糸が紡ぐ奈落への罠
「おい、マジかよ……」
溜まる業務に嫌気がさしたのか、さっきから空ばかり見つめていた葵の部下たちから声が漏れる。そろそろシバいてやろうかと思って、部下を見ていた葵はふっと動きを止めた。つられて彼と同じ方に視線を向ける。
窓下の道路に、見慣れたごつい漆黒のリムジンが止まっていた。そこから、これまた見慣れた人影が出てきて支部の玄関をくぐっていく。
だれていた部下の一人がいきなり椅子を引いて立ち上がる。わざとらしくスマートフォンの画面を覗き込んでから、ペンと電話脇のメモ帳をひっつかんで、出口に向かって全力疾走した。
「仕事中だぞ」
「今、兄貴が事故ったと連絡が!」
「お前一人っ子だろ」
だが、葵のつっこみを聞くことなく彼はドアを開けて飛び出していった。見れば、部署内がなんとなくつられてそわそわしている。
「仕方ない。三十分休憩」
葵がそう言うやいなや、わあっと歓声が上がり、部署内から次々と部下が消えて行く。窓の傍にいなかったものたちも三々五々に散って行き、最後に取り残された葵と怜香は、がらんとさびしくなったオフィスの中で大きく息をついた。
「何があったの」
怜香が聞いてきた。葵は何も言わずに窓下を指差す。
「あれ、葵のとこのリムジンじゃない」
「おう」
「て、ことは来てるの?」
「そうなるな。そろそろ来る頃だと思っていた」
葵と怜香が一階までとろとろ降りて行くと、すでにロビーには黒山の人だかりができていた。彼らが取り囲んでいたのは、群衆から頭ひとつ抜けた巨大な爺さんひとり。急な事態に、施設長が眉を八の字にしてただただ困惑していた。
「握手してえ」
「サイン下さいっ、おい、押すなよ」
「写真いいですかあ」
必死な声がそこここから上がる。その中で黒服をまとった、体格のいい男たちが群衆を整列させるために走り回っている。どこから出してきたのか、『最後尾はこちら』の札まで持っている奴がいた。
葵は群衆を無視して爺さんの元へ一直線に向かう。
「おい」
「君、順番は守らんといかんよ」
「実の祖父のサインなんか要るか。もうちょっと地味に来てくれって言っただろうが」
「えー、会議終わったその足で来てやったんじゃから文句言うなよ」
「いいから来い。結果、どうなったんだ?」
「儂、言うのめんどくさい」
「そのまま墓につっこむぞ」
葵が追いすがると、爺はやれやれと言いながら、群衆に背を向ける。そのとたん抗議と不安の声があがった。
「ちょっと休憩でーす。お孫さんと休憩でーす」
「おじいちゃんなんでねー、許してあげてねー。すぐ戻ってくるから」
絶妙のタイミングでフォローしている黒服たちにその場を任せ、葵、怜香と爺は車へ向かう。
「ええクルマやなあ。なあおっちゃん」
なぜか大和がべったりとリムジンに張り付いていた。こいつには絶対に言うつもりはなかったのに、何故ここにいる、と葵は悪態をつく。
「帰れ」
「のわっ! いきなり出てきてなんやねんお前!」
「これはうちのだ」
「へー、趣味ええやんけ。もっと明るい色なら最高やけどな」
「とにかく帰れ」
「嫌や。なんかある気配がする!」
犬のように吠えあう二人を見て、爺が呑気に笑った。
「仲が良いみたいじゃな」
「はい、お友達です」
怜香が言うと、二人は同時に議論をやめて即座に異議を申し出た。
「まあいい。君、御神楽さんとこの息子じゃろ」
「はっ?」
いきなり苗字を呼ばれた大和が硬直する。
「それなら無責任に言いまわるタマじゃなかろ。これからの話、一緒に聞きゃあいい」
爺は若者を残し、年に似合わぬ機敏な動作で車中に消えて行った。
「何者やあの爺さん」
「うちのクソ祖父」
葵が吐き捨てる。仕方ないので怜香が補足した。
「――先の大戦で、デバイス使用により最も多くの敵を葬り去り、最多の戦功章をもぎとった生ける伝説。退官はしたものの、未だ軍部内への影響力は大きく、無数のシンパを持つことから『影の大将』と呼ばれる人類の英雄。三千院巌、その人よ」
リムジン内は広く、葵たちは怜香を真ん中にして、三人横に並んで巌に向かい合った。運転手は車を降り、車内には四人だけとなる。
「まー、このせっかちが苛立っとるから結果から行こうかの。成功したぞ」
「よし」
「奴らとの会談は明日の夜だそうだ」
「本人たちは気付いてるか」
「いや、全く」
「ならいい。助かった」
それだけ話すと、葵は用が済んだとばかりにシートにもたれかかった。残された二人は全く事情が分からず顔を見合わせる。
「え、会談って何のこと?」
「お前、また裏でこそこそ何かしとったんかいな」
横から飛んでくる声に、葵は顔をしかめる。巌は自分からは説明する気がないらしく、懐から末孫の写真を取り出してうっとり見入っていた。仕方ない、と葵は口を開く。
「加藤のことだがな」
「もう処分は決まったんやろ?」
「表面上はな。新たな罰がある」
「どういうこと?」
「全面開戦前に、一度だけ会見の場が設けられる。そこに、加藤をねじこんだ」
「はあ。それが、罰なの?」
怜香も大和も腑に落ちない顔をしている。
「行って謝罪でもさせるんか? 確かに屈辱やろうが、口先だけならなんぼでも動かしよるで、あいつ」
「麻薬を使ってたから、あなたへの攻撃は本意ではありませんって申し開きには使えるんじゃないの。本人の罰にならないってことじゃ同感だけど」
「謝罪も申し開きも、出来ればいいな」




