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九十三日の幻、永遠の約束  作者: 吾川あず
【第一部】王国逃亡
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【序章】雨(一)


 クレアス歴三〇〇〇年――。


 その王国は数カ月にわたって降り続く雨に悩まされていた。

 刈り入れ時ということもあり、人々は不安に呑まれている。このまま雨が続けば、飢饉、病気、地盤の緩み……禍は数えきれそうになかった。


 そんな状況のなか、一人の呪術師が城に呼ばれた。今年で齢百三十になる老女である。今までに何度も王国を救ってきた。その女が言うのである。


 迷宮神殿に封印されていた魔が、何者かによって持ち出された。

 雨はその魔の封印が解かれようとしている徴であろう、と。

 

「魔は百年前に鏡の中に封じられて、それからずっと迷宮神殿の奥に」


 迷宮神殿は、北部、ツテシフのそれよりもっと北西、森の奥深くに眠っている。


 女はしわがれた低い声で、


――魔を殺せ


 と言った。


***


 クレアス王国の南に、大きな城があった。

 

 何百もある扉と窓は降り続く雨のせいで今夜も重く閉ざされている。

 びゅうびゅうと吹きつける風はひどく冷たい。闇に包まれた外を歩く者は誰一人としていなかった。

 

 その時、一つの扉が、ぎい、と錆びた音を立てながら開いた。どうも立てつけが悪いらしい。調練場の扉である。

 そこでは今日も数多の兵達が調練を受けていた。


 いつの間に日が沈んだのか。長く延びた訓練を終わらせ、クロノは外に出た。


「ひでえ雨だなあ」

「早く行こうぜ」


 調練場から出てきた兵達は、誰ひとり頭に布も被らず、疲れきった足取りで浴場へ向かう。


 パタパタと忙しい音を立て、雨粒が地面を叩いている。

 ひんやりとした空気が汗で濡れた背中を冷やす。寒気を感じてクロノはぶるりと肩を震わせた。


 クロノの黒色の長い髪は一つに束ねられ、背中までかかっている。元々は整った顔立ちだが、ここまできた苦労のため年齢よりも老けて見えた。

 彼は王国軍の武術師範だった。戦争に出たことのない見習い兵に、兵として最低限の武術を叩きこむ。


 上級兵になるための試験を利用して賄賂を集める者がいる一方で、クロノは彼らに血を吐くような訓練をさせていた。上に対しても構わず意見を言うため敵が多い。それでも、教え子達には慕われていた。


 調練が長引き、浴場にいるのはクロノが先程まで教えていた兵達だけだった。クロノは少し離れた場所から、楽し気に喋り騒いでいる彼らを見守っている。

 若く、戦場を知らない者達はまだまだ幼さが残る。たくさんの笑い声が浴場に響いていた。


 ぼんやりとクロノがその心地良さに身体を預けていると見習い兵の一人であるウィロが寄ってきた。


「師範、ちょっと気になることがあるんですけど・・・・・・ウサさん、覚えてますよね」

 彼は浴場に響かないようクロノの耳に手を当て、小声で続けた。


「隊でひどい扱いを受けてるらしいんです」


 クロノは腕を組み眉間に皺を寄せた。

 それを見たウィロが消え入りそうな声で、すみません、と謝る。


「ウサさんはもうここの人じゃないですし、どうしようもないことも分かってます。でも何だか、嫌な予感がするんです」


 ウィロは不安そうに顔を曇らせた。同時に髪から滴が落ちた。

 彼は、ウサがまだ見習い兵だった頃、彼に優しくしてもらっていた。そんな噂を聞くと心配でたまらないのだろう。


「……分かった。気にしておく」


「お願いします」


 クロノはしばらくウィロを見つめていたが、やがて表情を崩し、目の前の暗い顔に、ぱしゃり、と湯をかけた。


「心配するな。お前が思ってるよりウサは強い」


 訓練の時とはまた違う明るさ。鬼と呼ばれる一方で、師範、師範、と慕われる。

 これが、クロノという男であった。


***


 クロノが自室に戻ったとき、既に城内の者はみな寝静まり物音ひとつ聞こえなかった。

 彼は蝋燭の火を消し、ベッドの上で目を瞑った。


 雨の音はまだ遠くで鳴り続いている。


 ……人間は不意に自分の死期を悟ることがあるらしい。

 そんな話をふと思い出した。


 死期とまでは言わなくとも、何となく、何かががらりと変わってしまうような気がした。

 ごおごおと建物を揺らす音は確かに不吉な感じがする。このままではこの王国ごと崩れてしまうのではないか。


 いや、違う。

 もっと身近な。


 寝返りを打ったり布団を掛け直したりしているうちに目が覚めてしまった。

 仕方なくもう一度明かりをつけ、傍に置いてあったコップに酒を注ぐ。


(ウサは強い、か……)


