脱走は計画的に
「今しか、ない」
「一体どうして、そんな急に……」
「今夜、あなたたち、殺される」
「!」
紅葉がはっきりと言い放った言葉で、頭の隅で常にくすぶっていた懸念に一気に火がついた。かたかたと歯が震える音がする。気温は変わらないのに、急に寒くなってきて舟木は自分の体をさすった。
「どうして、あたしたちが」
「ごめんなさい。最初から、帰す気、なかったみたい」
紅葉はたどたどしく、言葉をつなぐ。彼女の説明から、外出していた親玉が戻ってきたことがわかった。そして、そいつは帰ってくるなり、人質の殺害を紅葉たちに命じたのだと言う。
「詳しくは、わからない。でも、あのお方は、やると言ったらやる。それだけは、間違いない。見て」
呆然と口を開けていた舟木の前まで、つかつかと紅葉が歩いてきた。ふわりと動いた紅葉の髪から、百合を煮詰めたような甘ったるい香りがする。いつまでも嗅いでいたくなる誘惑を振り払い、彼女の指差す先を見た。
「……ぁ」
舟木の喉から、悲鳴すら出なかった。さっきまで規則正しく動いていた二体の影は姿を消し、その代わりに窓にはみっちりと細い目が張り付いている。時折きろきろと眼球が動いたが、幸い舟木と目線は合わなかった。
「あれは、百々目鬼。体の目は多いけど、ひとつひとつの視力は弱い。あなたの姿、ぼやけてるはず」
「こ、これだけ近いのに」
「うん。本当の目、頭についてるから」
もう一度試してみる勇気は残っていない。舟木は紅葉の話をそのまま受け入れ、がくがくと頷いた。
「今は、まだ百々目鬼しかいない。もう少ししたら、応援が来る」
「つまり」
「逃げるなら、今しかない」
「ここを運よく出られたって、あのバリアみたいな膜は抜けられるの? あれがあるから、警察も軍隊も助けに来てくれなかったんじゃない」
「大丈夫。壁、妖怪が作った。作ったものが望めば、出口が開く」
「あなたが作ったの?」
舟木の問いに、紅葉は首を横に振った。
「ううん。でも、その子とお友達。私が頼めば、聞いてくれる、かも」
「かも、なんだね」
「その子、人間、嫌ってる。絶対に、とは言えない。でも、このままここにいたら、あなたたちは確実に餌になる」
殺す、という表現すら紅葉は使わない。彼女は言葉にしなかったが、時が来れば自分たちが惨殺される運命だということだけはわかった。
「もういいだろ? 早く行こうぜ」
せっかちな宮部がもう足踏みをしている。舟木が見たところでは、彼ほど騒々しくないものの、クラスメイトたちは一様に覚悟を決めて、自分の鞄を握りしめている。――ただ一人を除いては。
「春野さん」
舟木が声をかけても、春野は座りこんだまま微動だにしない。よく見ると、彼女は固く目をつぶり、両手で耳をふさいでいた。
「春野さんってば」
「あたしは絶対行かないわよ!」
軽く体に舟木の手が触れた瞬間、春野が金切り声をあげた。突然の大音量に体がついていかず、舟木はみっともなく床に尻餅をつく。見かねた越野が春野に向かって叫んだ。
「春野、お前おかしいんじゃねーの?」
「おかしいのはあんたたちでしょ! この女の言うことなんか、あたしは死んでも聞かないからね!」
「なんだと!」
顔を真っ赤にした越野が、春野の肩を突き飛ばした。
「だってそうじゃない。仲間を裏切ってあたしたちを助けたところで、この女が得することって何かある?」
突き飛ばされ、転んで肩を打ち付けても、まだ春野は気炎をあげている。舟木は呆れながら彼女に言った。
「……純粋に、優しい子なんじゃないかなあ。もともと、人間と一緒に育ったって言ってたし」
「バカバカしい。本当に優しいのなら、最初っから人質・立てこもりになんて参戦するわけないじゃない。みんな、ちょっと表面的に親切にされたくらいでほだされすぎよ」
「やっちゃってから、後悔することだってあるでしょ」
「だとしたら見込みが甘すぎる。そんな奴について行ったとしても、警備をうまく抜けられるはずないわ。どっちにしたって私は行かない。どうなったって知らないわよ」
舟木はぽかんと口を開いて、春野を見つめた。彼女が大声を出すのを初めて聞いた。はっきりと拒絶されたのだ、という事実が脳に染みる。特に親しい相手でもなかったが、こうもきっぱり言われるとなかなか面白くない。
「……行こうぜ、舟木」
最後に、越野に声をかけられてようやく立ち去る決心がついた。床にうずくまったままの春野を置いてのろのろと立ち上がり、窓際に移動する。
「舟木さん、あなたはもう少しましな頭の人かと思ってたけど」
背後から春野の声が飛んできたが、舟木はもう振り返らなかった。春野以外のクラスメイトはすでに、窓際に並んで紅葉の話に耳を傾けている。




