【第一章】城からの逃奔(五)
……どれくらい気を失っていたのだろう。
そらは、雨粒の弾ける音を聞きながら、ゆっくりと目を開けた。
辺りはまだ暗く、夜が明ける気配もない。
月の位置を見ると、眠っていたのはほんの少しの間だったことが分かった。
大きな木に寄りかかるようにして眠っていた。雨がかからないように、頭から布を被せられていた。
顔を上げると、近くにランプが置いてあった。それはぼんやりと地面を照らし、所々にできた水溜りに反射する。
「う……」
不意に、近くから呻き声が聞こえた。
声がした方向に目を向けると、先程の男が地面に横たわっている。ただ寝ているのではない。彼の様子がおかしいことに、そらはすぐ気が付いた。
「大丈夫……ですか」
恐る恐る尋ねると、不自然な返事が返ってきた。
「にげ、ろ」
低く、押し殺したような声。
「え?」
「早く……」
自分は逃げることができないから、お前だけで行け。
男はそう言っているのだ。
「あなたはっ?」
「あいつが……、また、来る……」
もうそらの声は届いていない。
彼は必死に戦っているように見えた。でも、一体何と?
それきり、声は聞こえなくなった。
どうしていいか分からず、しばらくして、そらはもう一度尋ねた。
「あいつ? 誰ですか、それ……」
「はは。俺か?」
「!」
声色が変わった。長い眠りから覚めたばかりのような、嗄れた声だった。
「誰……」
ゆっくりと近づいてくる。それは、先程の彼であって、彼ではない。
そらはすぐに悟った。
男が悪魔なんじゃない。男は、体のなかを、何か、悪いものに巣くわれているのだ。
「殺してやる……。殺してやる……」
男の目が赤く光っている。怒りに燃える悲しい色だとそらは思った。
慌てて立ち上がり辺りを見回し、近くに置いてあった槍を拾った。
(どうしよう……!)
一歩後ずさる。どのような手で襲ってくるのか、まるで読めない。
しかし、向こうは怪我をしていた。他の者が無理矢理動かすにしても、限度があるだろう。
(本気でかかれば殺れるかもしれない)
この槍で一突きすればいいだけだ。あちらの動きは鈍くなっている。
これは断罪じゃない。自らを守るために、こうするしかなかった。
――可哀想……。
子ども達の声が、耳から離れない。
そらは唇を噛んだ。じわりと口の中に広がった鉄の味が彼の頭を冷静にさせる。
魔の瞳の奥から感じられる悲しみ。
そこに本当の悪は感じられない。
助けたい。そう思った。
同情? ……そうかもしれない。ずぶ濡れで可哀相だ。
しかし、それよりも先程聞いた男の穏やかで優しい声にどこか惹かれてしまった。
これは覚悟であり決意だった。
この選択に自分は二度と後悔しない。絶対、しないから……。
歌で悲しみは癒せる。
昔自分にそう教えたのは……。
《移り変わる季節に人々は歌う
巡りゆく命に私は祈る》
ゆっくりと滑り出すメロディ。透き通るような声が響いた。
それは、濁り、重たい空を浄化していく。
《月が青い夜 私は夢を見た
春の訪れを知らせる鳥になって
私の心はあの場所へかえる
春は種を
思い出に迷う森の小路
どこかできいたメロディは
きっと去年の春の唄
夏は水
夕やけ鳥に思いを馳せて
どこかできいたメロディは
きっと誰かの愛のうた
秋は収穫
過去に戻る道は開く
どこかできいたメロディは
きっと昔の童歌
冬は耐え
気が付けばひとり
どこかできいたメロディに
こっそり泣いた別れ詩
月が青い夜 私は夢を見た
湖に映る光に鏡を沈め
九十三日の夜を待つ
今日は祭りの日 秋祭りの日》
「う……誰……」
男が急に倒れたため、そらは歌うのを止めて慌てて駆け寄った。
抱き起し顔を覗き込む。
雨が止み、ぼんやりと月明かりが差し込んだ。
男の顔は青白く、眉間に深い皺を寄せ痛みに耐えているようだった。
彼は苦しげな呼吸を繰り返しながら、声を絞り出した。
「……もし……情けをかける気なら、九十三日、待ってくれ」
かすかな声量だったが、それははっきりそらに伝わった。
地面を濡らす真紅が、傷の深さを物語っている。
男は続けた。
「あそこに辿り着けたら……首でもなんでも、くれてやるよ」
*
夜中に物音がしてアンジュは目を覚ました。
すぐ隣で何者かの動く気配がしている。
「……そら?」
尋ねると、よく知った声が返って来た。
「あ……アンジュさん」
声変りをしたにしてはまだ幼さの残る声。
本人は気にしているようだが自分は案外気に入っている。低く過ぎず高く過ぎずどこか落ち着く、透き通った優しい声だから。
「帰ってたのか」
「はい」
そらがこちらを振り返ったようだった。暗がりで姿は見えないが、気配で分かる。
「寝ないのか?」
「ちょっと用事ができて」
彼は薬箱を持ち出しているようだった。後から考えるとおかしな話だったが、寝ぼけていた自分はあっさりと、そうか、とを返事した。リクといたずらでもして怪我したのかと思ったのだ。
再び布団に潜りながら「気を付けろよ」と声をかけた。
すると、そらが、くく、といつものように笑うのが聞こえた。いや……泣いている?
「どうした、怪我でもしたか?」
アンジュが慌てて飛び起きると、そらの姿はもうなかった。
*
暗闇の中でもよく知った道だったため、そらは走って戻ることができた。
前から同じように誰か走ってくる。
「そら……?」
リクの声だ。そらは立ち止まった。
いつも健康そうな小麦色の顔が、今はひどく歪み、暗い色を帯びている。
「いきなりいなくなんなよな……。そらまでいなくなったらって考えたら、俺、不安で」
その声は掠れていた。
ひどく心配させてしまったのが、ここからでも痛いほどに伝わってくる。しかし、
「リク、ごめん」
言うと、そらはリクのもとに走り寄り、腹に一発、食らわせた。
「っ! そらっ……」
迷わなかった。山の中で聞いた自分の声がまだ耳の奥に残っていたから。
崩れ落ちるリクの体を抱き留める。一層強く抱きしめて、そらは声を押し殺しながら何度も謝った。
「ごめん……ごめんな、リク……」
次回【第一章】城からの逃奔(六)は今日2017年4月18日23時 投稿予定です。




