君の名は。
氷雨の回りを飛んでいた血の飛沫が、コウモリの形になってパタパタとはためきだした。どす黒いコウモリたちは一斉に和泉の方を向き、挑発するように氷雨の近くを飛び回る。それが二巡、三巡するうちに、和泉の目が霞んできた。
荒い息づかいを聞いた氷雨が、じろりと和泉をにらむ。和泉はジリジリと距離をつめ、一気に攻めこんだ。
それをうけて、氷雨が動いた。氷雨の左手に集めたどす黒い血液を器用に変形させて、巨大な斧を作る。それを上段にかまえ、和泉に向かって突進してきた。
和泉は反射的に空を蹴る。続けて二度三度と駆け上がって刀をかわし、氷雨の目の前に躍り出た。
霧を出される前に、決着をつける!
今まで和泉の周りに渦巻いていた風が、一気に消える。それにかわり、和泉の両手に白い二つの三日月型の鎌鼬が生まれていた。プロテクターが弾丸にはじき飛ばされる衝撃に耐えながら、和泉は氷雨に狙いを定めた。
「くっ!」
氷雨の喉から声が漏れる。彼の顔から余裕が消えた。絶好の間合いに入り込んだ和泉は、迷うことなく全力をこめた鎌鼬の連撃をくり出した。
生か死か。
鎌鼬が相手に命中した手応えとほぼ同時に、和泉の右手と左足、脇腹に弾丸がめり込んだ。一気に体内の血が流れ出し、和泉の体をしとどにぬらす。和泉は歯を食いしばり、なんとか失神するのを避けた。
ギリギリの状態のなかで、和泉が唯一できたのは、相手を見据えて口角をわずかにつり上げて笑うことだった。
和泉から、氷雨が見える。鎌鼬は、氷雨の右腕を二度、交差する形でざっくりと切り取っていた。ひゅう、と和泉の喉から声が漏れる。
「……勝ったで」
主に活躍を認めてもらうのを待っていたように、次の瞬間、鎌鼬がしゅん、と消える。それに続いて、氷雨の右腕から大量の血が吹き出し、てんでばらばらな方向に散っていく。これまでとは比べ物にならないほど、大きな血柱がなくなったとき、和泉の前に立っていたのはさっきの青年ではなく、上体を斜めにし、今にも倒れそうな小さな子供の姿の氷雨だった。
氷雨の顔が青ざめ、その後般若のような怒りの顔になる。
「どうした。急に小そうなったな。致命傷を避けるためか」
和泉は軽口をたたく。氷雨が唸った。
「わかりやすい挑発どうもな。しかし、二度も騙されへんわ」
あの勝負の瞬間。感情のまま、氷雨の心臓を狙おうとしていた和泉の頭を、ふと葵の言葉がよぎった。
『馬鹿でない相手が、常識に外れたことをした場合。それには必ず裏があります』
違和感は二度あった。一度目は、和泉が最初に氷雨を攻撃したとき。なぜか彼は体を腕で庇わなかった。大体の生き物は、とっさの場合には、腕を犠牲にしてでも本能的に胴体をかばう。それなのに、なぜ彼はやられるままに腹をさらしたのか。
二度目は、飛んでいたコウモリだ。これまでの行動から見ると、氷雨は慎重な妖怪で、相手に決定的なダメージを与えるまで、自分の正体をばらしたがるとは思えない。それなのに、どうしてわざわざコウモリなどという分かりやすいモチーフを出して見せたのか。
この二つの違和感が一気につながった。和泉は即座に氷雨の正体を見抜き、彼の弱点を狙い撃ちすることに成功したのだ。
「氷雨ねえ。えらい洒落た名前つけとるやないか、茨城童子」
まだ悶絶している氷雨に、和泉は意地悪く彼の本当の名前で呼び掛けた。流石に「そうです」と返事をするほど氷雨はバカではなかったが、その表情は、はっきりと和泉の仮説が正しかったことを告げていた。




