傷よりもまだ高く
「だって無能だったんでしょう?」
「なかったのは研究者としての才能じゃない。金集めと媚の才能だ」
怜香がにやにや笑いながらきりかえすと、佐久間は拳を握りしめ、地面をたたいた。肉のまったくない、骨ばった彼の手ではさぞ痛かろうと怜香は思ったが、佐久間は痛がるそぶりすら見せなかった。
「なにをするにも金とコネがいる。基本の試薬一回分すら、金がなければ手に入らない。小さなポストでさえ、手に入れるには上の人間の引き立てが不可欠だ。学問の森へ踏みいって、俗世との縁が切れたと喜んだのもつかの間さ。結局、そこも外と変わらない世知辛い空間だった」
佐久間がきっと怜香を見据える。なにか言いたげなその姿を見て、先を促すように怜香は顎をしゃくった。
「僕は、あの葵とか言う坊ちゃんも大嫌いだ」
悲鳴のような、甲高い怒鳴り声。少しずつつもりつもった佐久間の不満という小さなコインが、瓶が壊れて一気にこぼれだした音だった。いいわよ、もっと壊れなさいと怜香は小声でつぶやく。
「あいつの周りには、ほんの小さな子供の頃から金がうなっている。
“この職に就けなかったら、明日の家賃の支払いは?”
“ああ、やっぱりだめだった。
電気が消えたら、ろうそくを買ってこようか。
いっそ寝ている間にろうそくが倒れて、自分と一緒になにもかも燃えてしまえば楽なのに。”
そんな思いをしたことなんか、ないだろう」
佐久間はぜいぜいと息を切らしてたたみかけた。いったん解放された不満はとどまることなくあふれだし、言葉になって怜香に襲い掛かる。
「僕は、あいつらなんかよりずっとずっと努力してきたんだ。やりたい研究をするために、全く遊びもせず勉強してきたさ。家に金がなくて、国公立しか行かせられないと言われたからだ。そうやって必死に勉強して、やっと研究所の試験に受かった瞬間、なにが起こったと思う」
「あなたがちょうど社会人になったくらいにねえ」
怜香はちらりと佐久間を見た。今、彼は三十台半ばくらい。理系学部と大学院を卒業したら、二十四か五のはずだ。ちょうど十年前くらいに、何が起きた? 思いついたことを口にしてみる。
「その時に、徴兵制度が変わりましたよね」
「そうだ、兵役だ。行きたくなかったさ。でも、とてもじゃなかったが個人で抵抗したところでどうしようもなかった」
確かにそれは個人の努力ではどうにもなるまい。佐久間はどう見ても兵隊向きではない体型だが、病気をしているわけではなさそうだ。兵役除外の枠には入れなかったのだろう。
「ろくに勉強する暇もなく、いきなり土地勘もなにもない基地に放り込まれた。こっちは好きできたわけでもないし整備兵だったのに、役立たずだのできそこないだのと一日中、罵声を浴びせられ、休みもなく訓練をさせられた」
しかも悪いことに、佐久間の送り込まれた部隊は上官がろくでもなかったという。彼が無計画に金品を妾にばらまいたり、自分の懐に入れていたせいで、会計は常にぐちゃぐちゃ。最も備蓄しなければならない食料や燃料がしょっちゅう不足していた。
その結果、腕力のない整備兵や通信兵からの資材カツアゲが頻繁に起こり、次第に味方であっても誰も信用できなくなったという。佐久間の神経がすり減らされ、わずかな物音にも過剰に反応するくらい消耗するようになってやっと、兵役が終わった。
幸い兵役中に大きな戦闘行為はなく、五体満足で帰還することができた。が、人生でもっとも貴重な数年間を望まぬ兵役で過ごしたことは、佐久間の人生に暗い陰を落とした。
「死ぬ思いで辛い兵役をこなしたのに、どこも僕を受け入れてくれなかった。ペーパーテストはさんざんな結果だったし、面接に行けば必ずと言っていいほど落とされた」
