トイレは一緒が基本よね?
「く……」
自分以外の、誰かの携帯が鳴っているのだと気づき、怜香は小さく声を漏らした。恐怖のために持ち主が固まってしまっているのか、着信音はワンコーラスたっぷり鳴り響いてようやく止まった。
最新機器など使ったこともないはずのイッポンダタラたちも気になったのだろう、生徒達を指差しながらぼそぼそ話し合っている。
「ああ、それがケイタイというやつか」
ゴーライだけはこの機械の正体を知っているらしく、うろたえた様子はなかった。すぐに部下たちに向かって指示を出す。屈強な男たちが生徒達に、息がかかるくらいの距離まで近づいてきた。
五十年前の内乱期と違い、ここ最近妖怪たちはなりをひそめていたため、初めて間近に妖怪を見た生徒も多かった。たちまち甲高い悲鳴が上がり、少しでも遠くへ逃れようと通路へ駆けだすものもいた。
「落ちついて! 席に座れ!」
清水が堂々たるテノールで、生徒達に声をかける。わんわんと響いた聞きなれた声で安心したのか、生徒達の動きが止まった。
「全員、そのケイタイというのを出せ。ここの情報を外に出すことは禁ずる」
清水に向かってゴーライがそう言う。清水の目が泳ぎ、怜香と視線が空中でかち合った。
「みんなに協力するよう頼んで下さい。必ず助けは来ますから、それまで無謀な行動は慎んで」
怜香は頭を下げた。この状況にあって妙に落ち着いているのを清水に不審がられないかと思ったが、幸い彼はそこまで勘ぐらずにすんなりと頷いた。
「いいか、袋を回すから、そこに携帯を入れてって」
清水はそう言いながら、手元にあった袋から譜面を抜く。そして自分のポケットからスマートフォンを取り出し、袋に放り込んで隣に回した。生徒達は清水にならい、しぶしぶながらも回ってきた袋に自分の携帯を放り込んでいった。
袋がホール内をひと回りして、ゴーライのところに届けられた。その間も着信音が鳴り響き、重なり合って奇妙な音楽を奏でる。時折、表面が携帯の振動で揺らされて生地が波打った。
ゴーライはふんと鼻をならしながら、紐をゆるめて中身を確認する。納得がいくまで眺め終わると、ステージ外にいる部下に袋を渡す。
男たちはそれをぽいと地面に放ると、無表情のままかわるがわる槌を振りおろし、あっという間に全員分の電話を単なる金属片に変えてしまった。それが済むと、またイッポンダタラは扉の前に戻っていった。
これだけ女学生がいるのに、ホールの中は静まり返っている。時々ごくりと唾をのむ音が聞こえた。怜香は外の音が聞こえないかと耳をすませたが、機密性の高さに阻まれ何も聞くことができなかった。外の様子が分からないのは痛い。
いきなり空を覆った黒色の壁が、このホールだけを覆っているのだろうか。しかし、さっきゴーライは『この学び舎は』と言った。学校全体乗っ取られたと考えておいた方がいいだろう。
しかし、学校全体を覆ってしまえば人質は軽く数百人を超えてしまう。流石にそれは犯人たちも持て余すだろう。
学食や屋台に少しくらいは食料の備蓄があるだろうが、数百人が一斉に飲み食いすればそんなもの一瞬でなくなってしまう。そうなる前に、まともな犯人なら人質の数を減らしに来るはずだった。
まだ交渉の余地がある。絶望する状況ではない。怜香は拳を握り、深呼吸して椅子に座りなおした。今は、気力と体力を温存すべきだった。
「これから一体、どうなるんでしょうね」
一丞がぼそりと不満を漏らした。無意識に、背広の胸ポケットにのばした手を引っ込める。響がぼそっと「禁煙しな」と言った。怜香は苦笑しながら一丞に答える。
「さあ……とにかく、今は余計なことはしない方がいいわ。男手ばっかり一列に集めてるのは警戒されてるからよ。特にあなたは体格が良くて目立つから」
「はあ。性に合いませんが仕方ないですね。ん、都様どうなさいましたか」
