一章、あの日の夜に
♪〜♪〜♪
着メロの音。携帯電話が震えている。ピンク色の携帯、SoftBank820SH。
「うーん…」
まだ八時を少し過ぎたところの朝。太陽の光はクリーム色の遮光カーテンに遮られて、部屋の中は薄暗い。もぞもぞと膨らんだ布団の中が蠢く。
「なによぉー」
携帯電話を手探りで見つけ、眠気眼のまま携帯電話を開く。が、寝ぼけているのか携帯電話を開くこともままならない。やっとのことで携帯電話を開き画面を布団の隙間から覗く。
そこには、「母ちゃん」と、発光しながら携帯電話がその文字を示している。
「……」ぱたっ。
布団の主は、問答無用にその名前を見た瞬間、携帯電話を閉じて電話を切った。切った携帯電話は死んだように静かになった。
二度寝をするのか、もぞもぞとまた布団の中にもぐりこみ、寝る体制を作る。携帯電話は邪魔なので、布団のすぐ外に置こうとした。
♪〜♪〜♪〜♪
その瞬間、また携帯が鳴り始めた。面倒くさそうに携帯を開き、誰からかと確認する。そこにはまた「母ちゃん」という文字が。
「…………」
しかし、布団の主は無視。気づかないふりをして、布団の外に携帯電話を置き、そのままもぞもぞと布団の中にもぐって、携帯の音を遮断。
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪
布団がまたもぞもぞと動く。痺れを切らしたのか、布団の主は鳴り止まない携帯電話を取って、仕方なく寝ぼけた声で応対。
「もしもしぃ」ぴっ。
「おどれくらっしゃげるぞ」
電話の主の第一声がそれ。「お前、ぶん殴るぞ」の一言。加えて怒声。
「母ちゃん、そーでもかまへん、切るよー」もはや、やる気なし。
「リエ!! 切ったらこらえんぞ」
「何よ、母ちゃん。毎日、朝電話しないでよー」
サヌキ弁での朝の会話。それが親子の日課。
リエはシコク出身で、カントウの大学に通うために今はタカサカで独り暮らし。親はその時、猛反対したが、ある条件を呑むことにより独り暮らしの許可をもらっていた。
それが、この朝電話。
「リエ、最近はどななんな?」
「それも、昨日言ったー、一昨日も言ったー、一昨昨日もいったー。その前も言ったー」
リエは眼をこすりながら、布団から這い出て素っ気無く言い返す。
「あほげに言うな」
「私のほうは平気ーすこぶる元気。それより、お金のほうがないんやけど」
「へらこい! もう、ええわ。切るでな」
繰り返し。いつもの日常。必ずといってもいいほど、リエの母親のほうが電話を切ってしまう。ほとんどはリエがしょうもないことを言って怒らせて切らせてしまうことが多い。それでも懲りずに必ず朝は親から電話がかかってくる。
すでに携帯電話が目覚まし時計がわりになってしまった。リエの好きな歌の着メロが朝起きるマイミュージックになっているのだ。
「今日、土曜日で授業無いのに……」
もちろん、それが土曜でも日曜でも関係なくかかってきてしまう。規則正しい生活が出来るのはいいが、貴重な睡眠時間が奪われてしまうのは、リエにとって正直辛かった。
すっかり二度寝をする意欲をそがれてしまったリエは、パジャマのまま遮光カーテンを一気に開ける。朝の眩しい光にリエは眼を瞑った。外の陽気は春らしいおだやかな陽気だ。
その足でテーブルの近くに置いたバックから黒のシステム手帳を取り出した。
その手帳には以下のように書かれている。
(2008年4月26日(SAT)、スケジュールなし)
その近くの小さなスペースに三つの単語が急いで書かれたのか、乱暴に書きなぐってある。リエには書いた覚えの無い三つの単語。
(午後、映研、ナナミ)
「? あ、そっか……。昨日ナナミと約束してたんだっけ(良くは覚えていないけど)」
リエは大学で映画研究会のサークル入っていた。もうそのサークルに入って二年目となる。リエは映画を撮るのは苦手だが、鑑賞のほうは好きだった。好きな映画のDVDをコレクションしているぐらいなのだ。
