そろそろキレるぞクソ野郎
壁にかかっている、白い時計が午前十時をまわったところだった。葵の提案で、人員の四分の一ずつ、六時間の睡眠をとることにしたのだ。交代の時間まであと一時間ほど。部屋の中で起きているのは葵一人だけだった。
少し空腹を感じる。よく考えると、昨日の夜から口にしたのはミネラルウォーターだけ。トヨが聞いたら卒倒しそうな貧弱な食事内容だった。
ごろごろとその辺りに寝転がっているむさ苦しい男たちの間をつま先立ちで通りすぎ、念のために静かにドアを開けた。ぐう、だのごお、だのと多種多様ないびきをたてている面々は全く起きる気配もなく眠りこけている。
廊下から、昨日さんざん入り浸った司令室にまた足を踏み入れる。明け方で最高にだらけきっていた一同が伸び上がるのが見えた。
「一尉、交代にゃまだ早いですよ」
「ああ……久しぶりに腹が減った」
テーブルの上には、冷めた握り飯がいくつか残っていた。手をのばして頬張る。三千院の家から持ってきた米なので、冷えた程度ではまずくならない。
もぐもぐとそれを食べながら、何か変わった様子はないかと室内を見回す。相変わらず進展はないらしく、灰色のデスクに部下たちが頬杖をつきながら座っている。
葵が視線を向けると、たいていの部下は嫌な顔をしつつも軽く会釈する。丁寧なものは、敬礼を返してくる。だが、その中にあって明らかに異質なものが二人いた。葵と目が合ったとたん、ひょろりと背の高い一人は明らかに目を泳がせ、ずんぐりしたもう一人は急にいびきをかきだした。
「おい」
葵が声をかけると、二人とも渋々こちらを向いてきた。いやな奴に見つかってしまった、と彼らの顔に書いてある。そりゃそうであろう、この前赤ちゃんパブで大暴れしていた二人である。
「この前パブで会ったな」
他のメンツもいる前でなんのパブか言わなかったのは、武士の情けである。ただし当人たちには十分だったようで、一気に表情が青ざめた。
「お、お話したいことがあるのですが」
青ざめた表情のまま、パブ部下たちが言った。葵はうなずいて廊下に出る。幸い、まだほかの人間は起き出しておらず、廊下は無人だった。
「で、なんだ。話って」
葵がぶっきらぼうにそう言うと、パブたちは目を見合わせた。しばらく『お前がいえよ』というように無言で顎をしゃくりあっていたが、そのうち長身の方があきらめたように口を開いた。
「一尉。この前の件なんですけど……ちょっとひどくありませんか」
「ちょっと、ねえ。だいぶひどかったな」
葵は即答する。即座に、椅子や乳母車型のベッドがひっくり返され、床に割れたグラスが散らばっている光景が頭の中に広がった。これをちょっとで片づけるのは無理があるだろう。
しかし、パブ二人は葵が一言言うやいなや、落ち込むどころか妙に前のめりになった。
「そうですよね」
「分割にはなってましたが、損害を全額自費で返還しろなんてひどいですよお」
葵は、自分の認識とパブたちのそれがずれていたことに気づいた。何か言ってやろうかと思ったが、このまま黙って相手にしゃべらせた方がいいと思って口をつぐんだ。
「ちょっと羽目を外しただけなんですよ」
「一尉だってわかるでしょ? 戦場でためこんだストレスを、どこかで発散しないと生きていけないっす」
「ほら、ああいう店は保険に入ってるもんだから。そこから出してもらえば、店主さんの懐も痛む訳じゃないし」
「俺たち、命がけでみんなの生活を守ってるわけじゃないすか。だから、ちょっとぐらい向こうさんにも理解してほしいっていうか……」
揉み手をしながら、一生懸命作ったぎこちない笑顔を浮かべてこちらを見てくるパブたちだったが、次第にその口は重く凍りついていった。
「い、一尉……」
パブたちが自分の方をじっと見てくるのには気づいている。葵はつとめて無表情度を上げようとした。いつも能面だと言われているが、今は特にあの得体の知れなさができるだけ出るように気をつけた。
しばらくああだこうだといい募っていたパブたちの動きが、ようやく完全に止まった。その時を待っていた葵が、満を辞して口を開く。
「言いたいことはそれだけか」
のっぽはまずい雰囲気を感じ取ったのか、自分のシャツのボタンをとめたりはずしたりしている。むっくりの方は汗をかいているのをごまかそうともせず、黄ばんだハンカチでひたすら自分の脇汗を拭いていた。