「おしっこ」
一丞の袖口を無言でぐいぐい引っ張っている都が、切羽詰まった顔で言う。
「な、今ですか」
「しかり」
「ちょ、待ってくださいよ」
一丞が都を抱いてあわてて立ち上がる。今、目立つなと言ったばかりなのに、と怜香が止めようとしたがもう遅かった。見張りのイッポンダタラが、色めきたった。
「座れ!」
「用足しに行くだけやで」
青筋立てて怒鳴る男たちに向かって、大和がのらりくらりとした声で言う。
「なにもしないから、お願い……」
少しひるんだ男たちに向かって、怜香がそう言った。できるだけ一般女子に見えるように、哀れっぽい声を出し、少ししなもつけておく。目薬の準備がないのが悔やまれた。
渋る部下の背後から、ゴーライが声を放つ。
「いいだろう。しかし、我々の監視をつけるぞ」
ゴーライが軽く首をしゃくると、怜香たちに一番近いところにいた男が道をあける。
「許可が出たわ。行って」
目的が達成されたので、怜香はあっと言う間に普段の態度に戻る。一丞が都を抱えあげ、どたどたと扉から出ていった。その後から、イッポンダタラが数人ついていく。
「あたしも行きたい」
「え、じゃああたしも……」
都と一丞が出ていったのを見て、生徒の中からざわりざわりと声があがる。普段のくせが抜けないのか、一人行くと言い出すと、その友人たちもセットで声をあげた。
「一度に一組だけだ! さっきの男たちが帰ってくるまで待て」
ゴーライが苦り切った顔で言う。用便も一人で行けないとは、なんて変わった種族だと思っているに違いない。
怜香の右隣の大和があくびをする振りをしながら、扉の前の男たちをじっと見ていた。彼のことだから、戦うことも視野に入れて相手の品定めをしているのだろう。さらにその奥では、響が鞄を抱え込むようにして座席につっぷしていた。
「気分でも悪いんですか?」
怜香が声をかけたが、響は体勢を変えずに無言で首を横に振る。
「寝る」
一言だけ響から答えが返ってきた。
「神経ぶっといなあ」
大和が驚いて響を見つめた。そんな視線をものともせず、彼女はしっかりぬいぐるみを握りしめながら動かなくなった。
葵たちがじりじりしながら待っていた一報が届いたのは、昼を過ぎたところだった。
「出動要請が出たぞ。今後、本事件の捜査は警察と軍の共同で行うことになった」
「やっとですか。事件発生から三時間もたってのお達しとは」
「これでもかなり早い方だぞ。噂では、鈴華に娘がいる関係者が複数いて、嫌がる連中の尻をたたいたらしい」
「対策本部が警察と合同になるぞ」
「で、どっちに腰を据えることになるわけ?」
誰かがぱつんと言った一言で、その場に奇妙な沈黙が流れた。
「そりゃあ……こっちだろ。妖怪に対応してる設備は軍にしかないんだし」
「理屈はそうだけどさ。後から入ってきたこっちが、警察のお株を奪う形になっちゃうのはいいわけ? ただでさえ上層部はクソほど仲悪かったのに」
「そこは、こっちが下手に出るしかないだろうよ」
部下たちが、どうしたものかと葵の方を見つめてくるのがわかる。葵は無言で直通ダイヤルを回した。
「署長。遅くなりましたが、軍も作戦に参加します」
「ありがたいね。こちらは包囲は済んでいるが、状況は膠着状態だ」
「今後、対策本部は軍部に設置します。警察側で対応にあたっている人員をこちらに移動させてください」
「……君ならそう言うとは思った。向かわせよう。あくの強い連中だが、みんな有能だ。うまく手綱をとってくれよ」
「善処します」
葵は通信を打ち切って、ふうと息をついた。背後から、「なんだあれ」「署長相手に躊躇なく言い切ったぞ」という誰かの囁きが聞こえてきたが無視して指示を飛ばす。
「さあ、これから警察の連中がくるぞ。愛想よくお迎えしてくれよ」
「撃ち合いにならなきゃいいですがね」




