【第一章】城からの逃奔(七)
そらが目覚めると、クロノは既に隣にはいなかった。
慌てて起き上がり辺りを見渡す。まだ早朝で山は静かだった。
(どうしよう……)
そらは両手を頬に当てた。
自分は何をやっているのだろう。男を殺すつもりで山の中に入った。
それにもかかわらず、見逃すどころか助けてしまうとは!
リクになんと言えばいいのやら。
しかし、それよりも大変なことがひとつある――。
そらは、手を頬に当てたまま叫んだ。
「く、クロノさん!」
「俺がどうした」
背後から声が聞こえ、はっとして、振り返った。
どこから帰って来たのだろう。
彼は頭から水狩を被って、入口の所に立っていた。昨晩は暗くてよく見えなかったが、深い紺青の布だった。
「あ……怪我、大丈夫ですか」
そらの気遣うような声を聞き、彼は溜め息混じりの声を出した。
「お前、本当に変わってるなあ……」
薪に火をつけ、クロノは朝食の準備を始めた。市場で食料を買ってきたようだった。
布を被っていたのは、姿をできるだけ隠すためだろう。
「ほっとしたらまた眠くなってきた……、もう一回寝てもいいですか?」
「低血圧かよ」
「眠い……」
寝返りをうち、布を取った彼の顔を改めて見てみた。
決して華やかな訳ではないが、端正で人を惹きつけるような顔立ちをしている。
そして、どこか翳があった。
(これじゃあ女の人が放っておかないだろうなあ……)
羨ましい限りである。
そう朝一番の働かない頭で考えていると、だんだんとパンの焼ける匂いがしてきた。
クロノがそれを素手で取り、こちらに差し出してくれる。
「ほら。腹に入れとけ」
「ありがとうございます」
睡魔よりも空腹が勝って、そらは飛び起きた。ここは遠慮なしに頂くことにする。
温かいパンを口に入れ、ゆっくりと咀嚼すると、口の中で甘みが広がった。
「雨も止みましたし、これで安心ですね」
ほくほく笑顔になるそらを見て、
「いや、まだみたいだぜ」
とクロノは一枚の紙切れを掲げた。
挑発するように笑っていた。これを見てもまだ俺を生かすのか、と。
「市場に行ってきた」
見ると、その紙には王国からの知らせとして、まだ男を殺さねばならないという内容が書かれていた。
そして賞金はさらに上がっている。随分と必死さが感じられる広告だ。
「何をしたらこうなるんですか?」
「見た通りだ。よく分からんものに憑かれた……突然な」
クロノがギリと悔しそうに歯を食いしばったのを見て、それ以上は尋ねないことにした。
「九十三日後が楽しみですね」
「お前……まさかついてくる気か?」
「そらといいます」
ニコリ、と笑顔を向けると、彼は露骨に顔を顰めた。
「助けてもらったことには感謝する。でも俺は連れて行かねえぞ」
……しかし、こちらも村を裏切ってしまった身である。なんとしても賞金を持って帰らねばならなかった。たとえ、それが危険な道のりだとしても。
そらの決意は固かった。
「いいですよ。それなら勝手についていくまでですから」
数分睨みあった後、ふたりは共に晴れた空を見上げることになる。
*
クレアス王国の宰相であるフォグ=ウェイヴは、頭脳明晰で交際上手だと周りから一目置かれている優秀な人材である。
彼の裏の顔を知っているのは、数十人いる直属の部下だけだ。しかし《闇の方》の力を恐れる彼らに、逃げることなどできなかった。
薄暗い部屋のなか、コガレがひとり、呼び出されていた。
今日も《闇の方》は日の当たらない場所に座っている。
黒魔術を使い始めてから、太陽の元に出るとひどく疲れるそうだ。
黒魔術を使えば恐ろしいほど大きな力が手に入る。しかし一方で、受ける負の影響も大きい。
コガレには彼が惨めに思えた。
そして同時に、ざまあみろ、と心の中で嘲笑った。
