泣く幼女にはどなたも勝てぬ
「はあ、おしまいですか」
「俺が小食なのは知ってるだろ」
葵がそう言うと、老婆はふうとため息をついた。一切の無駄がない動きで皿を下げながら呟く。
「仕方ありませんねえ、もったいないこと。いつも朝はジュース一杯じゃないですか。お腹にたまりゃしませんよ、そんなもの」
「昼の学食が多いからちょうどいいさ」
葵の通う球磨宮中学、通称クマ校は中学では珍しい、大人数収容型の学食がある。メニューは少し値が張るが、有名ホテル出身のシェフを引き抜いているためどれも外れがない。育ち盛りの中高生にあわせて、ボリュームもかなりのものだ。
怜香が毎日弁当を作るのは面倒だと言い、よく学食に行くので、自然と葵も昼はたっぷり詰め込むことになる。そのため朝はいつも軽く済ませるようにしていた。
「ここのお食事の方が美味しいですから、どうせ膨らませるなら、うちのでなさいましよ」
「学食に行ったらそこのを頼みたくなるもんでな」
先々代が盛り立てるまで経済的に大したことはなかったため、三千院家で出る料理の種類自体は、一般家庭と大差ない。ハンバーグもあればカレーもある。葵の父は未だに好物を聞かれると「良く焼いた鮭の皮」と答えるくらいに、料理の種類については頓着がない。
しかし、使っている材料は有無を言わさぬ一級品である。戦争の影響で陸路が麻痺しがちな昨今、珍しくなった採れたての食材がふんだんに使われているため、実家の食事は涙が出るほど美味いことに異論はない。が、なんとなく実家で何もかもやってもらうのに気恥ずかしい思いがするのだ。
「それならお弁当を持って行きなさいな。怜香様の分もお任せを」
「いらん」
葵は速やかに断った。この家で軽々しく弁当と言ったら、すわ出番と三段重ねの漆塗り重箱が出てくるに違いない。巨大な荷物を抱えて通学するはめになるのは御免だった。
トヨが下がってから、葵は着替えて廊下に出た。引かれた藍色の絨毯を踏みしめて進む。金糸で織られた縁取りが、ようやく昇り始めた朝日を受けて光った。流石に十月ともなると、だいぶ日が短くなる。
間もなく、母屋の台所が見えてきた。メイドや料理人がばたばた走り回っているのが見える。どうも間の悪い時に来たな、と葵は思った。
「グダグダ言わずにさっさと置きなさいっ、今は御館様と都様のお食事時間よ」
年かさのメイドの声が響く。その間にも、テーブルに置かれていたお櫃に山盛りあった白ご飯がまたたく間に消えて行く。傍にあった味噌汁や鰈の西京焼きも、間もなく米と同じ運命をたどった。空になった皿を携えて、給仕たちがひっきりなしに台所へ戻る。
葵は彼女らを横目で見ながら、元気よく食事をしている大小のペアに近づいた。恐ろしいことに、たった二人のために、五十人は下らないスタッフがフル回転している。
それでも回りきらず、小さい方の前に置かれた皿が空になった。む、と顔を曇らせて皿を持ちあげた瞬間、その目が葵をとらえた。
「あおいにーに」
目が合った瞬間、鈴を転がしたような幼い声が葵の名を呼ぶ。葵は会釈し、挨拶を返した。
「おう、おはよう、都」
声をかけてきたのは、巌爺さんの隣で、幼児用の椅子に座った女児である。葵の声を聞くと、顔を大きく動かしてくしゃっと笑った。
くりくりした丸い目と、ぷっくりふくらんだ丸い頬が揺れた。三千院家の末っ子は今日も相変わらず元気だ。
「おはようじゃ」
都は時代がかった口調であいさつを返す。爺さん子で、彼とあまりにも一緒に長く時を過ごしてしまったが故に、今や完全にジジイ言葉を身につけた三歳児である。
巌爺さんは都の隣の特大の椅子に腰かけ、でれでれとやに下がった顔でその様子を見つめている。
「都は今日も元気か」
「みやこ、つよいこ、まけないこ」
椅子に座ったまま胸をそらし、都は小さい腕でガッツポーズをした。
