猫の右手は悪魔も倒す
「やってみたことに意義があるのさ」
つまり、今回分は全てボツということである。二人の話を聞いていた葵は、俊に画面を見せろというように顎をしゃくった。
俊がぽいと端末を投げた。綺麗な放物線を描きながら、それは葵の手に収まる。横取りし損ねたマル姫が悔しげに地を踏んだ。あの図体で飛べる気でいたらしい。
ふんふんと足元にまとわりついてくる姫をいなしながら、葵はメールの文字を読み上げる。
「ボツ一。海に潜れるようになる薬」
「そりゃ、水中で呼吸できれば少しは生存率が上がるだろうけどね。人間はもともと海向きの体じゃないんだよ。川や海の妖怪に水中戦を挑んで勝てるはずがない」
俊が鼻をならした。葵は続けてメールを読む。
「ボツ二。禿が治る薬」
「軍事用としちゃ、どうしろって感じだね」
「市販されたら売れるだろうけどー」
のんびりと言う修の一言を聞いて、葵は首を横に振った。
「簡単に販売されるかな」
鬘メーカー、育毛業界対美容業界。髪が生えれば、潤うところと餓えるところが出るのである。とかくこの世は世知辛い。多方面から色々な横槍が入ってくることは容易に想像できた。
「ボツ三。歯が生えてくる薬」
「傷痍兵の復帰用ならいけるんじゃないのー。口がやられると、食べるのも厄介そうで可哀そうだよねー」
「ただし、げっ歯類のように始終生えてくる歯になる」
「やめとこうー」
候補は全て読み上げられた。こうしてみると、ボツになって不思議なしのラインナップである。
「駄目だな。耳鳴りの薬もないか」
「妖怪に耳ってあるのかなー……とりあえず、今はないねー」
出てきたら報告してあげるよ、と俊が言ってきたので、葵はそれで引き下がった。
「しかし、世間には知られてないけど、色んなものがあるもんだねー」
修がしみじみと言う。確かに、十五歳の双子と十三歳の男子が知っていることが奇跡的な内容である。
「持つべきはコネのある肉親だね」
「いいことばかりでもないけどな」
葵は立ち上がって、俊に端末を返す。俊はそれを再びしまって、
「久しぶりに母屋でご飯食べようかな」
と呟いた。
「いいけど、都と爺さんが行った後だぞ」
「うわー、じゃ戦場じゃん。今行ったら迷惑だね。記録済ませとこう」
「まだ書くのー? 今度は一体何ー?」
「試験段階に入ってる薬の治験に参加してるんだよ。そのままでは人間に効果がないけど、アミノ酸を何個か置換したら面白い結果が出たやつ。サンプルもあるよ」
「僕、そんなの聞いてないけどー?」
俊は得意げに胸を張ったが、修はいぶかしげに顔をしかめている。
「俊、危ないものじゃないだろうねー」
「僕が、安全な物に喜んで手を出しそうな性格に見える?」
「見えるよー。また自分の体で実験しようとしてるー……」
「誰かが飲まなきゃならないんだよ。僕みたいなのも人類の進歩には必要さ。それに、今度の薬はすごく面白いやつでね。もっと参加者が欲しいんだけど」
俊はそう言ってにんまりと笑う。学者としての好奇心なのか、単に危険好きな馬鹿なのか。おそらくその両方なのだろうと葵は思う。
「治験に入ったってことは、実用化も視野に入れてるってことだな。何の薬だ」
「ふふん、そこまでは教えられないなあ」
俊は勿体をつけて胸を張った。葵はなんとも面白くない。腕組みをして理由を聞いた。
「なんでだよ」
「優秀な弟よ、君も一つくらい知らないことがあったって構わないと兄は思うのだ。欠点があることこそ人間の美点だよ」
俊は芝居がかった仕草で、大きく前に倒れこんだ。葵は氷柱のような視線を投げつけて言う。
「本音は」