いつも偉そうにして虚勢を張っている彼が苦しんでいるのを見ていると、楽しい。堪らなくなる。おかしくて、堪らない。
そんなことを思いながら《闇の方》の前に座っていると、彼の方から声がかかった。
「お前ら、たしかクロノの元教え子だったな。ビャクも、サフランも」
「……」
「あまりに、私に従順だったから忘れていたよ」
責められている。どうしてクロノを捕えられなかったのかと。
聞いて呆れた。信用できない部下ならば、さっさと殺してしまえばいいのに。
コガレは鼻で笑った。
「そんなことが理由だと思ってるんですか。笑止な。一番困るのは、失敗して、あなたに殺される私ですよ」
逃げられたんです、そうコガレは念を押した。
「望み通り殺してやろうか」
「どうぞ。こんな命、とっくの昔に捨ててる」
笑みを浮かべる。少しの間、ふたりの間に沈黙があった。
《闇の方》の表情は動かないが、拳は小さく震えている。理解者がひとり減ることに対する怒りか……恐怖か。
「相変わらず生意気な」
《闇の方》は指を鳴らし、他の兵をふたり集めた。コガレより少し身長の高い男が、命令を受ける前に後ろから両腕を捕える。
(あーあ。向かうとこ、敵ばっかだな)
小さく舌打ちをして抗ったが、さらに強く押さえ込まれるだけだった。
《闇の方》は少し楽しげな表情になった。大方先ほどの自分と同じような気持ちだろう。
自分と彼は似ている。そして、極の同じ者は、一生交わることなどない。
「こいつを牢に閉じ込めておけ」
一番似ているのに、一番分かり合えない存在。コガレの口元が歪んだ。
*
一定間隔を置いて、そらと名乗る少年がついてくる。
既に太陽は真上を通り過ぎ、沈んでいるところだった。
この半日で山をひとつ越えたが、それでもまだ、延々と山道は続く。
クロノは時々立ち止まり、後ろを振り返った。その度にそらは、わざとらしく、渋々といった風に、木の陰や大きな岩の裏に隠れた。
(馬鹿にしてやがる……)
行って、その頭を小突いてやりたい気分になる。だがここは我慢だ。放っておけばそのうち諦めて帰るだろう。
彼は相変わらず竹槍を手にしていたが、後ろから襲ってくる気配はなかった。苦し紛れに言った九十三日待ってくれ、という言葉を覚えてくれているのだろうか。
(だとしたら、相当なお人好しだな)
しかし少年の純粋で真っ直ぐな瞳や態度は不思議と嫌いになれなかった。
もっと前に城で出会えていたらどれほど良かっただろう、と思うくらいに。
クロノは頭のなかにこれから行く道を描いた。少年がどこまでついてこられるか。あるいは、引き返せなくなる地点はどこか……。
(馬鹿。もう引き返せなくなっちまってる)
道が分かれている手前で、クロノは足を止めた。
「おい、いつまでついてくる気だ?」
「約束、忘れたんですか」
あの少年にしては低い声だった。
「……口約束なんて、信じたのが悪い」
性格悪いな、と内心自分を責めながら、できるだけ冷たい口調で言った。思ったよりも悲しい声が出た。
「クロノさんは、どこへ」
ツテシフ。そう答えたら、諦めてくれるだろうか。一瞬そう考えたが、それが王国に伝われば、自分の旅は終わりである。
「誤魔化すな。後悔しても知らねえからな」
帰れ、帰れ、と手を振るが、そらは石のように動かない。
「お前……見かけによらず頑固だな」
勝手にしろ、そう言ってクロノは、真っ直ぐに伸びている方の道を選び、再び歩き始めた。
次はウォックという町を通ることになる。賑やかな町だが、布を被って突っ切れば問題ないだろう。先日のように、血を流しながら歩く心配もない。
そして王国は今、自分が北へ向かっていることを知らなかった。
次回【第一章】城からの逃奔(八)は 今日2017年4月19日23時 投稿予定です。




