ホウレンソウの時間
「そうですね。今の私には、その理由がない」
氷雨は空を見つめる。その先にいるのは、酒呑の姿だろうか。
「その銃にやられました」
氷雨がつぶやいた。怜香はかいつまんで説明してやる。
「はは……そういう……ことですか。良きにしろ悪しきにしろ、人は進歩する」
ヴァルキリーの槍が刺さったところから、じわじわと氷雨の体が崩れだしている。それでも彼は、話をやめない。
「私の血塊も……どうせその調子で克服したのでしょう」
怜香はうなずく。
「前の大阪の時に、サンプルは山ほど取れたから」
謎の血液であったが、何度も分析を繰り返すうちにその成分が判明した。
それから後の人間たちの動きは素早かった。この血液の真の恐ろしさは、対象に触れれば即時に凝固することである。
早急に抗凝固剤を開発することが、最重要課題となった。研究チームは、この要望に見事に応えてみせる。一年という短期間で実用に耐えうるサンプルを作り出し、さらにそれを熱から守るコーティングも作り出した。これにより、さっき怜香が撃った『溶解弾』が完成したのである。
怜香は他の弾と間違えないよう、わざと踏んでそれを曲げ、あらかじめ決めたビルの屋上にまいた。そして逃げ回るふりをしながらビルに戻ってきて弾をこめ──ヴァルキリーを解放したのだ。
「人は進む。良い方にも、悪い方にも」
手のカラシニコフを見ながら、怜香はつぶやく。
この銃はその丈夫さと使いやすさから、多くのゲリラやテロリストの愛用品となっている。最も普及し、最も人を殺した銃なのだ。しかし、これがなければ怜香が死んでいたことも、間違いない事実である。
「読み切れませんね……善なのか悪なのか……弱いのか強いのか……わからないからこそ、妖は人と相容れぬのかも……」
氷雨の体はすでに大半が分解しかかっている。彼の瞳だけが動いて、怜香を見据えた。
「兄弟は……いますか」
「姉が」
怜香が答えると、氷雨は笑った。
「なら……大事になさい」
怜香はうなずく。氷雨の目が、閉じられた。
「兄者。次もまた……」
その先を聞くことはできなかった。氷雨の体は塵となり、残らずビル風にさらわれていく。
行方を知ることはできない。彼の姿がすっかりなくなると、怜香は妙なむなしさをおぼえた。
(さっきまで殺し合いをしていたのに、なんて変な感情だろう)
京都のことを思うと、少し心は痛む。それでも、茨城と酒呑の魂が安らかであるようにと怜香は祈った。
☆☆☆
勝利の報が届いたのは、葵がトヨに責められている真っ最中だった。
「全く……最近はよく召し上がってくださると、厨房のもの全員で喜んでおりましたのに。まさかズルをしていたとは」
彼女はよせと言ったのに、葵にくっついてきた。そして次々に出す料理を食べないのを不審に思い、とうとうそのカラクリを突き止めたのだ。
「だってあれは明らかに多」
「黙らっしゃいッ。お館さまもお嬢さまも、貴方をそんな卑劣な人に育てた覚えはないとおっしゃいますッ」
婆さんはそもそも葵が幼い頃はいなかったし、軍師として英才教育をしていたのはあのジジイなのだが。そう反論したかったが、一言えば十になって返ってくるのがわかっているので、葵はひたすら口をつぐんでいた。
報が入ってきたのは、そんな時である。
「二佐、神戸港から敵が撤退していきます」
「大阪からも同じ報告が」
「すぐ行く。直ちに行く。立ち所に行く」
いつもの三割増しの速さで返事をして、葵は廊下をひた走った。「終わったら続きですよう」と地獄の牢名主が言っていたような気がするが、きっと疲れているからだろう。
「カメラで消滅は確認したな」
不吉な声を振り払うように、司令室に入った葵は言った。部下たちは怪訝な顔をしたが、やがてぼそぼそと話し始める。
「ええ。残った妖怪たちも、引き上げていきます」
「御神楽・久世両三尉ともに、手傷はありますが対話に支障はない様子。話をされますか?」
「ああ」
データは常に集めているが、現場にいた人間にしか分からないこともある。大和の方が重傷だというので、葵はまず大阪につないでもらった。
「おい、猿」
「勝ったでええええ、ざまあみろおお」
開口一番、ばかでかい声が葵の耳朶をうつ。少し甘い顔をしてみせればこれだ、と葵はため息をついた。
「勝ったのは分かった。俺が聞きたいのは敵の編成とか様子とか、そういう細かいことで」
「祭りじゃー、今日は祭りじゃー」
葵は無言で通信を打ち切った。
「……あの……もう一回試してみます?」
「二度とつながんでいい」
少しは心を入れ替えたかもと考えた自分が愚かだったのだ。人間の本性なんて、そう簡単に変化するわけがない。
「では、神戸に」
「葵?」
今度はすぐに、穏やかな声がする。さっきとは何という違いだろう。
「よくやった」
「うん……でも、素直に喜ぶ気にはなれない」
そう前置きしてから、怜香はぽつぽつと茨城の印象を語った。
「なんか、実力が出せてなかった気がするのよね。自分でも、どうしたいのか分かってなかった感じ」
「仲間割れか?」
「そうかも。ねえ、酒呑童子ってどこかで発見されてる?」
怜香が唐突に聞いてきた。




