しょせん素人に奇跡は起きぬ
紅葉の話の内容はこうだ。背を向けている百々目鬼の視力はほぼないに等しいが、それでも窓を開けて大人数が出れば音で気づかれる。
紅葉が廊下に出て彼らにほかの仕事を頼むので、その間に全員窓からグラウンドの方向へ出るように、と言われた。
生徒達から異論は出ないまま、説明が終わる。無言でひとつ頷いてから、紅葉が教室の引き戸を開けて廊下へ出て行った。
室内から、六十近い数の瞳がじっと廊下の様子を見守っている。紅葉が身振り手振りで指示を与えているのは見えるが、話している言葉の意味はまったく分からない。妖怪同士でしか通じない言語を使っているようだ。
紅葉が話し終わると、百々目鬼が巨体をのろのろと動かしてどこかへ去っていった。廊下のガラスから影が消え、冷え冷えとした白壁があらわになる。紅葉が行け、というように手を振った。
紅葉の合図を見るなり、全員が煎り豆のように跳ね、窓枠に飛びついた。舟木も緊張で震える指先をなだめ、窓を開ける。
多少の前後はあったものの、すべての窓が開いた。椅子を踏み台にして、窓枠を乗り越えて地面に降りる。靴が砂利を踏んできゅうと音がしたが、幸い外の見張りは誰もいなかった。
最後に紅葉が、しなやかに体をくねらせながら教室から出てきた。無事合流した彼女が先頭に立って移動を開始する。
ほかの教室にいる妖怪に見つかって騒がれると厄介なため、校舎の端にくるまで腰をかがめて進む。そのあとは、物陰に隠れるようにしてじりじりと目的地へ向かった。
一言も話せない緊迫した状況だったが、舟木の気分は不思議と明るかった。狭い教室内に満ちていた、黴臭い匂いから解放されただけで飛び上がりたいほどだ。
黒い壁は空気の出入りまで制限してはいないらしい。結んでいない舟木の長い髪が、風に揺られて大きくうねった。
「あそこ、見える?」
紅葉が指をさす。古びた鉄の裏門が、控えめに半分ほど開いた状態で数メートル先にそびえていた。普段は正面の校門から出入りしている舟木にとっては、久しぶりの裏門だった。
ここにも見張りはいない。そして、門の正面の壁には人ひとり通れそうな縦長の穴があいている。しんと静まった住宅街が見え、一同の顔がゆるんだ。
「よかった……」
紅葉もうっすら目に涙をためて笑っている。友達の妖怪に、無事に頼みが聞き入れられたことがわかってほっとしたのだろう。
「じゃあ、私、ここで」
「……一緒にこないの? あたしたちを逃がしたことがわかったら、あとが大変でしょ?」
舟木が聞いたが、紅葉は外に出る気はないと首を横に振った。
「今はだめ。後のことは、なんとかする。いつまで穴が開いているかわからないから、走って一気に抜けて」
笑顔ではあったが、紅葉の言葉はきっぱりとしていた。彼女の意志の固さを思い知った生徒たちがしぶしぶと引き下がる。特に男子は本当に残念そうな顔をしていた。
「ほんとに、ほんとにありがとう!」
「絶対紅葉ちゃんのこと忘れないからな!」
皆からの感謝の言葉を聞きながら、紅葉が一歩後ろに下がる。真っ先に宮部が駆け出し、その後ろに足の速い生徒が続いた。前にいた越野の背中が動き始めたのを追って、舟木は駆け出す。
「い、いてっ! 押すな、押すなあ」
前方から宮部の悲鳴があがる。転んで踏まれでもしているのだろうか。あいつらしいわ、と思いながら舟木は何気なく顔を上げた。
次の瞬間、舟木の目に信じられない光景が飛び込んできた。さっきまで確かにあったはずの縦長の穴が消えている。後ろから来た生徒にのっぺりとした灰色の壁に押し付けられ、宮部の頬がへこんでいた。
「遅かった? 一体どうして」
何がまずかったのかと悔やんだが、こうなってしまっては引き返すよりほかに方法はない。越野も同じことを考えたようで、踵を返そうとした。が、彼の動きは突然ぴたりと止まった。そしてほぼ同時に、前方に大きな火柱が出現した。
火柱はあっという間に、最前列にいた生徒数人を巻き込んだ。わけがわからないまま、生きながら焼かれることになった人間たちの絶叫がこだまする。残った生徒はパニックになり、火から逃れようとてんでばらばらの方向に走り出した。
呆然としていた越野の手を引き、舟木も必死で足を動かす。どこでもいい、炎のこないところならどこでもいい。逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ。せわしなく目を動かし、できるだけ暗いところを選んで走る。