吐き捨てた時の佐久間の顔を見て、これは落ちるだろうなと怜香は思った。人間不信がにじみ出た卑屈な笑い。今は時間も経って表面上の笑顔が人並みになっているが、帰還直後はそんな余裕もなかっただろう。
「努力は絶対だ。これまで、それだけを支えに生きてきたのに。それなのに、あの坊ちゃんや加藤のような人間に出会ってしまった。嘘やおだてを使いこなし、上には弱く下には強い。自分のささやかな奮闘を根こそぎぶち壊し、人の生き血を吸うような加藤」
佐久間は拳を握りしめた。彼の骨張った拳が白くなる。
「そして生まれながらに、僕の努力をやすやすと越えていくあのガキ。自分がいかにがんばってもいじめられ、バカにされてきた加藤のような人種も、なぜか生まれながらの権威の前にはあっさり頭を垂れる。所詮、世の中血統やそれに媚びることが全て。それに気づかなければまだ平穏な気持ちでいられただろうに」
佐久間はここまでほぼ息継ぎなしで言い切り、肩をいからせた。しかしまだいい足りないようで、水をがぶがぶと飲み下し、また怒鳴り始める。
「もっと語ってやろうか。お前たちが知るはずのない、自分の力ではどうしようもない不運に巻き込まれる悲しみを。そこから抜け出るのは、アリ地獄に落ちたアリより難しい。人に嫌われ、さげすまれ、誰にも相手にされない苦痛。自分の命が粗末に扱われ、とるに足りないものとして扱われる無念。一言言えばおまえの生まれが悪い、才能がないのが悪いとと言いたてる赤の他人がどれだけ」
そこで佐久間の話は急に止まった。怜香が彼の胸倉をつかんでねじり上げたからだ。
佐久間がじたばたとわめくが、怜香は手加減などしない。結果的にこいつがくたばっても構うものか。佐久間の体を握り続けながら、彼の充血した両目をびたりと見据えて言う。
「知ってるよ」
怜香はその理不尽さを、誰よりも知っている。
佐久間の人生、苦悩、葛藤。その全てを、小娘がたったの一言でばっさり切り捨てる。明らかにしゃべった言葉の数は佐久間の方が多いのに、勝ち誇っているのは怜香の方だった。佐久間は真っ青になって、怜香を見上げる。
「無念でないわけがない、傷つかないわけがない、それでも私は超えて行く。その決意がない人間に、わたしの言葉は負けたりしない」
怜香はきっぱりそう言ってから、一番言いたかったことを口にした。
「あと、あんたの話。葵については完全に間違ってるわ」
怜香は誰よりも無愛想な幼馴染の、生まれてからこれまでの努力を見てきた。確かに、葵は見たもの全て一瞬で覚えてしまう能力が生まれつきあった。コネも強い。
しかし、それにあぐらをかいて彼が努力を放棄することはなかった。小さいころから数多の戦場に同行し、時に血まみれになりながらも軍師としての経験を積んできた。
葵なら楽をしようと思えばいくらでもできたはずだ。何故そこまでするの、とかつて聞いた怜香に彼はぽつりとこう答えた。
『死なせんためだ』と。
部下は上官を選べない。戦闘になった時、先に死ぬのも彼らである。
だから、上官は全力を尽くさなければならない。止まることは許されない。怠ることは大罪である。その分、誰かの無駄な血が流れることになるのだから。その歩みと熱意を無視し「生まれだから」で切り捨てるのは、侮辱だ。それもまた、差別である。
怒りをこめて、怜香が佐久間を床につき飛ばした。ぐうと唸った佐久間を三輪と則本が支えて立ちあがらせる。
「……おとなしく、出頭するわ。三人でね」
三人は寄り添いながら、怜香の横をすり抜けテントを出ていこうとする。そうはさせるか、と怜香は銃を彼らに向けた。
「まだ隠してることがあるでしょう」
「え?」
怜香が三人を見据えて言う。言われた三人は、ばしゃりと冷水を浴びせられたような顔になった。




