2話・巨木に捕らわれたユミル
オリナはデルウィーク国王の王妹が、ザカリー公爵に降嫁して生まれた姫だ。真綿に包まれる様に大切に育てられてきたオリナだったが、彼女が七つの時に最愛の母は亡くなり、それから四年後、オリナが十一歳の時に父は海向こうの経済豊かな国から後妻をもらい受けた。
継母は黒髪に黒目が主要なこの国の民とは違って、金髪に碧眼の目をした珍しくも美しい容姿をしていた。その継母にはオリナより二つ年上のブリアンナという娘がいて、その娘も母と似た容姿をしていた。ふたりの違いは性格で、継母は継子であるオリナに優しく過分に気を遣ってくれたが、ブリアンナは両親のいないところではちょくちょくオリナに嫌がらせをしてきた。
今回の帽子もわざと森に置き忘れ、オリナに取りに行かせようとしたのだと思う。
(自分はなにかお義姉さまに嫌われる様なことをしたのだろうか?)
今年十八歳になる彼女は気分屋で、普段はオリナにも優しい態度で接するので態度が豹変すると意地が悪くなる。その彼女の真意が分からず、オリナとしては困惑していた。
ひたすら歩き続けていると、前方に見慣れたものが落ちていた。探してくれと言われた帽子だ。思ったよりも早く見つかってくれてオリナはホッとした。
走り寄って白い造花やリボンで飾られたつばの広い帽子を拾い上げ、踵を返しかけた時だった。
「オリナ」
と、自分の名前を呼ぶ若い男性の声が聞こえた。ここは公爵家所有の森だ。関係者以外立ち入り禁止のこの場所で、自分の名前を呼びかけて来るような相手にオリナは心当たりはなかった。
今宵は満月。と、思ったところで従兄の忠告が蘇った。
『青白い月の昇る晩には、けして森に立ち入ってはいけないよ』
公爵家所有のこの森はもともと王家のものだった。オリナの母が公爵家に降嫁する際、持参金の一部として王家から賜ったもの。
この国の王太子である従兄が何かを知っていても当然だが、確かその時に薄気味悪い話を聞いたのを思い出した。
『昔から王家に伝わる話だけどね、あの森には美しい邪神が眠っているんだよ』
従兄の話を聞いた時には、きっと怖がりのオリナを脅かそうとして言ってるのだろうと、幼心に思っていた。
だって先祖たちの時代にいたと言われる勇者も聖女も、魔王も、現在は存在しない。せいぜい呪法使いと言われる民間の魔法使いが存在するだけで、彼らは病気治療や若い女性達の恋のお悩み相談にのるくらいで、特殊な力は持ち合せてはいない。
宮殿にいるお抱えの術師でさえ、白の魔法使いとは呼ばれてはいるが、彼らは病気治療や精神的な病気の治療、悪霊よけのまじない札を作るくらいで、物語りにある様な不思議な力を用いて何か奇跡を起こすようなことはなかった。
なおさら邪神だなんて聞かされても、平和な世の中でそんなものが存在するなんて信じられなかったし、単なる昔話として認識していたくらいだった。
いつの間にか周囲は霧に覆われていたらしい。オリナは視界が悪いなか辺りを見回したが、自分以外に誰の気配も見つけられなかった。従兄の話を思い出したこともあり、人の声がしたことに不気味なものを感じてさっさと引き返そうと思った時だった。
「オリナ。ぼくの声聞こえてるよね?」
と、再びその声があげる。振り返ったオリナは驚いた。目の前には大人が五、六人いて両手繋いで一週しても、胴体を覆う事が出来ないほど太い幹を持った巨木が立っていたからだ。
「えっ? これは‥」
何度かこの森には来ているが、こんな巨木などありはしない。でも彼女には見覚えがあった。夢の中で何度か見た事がある。
木の頂点は雲を突きぬけその先端が見えず、その幹太く根は地中深く食い込んでいる。枝は横に伸びて末広がっていた。オリナの記憶が確かならこの巨木は実際には存在しない木だ。
オリナは霧に包まれているなか、声の主を捜した。
「ユミル? ユミルなの?」
彼女はいつも自分の夢に現れる青年の名を呼んだ。
「ユミル。どこ?」
「ここだよ」
彼の声を頼りに目で追ったオリナは息を飲んだ。ユミルは巨木のなかに飲み込まれてしまいそうになっていた。木の幹に下肢が半分埋まっていた。
「大変。ユミル。いま助けてあげる」
どうしてこんなことになってるのか? これはいつも見てる夢の続きなのだろうか? と、思いながらユミルに近付く。
彼の手に触れた時、一瞬、背中をぞくりとした冷たいものが走り抜けた気がしたが、それから気を反らすようにユミルに言った。
「手を貸してあげる。そこから出れるかしら?」
「ありがとう。でもぼくはここから出れないんだ」
「そんな、諦めないで」
オリナはとにかく彼を救出しなければと思った。なにがどうしてこうなったのか分からないが、公爵家の所有である森の中でひとが木の中に飲み込まれようとしてるのを、オリナは黙認できなかった。
下肢が木に埋まっているユミルが不憫でならない。今すぐ助け出してあげねば。と、使命感のような責任感が湧いて来たのだ。
非力な彼女が手を貸したからといって、彼を救いだせるかどうかは微妙なところだったが、彼女の頭の中は彼を助けなくては。と、いう思いでいっぱいだった。