そこで知り合ったのがナナミと言う友達。たまたま、気があったのか一年生の頃から親友っぽい関係をしていた。リエにとっての大事な友達の一人。
通っているダイトウブンカ大学は近くから出ている大学のバスで10分かかるぐらいで行ける。近いと言えば近いがバスの時間が合わないと、かなりの時間がかかってしまう。
「でも、どこで会う約束したんだっけ……?」
2
(リエは部屋にずっといて)
そのメールを片手に、リエは自分の部屋で首をかしげた。
ナナミと会う場所が分からなかったので、あの後ナナミにメールで聞いてみたら帰ってきたメールがその一言。どうやら待ち合わせは大学ではなかったらしい。
朝送ったメールがお昼少し前にやっと帰ってきた。丁度その時、リエはもう少しで大学の方へ行ってしまうところだった。
それを見たリエは結局、午前中何もせずに過ごしてしまった。何かしようにも、メールには明確な時間が記されてはいない。いつ来るのか時間を聞くためにまたメールしたが、ナナミには土曜の授業があるので、いつメールが返って来るか怪しかった。
(結局四時ですか……)
なんだかんだ言って、再度送ったメールは結局返っては来なかった。そうやって待つうちに時間はあれよこれよと、時刻は四時を過ぎてしまった。
空は薄暗くなり、部屋の蛍光灯が人工的な光で部屋の中を照らしていた。
あれから何度か電話しても、マナーモードにしているのかナナミの携帯につながらない。
(ナナミ……)
昨日の夜に突然、ナナミから電話がかかってきて、明日時間があったら付き合ってほしいと頼まれたことまでは覚えている。しかし、他の事に集中していたのかリエは待ち合わせと何をするのかを忘れてしまっていた。
スケジュールを見る限り、「映研」の文字があるからきっとそのことについてだと、リエは勝手に思っていた。
♪〜♪〜♪〜
突然リエの好きな歌が流れる。携帯の着信メロディー。
急いで携帯を取り、誰かを確認する。携帯にはナナミと書かれている。
「! もしもし、ナナミ? 今どこなの?」
「ごーめん、向かってるところ。いまそっちに行くから」
「電話何度もしたのにー、気づかなかった?」
「あー今気づいたの、ずっと電源きってたから。ゴメンね、リエ」
ガサガサと何かナナミの話し声の傍から聞こえてくる。
「何か、ガサガサ音がしてるけど大丈夫?」
「あー、これ? コンビニ寄って、適当に買おうと思ったんだけど、買いすぎちゃった」
「そっかー、後で割り勘ねー。じゃあ、待ってるから切るよー」
「あっー待って、待って! リエ、切らないで! 今、部屋の前についたー」
と、同時に玄関のインターホーンが鳴った。
「悪いけど、開けてくれる?」
玄関の鍵が閉めっぱなしになっているのにリエは気づいた。
「ちょっと待ってて、開けるからー」
リエは携帯を片手に、玄関まで急いで歩いた。携帯をかけながら器用に片手で鍵をあけ、ドアノブを開け放つ。
「ナナミー…………? え」
覗き穴で、誰かを確認しなかったのは失敗だった。
目の前にいたのはナナミではなく、男。
「えッ??」
相手は両手にビニール袋を抱えていて、すぐドアの前に立っていた。
顔と顔が数十センチの距離で近づいてしまっていた。すぐに飛び跳ねるように両者が距離をとった。距離をとったせいで、玄関のドアが閉まりそうになる。バランスを崩しそうになったリエは急いで玄関が閉まるのを片手で留めて、もう一度コンビニの袋を持つ男を見つめる。
二人して硬直。
「…………なんで」
「ちは…」
その男は、短髪で髪を少し茶髪に染めている。細身で、背はリエよりも高い。
携帯電話からはナナミの電話の声が何か言っている。携帯の声は良く聞こえなかったが、なぜかナナミの声はしっかりと聞こえた。ナナミはその男の少し後ろに笑みを浮かべて携帯電話を耳に当てていた。
「驚いた、リエ?」
そう言って、ナナミは携帯電話の通話を切る。笑ってリエを見るがリエにとっては笑えない。目の前にいる男は、リエにとって一番意外な人だった。