「よしよし」
その意気やよしと葵は都を褒め称える。葵がなにもしていない時から、都はすいと葵の手の届くところへ頭を動かして撫でられる気でいる。生まれてから数年、周りの溺愛によって完成させられた一種独特な習慣である。
わしわしと頭をなでると、満足そうにむふふ、と都が笑う。漆黒でさらさらと流れる、柔らかい髪を一通り撫でくり回して、お嬢様の気が済んだのを確認してから手を離す。
「朝飯食ったか」
爺さんが話しかけてきた。葵はぞんざいにああ、と答える。
「またジュースだけか」
「今日はサンドイッチも食べた。あと、あれ正確にはスムージーとか言うらしいぞ」
爺さんもトヨと同様、最近聞いた単語はいまいち意味を認識していないし、聞いてもすぐ頭から抜けて行く。この会話は三十二回目だが、きっと三十三回目もあるに違いない。
「にいに、ごはんもたべんといかん。きょうはカレイじゃ」
二人の会話を聞きつけた、都の目がきらりと輝いた。こんな美味いものを何故食わんとそのきらめく眼が語っている。
「うーん、俺はあんまりいらないというか」
「なぜじゃ」
妹の黒い純粋な瞳で見つめられて、葵は珍しく返答に困る。そこへタイミングよくメイドが皿を持って戻ってきた。
「はい、鰈が焼けましたよお。あとからご飯もきますからね」
「おおおおおおお」
都は一瞬で葵の食生活に興味をなくした。葵はほっと息をもらす。美味い物を目前にした時、この幼女はたいそうな執着を示すのだ。
いつものご飯も、爺さんに隠れて目立たないが、小さい体で大の男一人分くらいは軽く平らげる上、それ以外の時もしょっちゅう何かつまんでいる。
葵はこっそり、家族の中で一番大食らいなのは彼女ではないかと思っている。
「カレイはひらべったいおさかなじゃ」
「おう、美味いな」
「じゅくじょのように、あぶらがのってじゅーしー」
「都、どこで覚えたのかなあ、儂それが知りたい」
三歳児は、大人の言ったことを、くだらないことも含め吸収している。出元を聞き出そうと見つめる、巌の瞳孔の開ききった目が怖かった。
「いっ」
巌を諌めようと何か言おうとして、葵が口を開いた時、きいんと金属を打ったような音がまた聞こえてきた。幸い音は数分で消えて行ったが、このまま悪化させれば二十四時間音が響くことにもなりかねない。
「にーに?」
兄の様子がおかしいことに気付き、都が顔を曇らせた。葵は妹を心配させまいと顔を起こす。
「大丈夫だ」
「きょうは、じいじとみやことおでかけじゃぞ」
「分かってるよ」
今のところ、耳鳴りは動けないほどの症状ではない。しかし、出先で始終耳鳴りがしていては、楽しむもなにもあったものではない。
「仕方ない。実験塔に行くか」
巌とともになんとかぐずる都をなだめ、葵は食堂を出た。薬でももらえば少しはマシになるはずだ。
庭に出て、葵は芝生をさくさくと踏みしめながら進む。
自分の部屋がある母屋を出て、数分歩くと目の前に、魔女の館のような円形の建物が見えてくる。太い柱に、そのまま窓があいたような姿をしており、屋根は少したわんだ円錐状。屋根のてっぺんには、黒猫をかたどったレリーフが陣取り、侵入者たちを見下ろしている。
ドアの上部にある、飾りガラスの模様まで猫モチーフが刻まれている。葵がそれを押しあけると、靴箱の前にも巨大な陶器の招き猫がいた。この前までなかったはずなのに、また仲間が増えている。
邪魔だが、下手に動かすとここの住人がこの上なく悲しむため、そのまま手を触れずに直進する。廊下に並ぶ鍵付きの棚には、ガラス細工の猫がびっしりと並んで小さな動物園のようになっている。カーテン止めも猫、ランプの足元にも猫。肖像画まで、猫が偉そうに椅子にふんぞり返っているものだから徹底している。
ホールを入って、一番奥にあるドアまで進む。そこが、主と下僕の寝室だ。




