった。
そりゃあそうだ。彼のペースに合わせていては九十三日どころか、一生かかってもツテシフへ辿り着けやしないだろう。
やがて空が白くなり、足元がはっきり見えるようになった頃、足を止めた。
「ウォックの町に行く」
「?」
「死にたくなかったら離れんな」
その言葉にそらは暫し首を傾げ、そして、にっこりとして頷いた。
「はい」
……どこか緊張感が無いんだよな。
クロノは首に巻いていた紺青の布を、鼻先まで押し上げた。
「行くぞ」
*
ウォックの町は賑わっていた。しかしその裏には闇がある。
高い笑い声と喧騒が混じり合って、そらは頭がぼうっとするのを感じた。
市場で売られているのは果物や布、武器だけではない。
暗い路地裏に目を向けると、地面に座り込み、宙に手を伸ばす人達がいた。その隣では、怪しい取引をしている男もいる。
薬だ、とクロノはこっそりとそらに教えた。
きょとんとした顔を向けると、彼は溜息をついた。
「お前、薬草はとんでもない物を使うくせに、こっち方面は駄目なんだな。興味本位で近づくなよ」
怖いぞ、と低い声で脅され、そらは頷いた。
もう一度路地裏に目を向けると、取引をしている最中の男と目が合った。薬を受け取った彼の虚ろな目。そらは慌てて視線を逸らせた。
突然女の叫び声が聞こえた。ぎょっとして振り返る。人攫いだ。
「あんまりボケっとすんな。絶対俺から離れるなよ」
クロノが肩越しに振り返り、顔を真っ青にしている自分に釘を刺す。そして、何かあっても絶対に助けない。助けられない、と念を押した。
クロノが市場で必要なものを買っている間、そらは道の端に避けて彼を待っていた。そうでなければ人の波に押し流されてしまいそうだったのだ。
クロノは一度こちらを振り返った。ちゃんと自分がいるかどうか確認してくれたのだ。なんだかんだ言いつつも優しい。心配ない、と笑顔で手を振ると、露骨に嫌な顔をされた。前言撤回。
間の距離はたった五メートル程。彼も心配ないと判断したのだろう。そのまま古具屋の主人に声をかけた。
ウォックの町はこの調子であるから、王国からの広告も広まらないらしい。
柱に貼られた紙は落書きをされていたり、破られていたり、もう滅茶苦茶で、とても情報を得られるようでなかった。
そう、クロノを見て捕えようとする者はいなかったのだ。
古具屋の主人がクロノに、何やら厄介そうなものを押し付けている。目の良いそらは、すぐに、それが何だか分かった。片刃の劔である。その扱い辛さ故、王国内で使う者はあまりいない。
どうするつもりかと、じっと見守っていると、後ろから声をかけられた。
「君、見かけない顔だねえ」
拙い。突然の出来事に体がうまく反応しなかった。
声を上げる前に、腕を掴まれ、大きな手で口を塞がれた。
助けを求めてクロノに目をやると、彼は片刃の劔についての話を主人から聞かされているようで、こちらに気付く様子もない。
――クロノさん!
声が、出なかった。
*
古具屋の主人は、文字通り古いものを奥から出してきた。
……片刃である。
この王国内での需要は無いに等しい。両刃の剣に慣れている士は、片刃になると戸惑い、扱い辛く感じるのだ。
クロノが眉間に皺を寄せたので、主人は慌ててその剣の説明を加えた。
「この劔はご覧のとおり片刃だが、それはそれはよく切れる。切りたくない相手だったら、反対側で打てばいい」
「見慣れない客だからって、売れないものを押し付けてんだろ」
「ははは……。でもこれが一番安いよ。皆怖気づいちまって買わないからね」
クロノは溜め息をついた。
「いくらだ?」
「百シノリ」
「高いな……。どうせ片方しか研いでないんだろう?」
「じゃあもう一本つける!」
長さに極端な違いがあった。長いのと、短いの。……片刃が二本あっても困るのだが――このときクレアス王国には二刀流の文化は無かった。
クロノは適当に剣を二本扱うこともあったが、邪道とされあまり好かれていなかったし、自身も窮地の時以外は使わないようにしていた。
(そらに一本やるか……)
護身用だ。そう思いながら先程彼がいた方へ目をやった。どきりと、心臓を突かれたような気持ちになる。
(いない?)
慌てて辺りを見回したが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
「どうした? お客さん」
「連れがいない。急ぐ。あと……」
一瞬考えて、クロノは尋ねた。
「そこの小さいノートと、ペンは?」
「これかい? 売り物じゃないけど、買ってくれるなら喜んで売るよ。処分に困っていたところなんだ。十シノリでどうだい」
処分品のくせにちょっと高いんじゃねえの。思わず文句を言いそうになったがそんな時間もなかった。
クロノは百十シノリを渡し、二本の刀と文房具を受け取った。
そして、心配そうな主人をよそに、駆け足で店を離れた。
次回【第二章】ウォックの町(二) は今日2017年4月20日23時 投稿予定です!