男の名前はアカマツ。リエやナナミと同じサークル、映画研究会に所属していて学部は違うが、同級生である。彼と親交を持ったのは一年生の頃だったが、それ以降サークル内で仲のいい友達として、良く連んでいた。そこまではどこでもある関係だが、リエとアカマツの関係はそれだけではない。
アカマツはリエの恋人だった。
しかも付き合い始めてから、このリエの家に来るのが初めてなら驚いても仕方がない。
「来るなんて、知らなかった……。てっきり、ナナミだけだと」
「わり、ナナミに誘われて、ていうか強制的に連れてこられて…」
アカマツは少し愛想笑いをして、リエから視線を逸らす。その顔は少し紅く染まっていた。
「ナナミ……どゆこと?」
「まあまあ、いいからいいから。言ったでしょ? あがってもいいよね」
含み笑いをして、さっさとと玄関の中へ入ってしまう。含み笑いをした時のナナミは、必ずといっていいほど、何か嫌なことを考えている。
「……いいのか」
「うん、いつものことだから。上がって。あ、荷物持つよ、重かったでしょ」
強引にリエはアカマツの手からコンビニ袋を取り、アカマツを先に玄関に招き入れる。
上を振りむいてリエは空を見ると、天気は午前中と比べ灰色の雲が覆い始めているのに気が付いた。
3
「アカマツは、リエの部屋初めてだっけ?」
「ああ」
きょろきょろしながらアカマツはリエの部屋を観察している。もの珍しいのか、なにやら落ち着かないようにも見えた。
「そんなに見ないでよ」
「あ、わり」
小さな白いテーブルを囲んで、リエはコップを三つ取り出して、それを置いた。さらにコンビニの袋からいくつかの飲み物と、お菓子を取り出しテーブルの上に広げる。
「そうだ、ナナミ。今日、映研の集まりってあったの?」
「なんで?」
とぱりぱり、スナック菓子をつまみ食いするナナミ。
「だって昨日。約束する時、映研のことについて言ってたでしょ?」
「何、忘れたの? ちゃんと昨日話してたこと覚えてる? もしかして私と電話してる時何か違うことしてなかった? 例えばテレビ見てたとか」
「?」
リエは首を傾げて、昨日の夜のことを思い出す。確かにナナミの電話に何か気を取られて、聞いていなかった気がする。
「あー!! そうだ、私。映画みてて、その途中でナナミからかかってきて…」
「あまりに熱中して、よく電話の内容を聞いていなかったと」
コクコク、と頷くリエ。顔中が真っ赤になり、うつむく。
「リエ、何かに気を取られていると、他のことは眼に入らないからねー。だからね、昨日言ったのは……」
ナナミは、リエの耳元まで顔を近づけ手を口に添えて、アカマツに聞こえないように、小声で一言いった。
(午後、アカマツと一緒にリエの部屋に行くから。映研のことについて語ろう、だよ)
アカマツを尻目に、今度はリエがナナミの耳元で言い返す。
(何でそんなことするん?)
(だって、恋人になってからどーしたらいいかわかんないってリエ言ってたでしょ? ということで……)
「さー、今日は二人の関係についてどーなのか、聞こうかなー、腹くくってね。二人とも」
「えーッ!!」
ぶほッと口に含んだ飲み物を噴出しそうになるアカマツ。
「ちょ、ちょっと。聞いてねーぞ。映研の話があるとかなんとか言ってたんじゃねーの? なんかスゴイ真剣な話があるからって」
ティッシュでテーブルを噴きながら、アカマツはナナミに全うな苦情を一発。
「そーだよ。なんでなんで、な、なんで…」
明らかに動揺して、二の句が告げないリエ。顔を真っ赤にして、どうにかして話題を逸らそうと考えをめぐらすが、無論混乱して何も思いつかない。
♪〜♪〜♪〜 突然のメール。
「あれ、メール…」
リエは携帯を開き、誰からかを確認。送信者を見ると、リエは自分の目を疑う。その名前はしっかりと「ナナミ」と書かれている。すばやくナナミのほうを見ると、アカマツの苦情も意に介さず、携帯を弄ってリエを見て笑っている。
メールの内容にはこう書かれていた。
(アカマツともっとラブラブしたいんでしょ? 全然進展して無いくせに)
(いいでしょ、そんなの。ナナミに言われたくない。私だって、もっと仲良くしたいけど)
