3話・泣かないで。ぼくの大切なひと
ユミルに手を貸し、木の幹に埋まり込んだ彼の下肢を引っ張り上げようとしたオリナに、ユミルは弱々しく首を振る。
「無理だよ。ぼくは…」
「何言ってるの。簡単にあきらめないで。ユミル頑張って」
その態度にオリナはじれた。やる前から諦めてどうするのだ。と、彼をぬめつけた。オリナの態度に慰撫されたのか彼もやる気になったようだ。
幹から突き出ている上半身の片腕をオリナの肩に預け、もう片方の腕で幹から抜け出そうと木に手をかけた。
「行くわよ」
「ああ」
息と声を合わせ、せーの。と、オリナが彼の腕を引いたところで、ぱちりと音があがり静電気のようなものが駆け抜けた気がした途端、オリナは地面に尻もちをついていた。手の先にびりびりとした感覚が残っている。
「なに? これ?」
彼を救出しようとしていた手が目に見えないもので阻まれたのだ。
「やっぱり無理だったか…」
ユミルは悲しげに呟く。オリナは期待をさせておいて、失敗に終わったことが申しわけなく思った。
「ユミル。どうしてこんなことに?」
「これはぼくへの罰なんだ。弟をかばっただけじゃなくて、父神さまの望む道へ進まなかったことへのね」
「そんなひどい。いくら親でも我が子を木の幹に入れて閉じ込めるだなんて。ひどすぎるわ」
ユミルへの仕打ちに、オリナが憤慨すると彼がほほ笑みを返して来た。それを見て咄嗟にオリナは彼に近付いた。木の幹から突き出ている彼の上半身を抱きしめたい思いに駆られたのだ。
「ねぇ、ユミル。これはいつもわたしが見てる夢の中なの?」
「いいや。今晩は特別な夜だからね。ぼくがいる世界とこの世界がくっ付いてしまったらしい。いつもは精神体は自由が利くから、きみの夢の中にお邪魔していたけどね」
夢の中のユミルは、このように巨木には捕らわれていなかった。夢の中での彼は、巨木の前でオリナの訪れを待ってる節があった。
「まさかあなた、ずっとこんな風に木の幹に閉じ込められて来たの? 辛かったわよね?」
オリナの背よりも高い位置に捕らわれている彼が気の毒に思えて仕方なかった。彼の腰に腕を回して抱き締めると、遠慮がちに彼女の背に彼の腕が回されて来た。
見上げた彼女の視線の先には、月明かりに照らし出された彼の顔があった。彼は夢の中で逢う時よりもとても美しかった。月光を浴びてキラキラと輝く銀の髪に、瞳は菫の花のような紫色。鼻筋の通った顔立ちは、この世の美しいものをいくら集めても叶わない様な美に包まれていた。
その姿に感銘を受けると同時に、ユミルの正体を知らないオリナでも、彼は自分達人間が気軽に接触していい存在ではないようで淋しくなる。
「オリナ。きみを見てるとあの頃を思い出すよ」
「ああ。わたしの御先祖さまのこと? 確か、シオリというのでしょう?」
「そうだよ。きみはシオリによく似てる」
夢の中で逢うユミルは、よくこの世界に召喚された最後の聖女の話をオリナによくしてくれた。彼の思いが切々と伝わる様な語り口にはときどき、オリナは妬かされたけれど。
「でももうそろそろきみは帰らないとね」
ユミルはオリナに回した腕を名残惜しそうに外すと、片手を振り上げた。すると彼の手の中に一匹のシマリスが現れた。
「まあ、可愛い。あなたお名前は?」
「この森の精霊だよ。ルカと言うんだ。この子を連れてもうお帰り。オリナ」
ユミルがシマリスを差し出して来たのでそれを受け取るべく手を差し出すと、シマリスはちょこちょこと二人の繋がれた腕を這いあがり、オリナの肩におさまった。
「まあ、おりこうさんね」
「ルカはぼくたちの言葉はよく分かる。道案内兼、護衛として連れてゆけばよいよ」
「可愛い護衛さんね」
シマリスはオリナによろしくというように、小さな前足を擦って見せた。
「さあ、もう行って。ここに長い事いてはいけない」
「ユミル」
彼が胸元を押さえながら言って来る。その姿にオリナは不安を感じた。
「どうしたの? ユミル?」
「‥どうもしないよ」
「嘘よ。辛いんでしょう?」
「きみの前では隠し事は出来なさそうだね。何でも見透かされてしまうから。この木は‥ぼくの神気を吸い込んでしまうんだ」
「あなたの命が奪われるの? その木に?」
オリナは拳を振り上げた。ユミルを縛りつけている巨木に向かって拳を叩きつける。
「ユミルを放して。ユミルから離れて」
「オリナ。止すんだ。きみの手が傷ついてしまう」
オリナの突然の行動にぎょっとしたようにユミルが言う。オリナは拳を振り上げる手を止めなかった。
「手の怪我なんか薬をぬればすぐに治るわ。だけどあなたの命をこの木が吸い続けたら、あなたが死んでしまう。そんなの嫌」
「大丈夫だから。オリナ。ぼくはすぐには死なない。ぼくをすぐに死なせてしまったら父神さまの罰にはならないからね」
「でも‥あなたが苦しむのもいや。もう充分じゃない? ユミルあなたは…!」
オリナは悔しさにぼろぼろと涙を流した。
「どうしてあなたがこんな目に合わなくてはならないの? ひどいよ。父神さま」
「泣かないで。オリナ。きみのその想いだけでぼくは充分だから。こっちへおいで‥」
オリナはユミルの傍に寄った。ユミルがオリナの頭を抱きしめて、優しく彼女の手を握りしめる。
「無茶をする子だね。こんなに手に傷をつけて」
そっと彼はオリナの手に唇を当てた。すると手のなかの痛みや傷が瞬く間に消えてしまった。
やはり。と、嫌でもオリナは気がついてしまった。今までは夢のなかでしか会えなかったから不思議としか思ってなかったけど、彼は自分達人間とは違うのだ。
「ユミル‥」
「泣かないで。オリナ。きみはぼくにとって大切なひとなんだから」
今日はもうお帰り。そういって彼はオリナの泣き顔にも優しいキスをしてくれて、オリナは目蓋を下ろしたのだった。