 先程の会話がまだ頭の中にあった。


 程良く酒が身体にまわり、温まってきた頃、ドアを叩く者があった。


「クロノ師範……?」


 遠慮がちな声が扉の向こうから聞こえてくる。

 既に零時をまわっていた。


「ウサギは夜行性か?」


 部屋に入ってきた青年にクロノは小さく笑いかけた。


 ウサギ。それが彼のあだ名だ。彼は最後まで本名を明かさなかった。

 兎のように用心深くすばしっこいと、クロノや周りの兵が勝手にそう呼び始めたのだ。


 元々、見習い兵としてクロノの元にやってくるのは皆訳ありで家族を持たず、素姓も分からぬ場合が多い。クロノは上から嫌われているため厄介そうな人間がわざと送られてくるのだ。


「どうした?」


 クロノはしばらく彼の言葉を待ったが、ウサは無言のままだった。


 何があったのかもう一度尋ねるとウサは困ったように俯いた。

 もともと自分の感情を表に出すことが苦手な青年だ。


 じれったくなり、わざと欠伸をした。


「用が無いなら寝るぞ」


 部屋から押し出されそうになり、やっと彼は口を開く。


「近衛兵隊長が怖いんです」


 声が震えていた。


 クロノは口を結んだまま顎をくいと持ち上げた。


「この間、隊長の服から小さい鏡が落ちたのを偶然見てしまったんです。それから隊長、俺に『見たか、見たか』と酷く取り乱した様子で尋ねられて」


「見てないってちゃんと言ったんだろうな?」


「言いました! でも訓練の時など俺を殺そうとするんです」


 クロノはあくまで冷静だ。


「それは災難だな」

「明日殺されるかもしれない」


 クロノは重い溜息をついた。面倒事は勘弁だ。しかし師範にもなるとそう暢気なことも言っていられない。こんな話を聞かされて放ってはおけるほど冷たくもなかった。


「お前はその鏡を例の……あの鏡だと考えてるのか」


「間違いないです。師範も知ってるでしょう。隊長、この間までツテシフへ偵察に行かれてたんですよ」


 クロノは鼻で笑ってやった。


「俺はお前らに教えたはずだ。兵は上を信じて戦うことだけに専念しろ、と」


 ウサは数年前、近衛兵のザイルに仕えることになり、クロノの元を去っていった。内気な性格だが、腕は確かだ。


 ぐい、とクロノの袖を掴み、ウサが眉を下げる。心底困ったような表情を浮かべていた。


「信じて戦えっていうんですか。無理です、俺、怖いです」


 彼が弱音を吐くのを初めて見たような気がした。相当追い詰められている。


「落ち着け、ウサギ」


 クロノは立ち上がり続けた。


「とりあえず明日は俺のところにいろ。何とかしてやるから。適当な理由でもつけて隊を変えてもらうか」


「俺、師範のところに戻りたい」

「そうだな。帰って来い。肝心なところが抜け落ちていたようだから」


 ウサの性格を分かっているから、わざと優しい言葉をかけた。

 彼はきっと、こんなことを頼みにきたんじゃない。


「違うんです、クロノ師範」


 予想通り首を横に振り、ウサは俯いた。そして、ポケットの中から一枚の封筒を取り出した。千草色の綺麗な封筒だった。


「故郷に宛てた手紙です。もしものことがあったら……ですね」


 クロノは口の端をくいと持ち上げ、手紙を摘み上げた。


「ご丁寧に場所まで書いてある」


 それを見て、ひやりとした。


(ツテシフ出身だったのか)


 悟られぬよう、ゆっくりと視線を戻す。


「……」


「手紙には必要でしょう」


「遺書か? 俺は燃やすぜ」


 ウサはやや言葉に詰まって、それでも頷き、顔をあげた。


「師範が手紙を届けてくれるような人じゃないこと、よく知ってます」


 ひどいな、とクロノが笑うと、つられたようにウサもやっと声を出して笑った。


「分かった。持っておこう」

「お願いします。これですっきりしました」


 届くことが重要なのではない。これを書くことで彼は救われるらしい。


「……手紙の存在を、師範に知っておいてもらいたかった」


 手紙なんて、そんなものだ。

 クロノは封筒を机の中にしまった。


「これで十年後にピンピンしてたら嫌味言ってやるからな」


 ウサが初めてクロノの元にやってきたのは何年も昔のことだ。

 小さく頼りなかった頃の面影はもうない。


 しかし死ぬにはまだ早すぎるだろう?

