【第一章】城からの逃奔(六)
重い薬箱を両手で抱えそらが男の元に戻ると、彼は同じ体勢で横になっていた。
意識が朦朧としているらしく、声をかけてもきちんとした返事がない。額に手をやると燃えるように熱かった。こんな状態で先程まで立っていたというのか。
傷が深い。とにかく止血をして、痛み止めの薬を――その前にこの高熱を冷まさなければ。
下手をすれば後遺症が残り、最悪死に至るかもしれない。
(あの薬を使ってみるか……)
そらはランプの熱で、持ってきた水を温めた。
ある薬草をすり潰して乾燥させたものをそこに溶かす。
暗くて色はよく分からないが、ドロドロとした何やら恐ろし気な液ができた。
そらは苦笑した。飲ますのに一苦労しそうだ。
男を抱き起して、口の中に流し込む。
数多ある薬草のなかでも、特に苦いものだった。その粘着性故、しばらく起きていないと、胃まで届かない可能性がある。一癖二癖ある代物ではあるが、それだけ効果もある。
しかし……これを飲むくらいなら、自分は死んだ方がマシだと思う。
すぐに男は顔を横に背け、その場で嘔吐した。
しかし、胃に入っているものなど何もなく、吐き出したのは朱だけだった。
問答無用。
……彼には問答する力も残っていないようだが。
心を鬼にして、もう一度飲ませる。再びえずいたらしかったが、次は顎を押さえ、無理矢理飲ませた。ぎゅっと閉じられた男の目尻には生理的な涙が浮かんでいた。
「名前、なんていうんですか」
男はクロノ、と答えた。
「クロノさん」
その名を、小さく反復する。
「あと少しだけ、五分だけ起きていてください。この水を飲んで」
「う……」
「クロノさん!」
クロノが目をうっすらと開く。その眼はそらではない誰かを見ていた。
「ウサ……」
「クロノさん……?」
「ウサ……ごめん……」
夜が明ける前に、洞窟の中にクロノを寝かせた。
此処は這うようにして生えた草に覆われていて、外から見つかりにくい。
一番暗い時刻。そらはようやく眠りについたのだった。
*
淡い光が視界に差し込んでいた。いつの間にか、眠り込んでしまったようである。こんな風にぐっすりと眠れたのは何年ぶりか。
どうやら洞窟の中にいるらしい。
カーテンのように入口を覆う植物が、外からの視界を遮っていた。
クロノはゆっくりと息を吐く。
昨晩、冬が近づいているにも関わらず寒さを感じることはなかった。むしろ汗をかいたらしく、熱は下がっていた。隣でぐっすり眠っている存在のおかげだろうか。
それは水狩布と見知らぬ毛布を、二枚重ねて被り、自分の腹の上に頭を乗っけていた。
彼も寒いだろうに、自分の体に毛布が多くかかるよう配してくれたようだ。
「わざわざ腹に乗るなよな……」
怪我をしている右腹は避けているが、重いのに変わりはない。
そうわざと悪態をつきながらもクロノは彼の頭を膝に移した。
ゆっくりと起き上がる。
そのときに落ちた毛布を、その小さな体にそっとかけてやった。
腹に手を当てると、包帯がきっちりと巻かれていた。
まだ痛むが、昨晩よりずっとよくなっていた。
――奇跡って、案外高い確率で起こるらしいですよ。
コガレの言葉が蘇った。
九十三日待って欲しい、自分はそう言った。
暗闇のなか、まだ眠るな、薬が効くまで起きていろ、そんな切羽詰まった声がずっと聞こえていた。何度か返事もした気がするが、何と言ったのかさっぱり覚えていない。
……昨晩、ひんやりとした空気が上半身に触れ、濡れた柔らかい布が傷口を拭った。
包帯を巻く手つきに迷いは微塵も感じられなかった。理由を聞く余裕もなく、その手の温かさに安心して。
少年は自分のことを知っていた。しかし彼は自分を生かした。
彼なりにたくさん悩み、考えた結果だったのかもしれない。
「いくら感謝しても足りねえな……」
クロノはぽつり、呟いた。
次回【第一章】城からの逃奔(七)は 明日2017年4月19日23時 投稿予定です。




