1話・オリナ
◇最後の聖女
ある青い月の晩のことです。モレムナイトの神殿に一人の美しい聖女さまが舞い降りられました。彼女は天界から遣わされた使者で、下界の魔王と勇者の争いを良く思わなかった父神さまより地上に遣わされたのです。
彼女は下界の争いを治める使命を受け、魔王と勇者に争いは止める様に仲裁に入りました。
魔王と勇者は彼女の美しさに飲まれ、手にした武器を放りだし彼女に求愛しました。
彼女は困りました。人間の国の王である勇ましい勇者を選べば魔王が気分を害し、人間国を攻めて来ないとも限りません。また麗しい魔王を選べば勇者が聖女を求めて、魔族たちを滅ぼさないとも限りません。
それでは父神さまの命を果たす事も出来ず新たな争いの種となってしまいます。求愛の返事を催促する魔王と勇者に、聖女さまは困り果てて言いました。
「分かりました。お返事致しましょう」
魔王と勇者は喜びました。聖女がちょっとお待ちください。と、ふたりを謁見室に残したまま退出し、しばらくしてから料理人が二枚のお皿を持って現れました。
「聖女さまからです」
ふたりの前に恭しく差し出された焼き菓子は、リンゴのパイ菓子でした。それを美味しいと食した後、魔王と勇者は料理人に聖女はどうしたのだと訊ねました。
「聖女さまは…」
料理人が目がしらを押さえています。魔王と勇者は部屋から飛び出しました。聖女さまは神殿の奥の禊ぎの場で命を絶っていました。
「どうして?」
嘆く魔王と勇者に料理人が言いました。
「聖女さまはどちらも選ぶ事は出来ないと悩んでおいででした。聖女さまは天から遣わされた御方です。勝手に自分の命を絶つことは父神さまに固く禁じられております。
これでは天にその尊い魂すら昇れないでしょう。聖女さまは死んだ後も、この地にとどまって御二方の行方を見守り続けたいとおっしゃられておりました。どうか聖女さまのお気持ちを組んで差し上げて下さい」
魔王と勇者はふたりで聖女を弔い、彼女と出会った森にその身柄を埋めました。ふたりは聖女の遺志を組み協定を結びました。
その後、この世から魔王も勇者も姿を消し、天界は地上とのかかわりを絶ちました。そしてこの世界は神代から人間の世へと移り変わっていったのです。
◇デルウィーク聖女物語より。
オリナは薄暗い森のなかを一人さ迷っていた。鬱蒼とした森の中、月明かりを
頼りに進む。昼間ですらひと気が無く心細く感じるのに、煌々とした青白い月明かりで照らし出された森のなかは静謐すぎて恐れを感じさせた。
「お願い。こんなことオリナにしか頼めないの」
ふとここに来るきっかけとなった義姉の言葉が蘇って、オリナはため息が出た。もうじき夕食の時間になろうかという時に、オリナの部屋を訪ねて来た義姉のブリアンナは、森林のなかに帽子を忘れて来てしまったから取りに行って来て欲しい。と、オリナに頼んで来たのだ。
頼む。と、言うにはかなり語弊があるかもしれない。建前上、お願いの形はとっているが実際は強制だ。オリナがそれなら護衛にでも頼めば‥と、言ったところで聞き入れるはずが無く、
「この時間でしょう? 彼らも夜間の警備に入らなくてはならないから忙しいのよ。だからお願い。あの帽子はお父さまが買ってくださったものだから無くしただなんて言いたくないの」
だから行ってくれるわよね? と、有無を言わさず館から出されてしまった。その彼女は長旅から帰って来た両親と顔を合わせて、家族団欒の時を過ごしていることだろう。
なにが彼女の逆鱗に触れたのかは知らないが、こうして彼女の気紛れに振り回されるのはいつもの事だ。両親や使用人の前では姉妹仲が良いように見せている彼女のこと、今頃、オリナは具合が悪くて部屋に引っ込んでいるとでも言って周囲にはとりつくろっていることだろう。
オリナは自分が来た道を振り返った。アーチを作るように重なり合った木々の向こうに、ぼんやりと明かりのついた館が遠くに小さく見えた。
(早く見つけないと‥)
オリナは足取り重く歩き出した。