卑怯者は弱者をわらう
「久世三佐が非難……全滅のことか?」
「それは原因調査が必要だ。今の時点でどうこう言える話ではあるまい」
「ではもしかして撤退したことだけが原因で? 意外に古い考えだな軍部も」
戦略的には撤退は立派な選択肢の一つである。今回の場合は特に、逃げ出さなければ本当に文字通りの全滅だったかもしれないのだ。絶望的な状況で少しでも生存者を残したのなら、久世三佐は褒められてもいい。
「いや、前線で戦っている部下に通達もせず、自分の側近だけ連れて全速力で逃げ出したので問題視されてるんだ」
葵は何も言い返せずに腕を組んだ。怜香の父でなかったら、葵も「奴の脳天ブチ抜け」と言っただろう。軍隊はそもそも仲間意識が強い。味方を見捨てて逃げた人間には容赦ないのだ。
「最初はそんなはずはないだろうと思って、通信記録もくまなく調べてみたがな。本当に何の通達もなかった。これではさすがに、誰も庇いきれんよ。取り残された軍人たちの遺族も納得されんだろうな」
「……それはキツいな」
「マスコミへの対策はしてあるが、それでも軍関係者の口からあっという間に醜聞は広まるだろう。お前、ちょっと行って怜香ちゃんをうちに連れてきなさい。いつまでいてもらってもいいから」
今から遺族への説明、現場への部隊派遣、京都支部との会議などでしばらく父母ともに帰ってこられない状態が続くという。怜香の迎えはお前に頼むぞ、と言ってばたばたと父が駆けて行く。残された葵は、父が死に姉も重傷となった怜香の心境を思った。
うちに来たがるかは分からなかったが、誰も知り合いがいないよりはましだろう。それに、タチの悪い連中が私刑に走る可能性もある。葵は即座に辞書を置いて立ち上がり、家を出た。
冬は陽が落ちるのが早い。太陽はもうとっくに山裾に隠れ、空は薄紫に色づいている。吹きつける風で舞い上がった髪が額を叩く。不快さに目をひそめつつ、葵は全速力で怜香の家を目指した。
子供の足でも、走れば十分くらいで怜香の家が見えてくる。延々続く三千院家の塀が途切れ、戸建てのこじんまりした家が並ぶ通りに来れば、目的地はもうすぐだ。
怜香の家は、彼女の姉が園芸好きで、いつ行ってもなにかしら花が咲いているので非常に分かりやすい。亡くなった母から教えられた園芸の腕は若いながらも確かで、何を与えても大抵綺麗に咲かせてしまう。この前は白い可憐なパンジーやどっしりした葉ボタンが目印だったはずだ。
葵はうろうろと花を捜して歩き回ったが、一向に見当たらない。どうしたのだろう、と目を皿のようにして、ようやく「久世」の表札を見つけた。ひょいと玄関を覗き込んで、葵は息をのんだ。
遅かった。遅すぎた。
見事だった鉢は一つ残らず叩き割られ、根こそぎ抜かれた葉ボタンは無残にも根がむき出しになっていた。奥に進むと、綺麗に整えられていた花壇の若芽も残さず踏みにじられている。
被害は庭だけにとどまらない。落ち着いた煉瓦造りの玄関には、周りの色彩と全くそぐわぬ赤や黄色のスプレーが縦横無尽に走り回り、落ち着いた雰囲気を容赦なくぶち壊していた。
怜香が気にいっていた淡い黄色のカーテンが外の風に揺られてはためくのが見える。おかしいな、窓は閉まっているはずなのにと一瞬思ったが、その答えはすぐ分かった。一階の窓ガラスが派手に割れていたのだ。
葵は迷わず直進して玄関のドアに手をかける。しかし、ガチャガチャと大きな音を立てるだけで扉は開かなかった。
仕方ないな、ときびすを返す。さっきの窓枠のところまで戻ってくると、空の植木鉢を踏み台にして手を伸ばす。割れたガラスで手を切らないように細心の注意を払い、鍵をはずして窓を開けた。
そのまま窓枠の上に乗り、えいと部屋の中へ飛び降りる。土足で踏み入ってしまった事に気がとがめたが、室内にはガラスの破片が散乱していて、素足で歩きまわるのは危険すぎる。そのまま部屋をつっきった。
ごつ、と硬いものが足に当たった。ガラスよりはるかに重いその感覚に、葵はふと下を向いて確認する。
大人の握りこぶしほどもある石が、ごろりと絨毯の上に転がっていた。さっきの窓ガラスの惨状はこれが原因だろう。もし怜香がこの部屋にいて、当たってしまったら無事では済まなかった。顔も知らぬ誰かの、強い悪意がじわりじわりと石から染み出ていた。
葵はひととおり家の中を捜しまわったが、一階には人影はない。二階へ駆けあがった。
「おい、怜香!」
ドアを片っ端から開けて、幼馴染の名前を呼ぶ。今のところ二階にはひどい損傷はないが、それでもどうしても無事な顔が見たかった。
 