 もっと生きろ。そして強くなれ。


 クロノの思いを見透かしたようにウサは真面目な調子に戻った。


「逃げません。必ず……クロノ師範の誇れる兵になって見せます」


「馬鹿。もうなってるよ」


 お前は俺の誇りだ。

 去り際、ウサはもう一度笑ってみせた。


***


 クレアスの王城から城下町を抜けて、小さな町を通り、山を越え、川の流れに沿って北西にずっと進んでいったところにエレム村という小さな村があった。


 少年はその村の古い道場でひとり槍を振っていた。何度も何度も型を確かめ、止まることがない。


 名を、そら、という。


 無作為に伸ばした灰色の髪が、動く度に揺れる。

 武術と向き合っているときの彼の表情は真剣そのものだ。


 太陽は真上にあるはずだが、天は相変わらず暗い。

 屋根を叩く雨音は先ほどよりずっと激しくなっていた。


 こんな風に不自然な雨の日が続いている。

 ひょっとするとこの王国は何かの呪いにかかっているのではないのか、という根拠のない不安が、時折そらの胸を過ぎる。


 ……呪いといえば百年前、戦争中だったクレアス王国と北のツテシフは共に崩壊した。

 戦争中に何が起こったのか未だに解明されていない部分が多いが、とにかく大惨事になり、国土の一部が海に沈んだとか何とか。

 詳しいことは王国の秘密事項となっており、国民に真実を知る術はない。


 この時も雨が降っていたらしい。


 ――ふと、彼は雨音に紛れて誰かの足音がこちらへ向かってくるのに気がついた。


「そら」


 声を掛けられて振り向くと幼馴染のリクが入口に立ち、こちらに手を振っていた。


「昼飯!」

「もうそんな時間か・・・・・・」


 槍を壁にかけ、そらはリクに駆け寄った。


 並ぶとそらの方が若干身長が低い。栗色の髪に小麦色の顔、性格もリクの方が明るかった。

 彼は本当に好青年で、そらとしては少し悔しい思いもしていた。


 道場の隅にリクと共に腰をおろしながらそらは窓から天を見上げた。


「この暗さじゃあ時間がさっぱりだな」

「明るくても分かんねえだろ」


 呼ぶまで来ないんだから、とリクは付け足して笑った。


 小さな村に暮らす同い年の二人はいつも一緒だった。共に手を取り悪戯する時もあれば、殴り合いの喧嘩もする。

 幼馴染と言えば足りない。いわゆる「腐れ縁」というやつなのだろう。


 共に今年十六歳で、村では大人として扱われている。

 畑仕事が主な仕事だが、そらは町の学校で薬学を教えたり、この道場で子ども達の面倒を見たりすることも多かった。


 村に学校はない。そのため子どもたちは畑の手伝いの合間、何時間もかけて山を一つ越え、町の学校へ通っていた。しかし時期によっては何週間もの間学校へ行けず、文字もなかなか覚えられなかった。

 見かねたそらがその穴を埋めるため道場を開き、武術やら読み書きやらを教えはじめたのだ。


 一方、リクは畑でできた野菜を市場に持って行く仕事をしていた。明るく人付き合いが上手な彼は、いつもたくさんの野菜を売って帰ってくる。


 山々に囲まれ内陸に位置するこの村は畑仕事を軸にして動いていた。村人にとって畑と田で取れる食物は命そのものであった。

 しかし、今年は拙い。酷すぎる。


 戸口を開け、止まぬ雨を見つめながらリクが呟く。


「もうそろそろジャガイモがとれるな」


 それに対してつい、


「凶作かもしれない」


 とそらは本心を口にした。

 そらにはこの雨が何だか濁っているように見え、毒が入っているようにさえ感じられた。


「やめろよ、縁起でもない……」


 リクはそう返したが、自分もそう思っていたのだろう。凶作か、と反復し、そのまま黙ってしまった。


 そうしていると、道場の方へ走ってやってくる子ども達の姿が見えた。


「今から道場?」


 リクに尋ねられ、そらは首を傾げる。


「いや、今日は町の学校に行ってたはずだけど」


 長い距離を駆けてきたのか、子ども達の息は上がり、ひどく慌てている様子だった。


「どうした?」


 そらが立ち上がり尋ねると、男の子達が我先にと話し始める。


「リョウタが溺れた、溺れた!」


「え? どこで」


「飛び越え川!」


 山を越える途中で「飛び越え川」という細い川がある。


「アンジュさん達は?」

「今探してる。リクとそらを連れて来いって、皆が」


 早口で伝えると子ども達はその場に座り込んでしまった。


 リョウタはリクの幼い弟だ。振り返るとリクが真っ青になっていた。


「お前ら、助けられなかったのか」


 普段からは考えられないようなリクの低い声に、子ども達はひるんだ。


「リク、落ち着け。……お前らはここから動くな。絶対に外に出るなよ。いいな?」


「分かった……」


「夜までには一度戻るから」


 手前の子の背中を軽く叩き、そらは道場を飛び出した。リクもすぐにその後をついてくる。


「悪かった、そら」


 消え入りそうな声が聞こえ、走りながら首だけで振り返った。泣きだしそうな顔が見えた。




 下流では大人達が懸命にリョウタの名を叫んでいた。予想以上に水嵩が増している。


 リョウタはもっと上流の岩場で足を踏み外したらしい。

 皆の後に続いて怖がりな彼が恐る恐る足を踏み出す様子を想像し、そらは苦しくなった。


 アンジュの姿が見え、二人は駆け寄った。


「アンジュさん!」

「ああ、お前ら!」


 背が高く、ひょろりとした体格のアンジュが振り返る。一見頼りなさそうに見えるが、彼はこの村の村長だ。

 二人は――特にそらは誰よりも彼を信頼していた。


「リョウタは?」


 リクの肩を無言で叩いたアンジュは瞳に悲しげな色を宿していた。


次の【序章(二)】は

2017/04/14 23:00 に投稿予定です。


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