「面白いから言わないだけ」
「しばくぞ」
それからしばらく、葵と俊はきゃんきゃんと犬のように他愛もない喧嘩をした。兄弟が存分に心温まる交流をしているところに、涼やかなチャイムの音が連続して鳴った。
「あれ、誰だろうねー」
修がすたすたと玄関の方へ歩いていく。廊下を曲がって、下僕の細長い背中が見えなくなると、急にマル姫がすっくと立ち上がって彼の後を追った。
「普段はいなくてもかまいませんって顔してるのに、こういうところは可愛いね」
尻を振りながら去っていく猫の後ろ姿を見ながら、俊が茶化した。
「ぶにゃぎゃあああああ」
姫を見送ってから三秒。廊下の向こうから猫の絶叫が反響を伴って聞こえてきた。
「ぎゃあああ」
猫の声に混じって、葵には声の主がはっきり分かる馬鹿でかい悲鳴が聞こえた。葵はすぐに立ち上がり、手の関節をほぐす。
「おのれ悪魔、まだ死んでなかったか」
「悪魔?」
葵のただならぬ様子を見て、俊が怪訝な顔で聞き返してくる。
「悪魔がマル姫に成敗されたのならいいが」
「飼い猫に負ける悪魔っている?」
とにかく様子を見に行ったら、と俊に言われて葵は腰をあげた。階段を横目に、ぐるりと回るように廊下を進む。
そこここに姫の食べ残した固形の餌が散らばり、時々葵の足にぶつかってどこかへ飛んで行った。数多の猫グッズが鎮座するホールを抜けて、玄関に辿り着く。
「あー」
葵は声をあげた。そこには驚きなど毛の先ほどもない。予想通りだった、という確認のために漏れたような声である。
「こら、マルさんー! だめー」
葵の目の前で、マル姫は明らかに怒っていた。下僕が止めているが、姫の全身からゆらりと闘気がたちのぼっている。何も知らない悪魔が、不用意に気位の高いお嬢さんに触ろうとしたに違いない。
めったやたらに猫パンチの猛攻でも食らったのだろう。悪魔は勢いをなくし、紙袋を頭からかぶってじっと座り込んでいた。傍らでは、姫が反復横とびのように左右にしゅっしゅっと動きながら獲物の様子をうかがっている。
葵は機敏な姫に声をかけた。
「姫、もうその辺で」
ふしゅう、と息を漏らし、不満顔の姫に向かってもう一言付け加える。
「お手を汚すほどの相手ではありませんぞ」
姫は、ふんと鼻を鳴らして、攻撃態勢を解く。まったく、こちらの言うことがいちいち分かっているような聡い猫だ。
後は任せましたよ下僕C、と言わんばかりに小さく鳴いてから、のしのしとぶっとい足を動かして姫が奥へ消えて行く。
修が袋男の体を改めたが、姫は爪まで出していなかったらしくどこにも傷はなかった。葵はようやく、座っていた男に声をかける。
「何しに来た、御神楽大和」
「……」
大和は無言で首を振った。もしかしてそれで隠れているつもりなのだろうか。
「マルさんならあっち行ったぞ」
葵がそう言うと、袋男は一センチ刻みでちびちびと紙袋をまくりあげていく。ようやく袋を目の位置まで移動させ、安全を確認すると、彼は一気にそれを脱ぎ捨てた。
「おおお、えらい猫やったわ」
「当たり前だ。うちの姫だぞ。触ろうとしたのか」
「あのお腹がね」
やっぱりか、と葵は内心で呟いた。姫のふさふさとした長毛と、その下でたぷんたぷんと水枕のように波打つ脂肪たっぷりのボディは、初見の客がたいてい惹かれる彼女のチャームポイントである。
ただし問題は、彼女もその他大勢の猫と同様、腹を触られるのは大嫌いということだ。
日々せっせとお世話をしている下僕どもならともかく、昨日今日謁見したような人間が触ろうとしたが最後、彼女の伝説の右足(腕?)がうなることになる。
「で、何故ここにいる貴様」