(なら、がんばらなきゃ。待ってるだけじゃ、何も変わらないよ)
(うー、そんなの恥ずかしい…)
ナナミのメールを見たリエは高速の如くメールを打ち返し、ナナミに転送する。
すぐさま、ナナミの携帯が鳴り出した。二人の目から火花が散る。
途端、二人から何か決意をしたような光を灯した目で睨まれる。
「お前ら、何やってんだ?」
アカマツはため息をついた。
結局は、ナナミの提案した無謀な話題は煙の如く消えてしまった。仕方なくその後は、取りとめもない話を繰り返す。映研、大学、バイトのことなど様々なこと。
気づいた時には時刻は二刻ほど経っていた。
「あ、もうこんな時間…」とリエが携帯を見て、話の腰を折る。
途端に、水の音。ざーと言う音。
アカマツがその音に気づき、カーテンを少し開けて外を確認する。
「雨だ……」
雨が、窓に当たってバラバラ音を鳴らしている。いつの間にか空は灰色をもっと黒くしたような嫌な雲が漂っていた。
「そういえば、天気予報だと今頃から雨が降るんでしょ。なんかスゴイのが来るとか」
ナナミが携帯を弄りながら、アカマツに言い返す。言わずともすでにその天気になっているとアカマツは言いそうになったが止めた。
「え、そうなの? 朝はスゴイいい天気だったのに」
「なんかわかんないけど正体不明の異常気象らしいよ。天気予報で言ってた」
天気予報で正体不明なんて聞いたことも無い。最近の環境破壊による影響なのだろうか。リエは半信半疑で相槌を打った。
「ごめん、リエ。私そろそろ帰らなきゃ。雨も酷くなるし……」
片手に携帯を持ったまま両手を合わせて謝るナナミ。と同時にまたリエの携帯に着信。
「何か携帯よく鳴るね」
「え、っと……あはは」
アカマツの疑問をはぐらかして、愛想笑いをしたまま、リエは急いでメールを確認する。
(二人っきりにするから、がんばって)
ぼっと、リエの顔が紅く染まる。
この雨の中を帰るのか、ナナミは立ち上がって、荷物を取り玄関へ。
それを見たアカマツは一言。
「あ、じゃあオレも帰るわ……」
このタイミングを待っていたかのように、アカマツも立ち上がる。
「え?」
「雨降ってるし、ずっといても、わりーだろ? じゃ」
立ち上がって玄関の方へ行ってしまうアカマツを見て、リエのココロが揺らぐ。せっかくの機会が、初めての機会が失われようとしている。
無意識のうちに追いかけていた。
「え?」
ぎゅっと、リエは掴んでいた。アカマツの服を。追いかけて考えるより先に行動していた。
アカマツは振りかって、リエを見つめる。
「……あの」
一瞬の沈黙。
外から雨のざーという音が耳をくすぐる。
「もう少しいて? お願いだから」
途切れ途切れの小さい声でうつむいたまま、ぼそりとリエは言った。そのままアカマツの手を握り、強引にリビングの方へ引っ張って今まで座っていた場所に座らせる。思ったより、何も言わずアカマツはついてきてくれた。
その対面にリエは座った。なぜか正座で。
「…………」
呼び止めたはいいが、何を話せばいいかリエは分からなくなってしまった。心臓がばくばくと鼓動して、アカマツの顔すら見ることが侭ならなかった。何か話そうとするが、口を開こうとする瞬間、心が拒絶して何も語れなくなってしまう。
アカマツは近くにあったリエの携帯を凝視していた。
「けーたいでんわ…」
「え?」
「あの曲なんだ…… 前に貸したやつ」
アカマツがリエの携帯を指差す。
「うん」
「気に入った?」
アカマツから初めて借りたCD。それをそのままずっとリエは着信メロディーにしていた。借りた曲自体も好きだったが、実際は好きな人から初めて借りた思い出として、着メロにしている方が本当だった。アカマツにも話していない、本当の理由。
「私、好き。曲も、(あなたも)」
ぎゅっと、アカマツの手を握る。
「リエ?」
「いて……傍にいて」
くい、とリエは目を瞑る。数秒間ずっとそのまま、硬直したまま動かない。
アカマツは無言のまま、リエに顔を寄せる。寄せ合った二人は離れない。
その後、二人は一度だけ過ちを犯してしまった。