山海経の娘
ほかの妖怪も、鳥たちもおらず、ただ空気の中を駆けぬける。横から胡蝶の口笛が聞こえてきた。どうやら彼女の機嫌も治ったようだ。
飛び続けた二体は、海の上にある社にやってきた。寂れた社に人気はなく、石造りの鳥居だけがかつてこの場所が神のすみかであったことを示すようにどっしりと立っている。
侵入者を拒む、びっしり生えた雑草がちくちくと二体の足を刺す。天逆毎はふんと鼻をならして本殿へ向かった。胡蝶がそのあとを大人しくついてきた。
本殿の扉を、天逆毎は蹴破った。本来は神がすまうはずの内部には、所狭しと真っ赤な鎖が張り巡らされている。鎖が何重にもなっている部屋の中心には、びくびくと脈打つ黒い菱形の結晶があった。
「これだけ封印の鎖があってもまだ動けるとはね」
封印した本人である胡蝶がため息をつく。
「大陸の妖怪を知り尽くしたお前に頼んで正解でしたね。他のものでは押さえることすら難しい」
天逆毎は不穏な動きをする結晶を面白そうに見ていた。
「封印のしかたは大変興味深いが、そろそろ出さなければ。胡蝶、頼むえ」
ついと天逆毎が後ろに下がった。変わって、胡蝶が前に進み出る。彼女の華奢な両手には、金色の手甲鉤が装着されていた。それを一振りする度に、赤い鎖がぶつりと切れていく。
最後の鎖が切れて、がらんと床に落ちた。次の瞬間、本殿の中にすさまじいまでの熱気がたちこめる。続いて、かっとまばゆいばかりの光があがる。
またたく間に粗末な祠は崩れ落ち、後にはなにも残らない。さっきまであんなに生えていた雑草は姿を消し、ひび割れた大地だけが広がっていた。残ったのは鳥居だけである。
「寝ていただけのことはあるじゃないか?」
「全くですわあ」
がらんとした土地を見ながら、天逆毎と胡蝶が眼を見合わせてくすくす笑う。その時、土埃の中から一人の女が姿を現した。墨を流したような真っ黒な肌をした、豊満な体つきの女だ。きろりと開いた眼だけが、切り取ったように白く浮き出している。
「我を起こしたのは貴様か」
「ええ、魃よ。私たちがあなたの力を必要としているの」
「……誰だ。ここは……中原ではないのか」
女はぐるぐると周りを見渡しながら聞いた。
「そこから遥かに離れた日の出ずる国の領土ですよ。祖国はあなたをできるだけ遠くへ追いやりたがったが、私たちはそうではない。あなたがいなくば困る状況にあるのです」
天逆毎が言うと、魃は身を乗り出してきた。
「ほう」
「私たちの国に、敵国の軍が駐留してしまいましてね。それがまた同族を苦しめるたちの悪い軍なのですよ。夷敵の恐ろしさはあなたもよくご存じでしょう」
「ああ。実に図々しいやつらだ」
「力をお貸しいただけませんか? もちろん、相応のお礼はさせていただきます」
胡蝶が満面の笑みでいう。魃は少し考え込んだが、首を縦に振った。
「封印をといてもらった借りもある、話を聞こうか」
「寛大なお方で助かります。では胡蝶、ご案内を」
「あいな。飛べますか?」
「可能だ」
あっという間に話はまとまり、ふわりと二体は海の上へ飛び去っていった。荒れ果てた砂の山と化した地面を見ながら、天逆毎はにやりと笑う。
「もう出てきてもよいぞ」
海に向かって天逆毎が言うと、ぐらりと海面が揺れた。
「俺が言うのもなんですが、単細胞な女ですねえ。故郷と黄帝に復讐しようとうろついてたあいつを封印したのは胡蝶ですよ。いつか使えるかもしれないからって」
海中から、牛鬼の佐門が姿を現した。
「まあ、あの女は昔からいい目をみていませんからねえ。少しおかしいとは思っていたようですが、誰かから必要とされる快感には勝てなかったようですよ」
「ダメな男をせっせと面倒見る女ですな」
「さぞかし君みたいなのが好きなんでしょう。めあわせてあげましょうか」




