海の猫は狡猾に笑う
しばらく兄が必死になっているのを見ていたが、カリュブディスは途中で飽きて、ぶるりと大きく体を震わせる。
「うわっ!」
激しい振動に負けて、槍の先があっさりカリュブディスの腹から外れる。ばか正直に槍を握りしめていた兄は、そのまま地面に叩きつけられた。その無様な姿をあざ笑い、カリュブディスはかちかちと歯を鳴らす。
「橘小隊長、なんでや」
「それ以上言うな」
駆け寄った兵士が兄に声をかけたが、真っ赤な顔をした兄はみなまで言わせなかった。ちっぽけな男だが、それなりにプライドはあるのだろう。
「……それで小隊長です? つまらない、よく恥ずかしくないものです」
カリュブディスは吐き捨てた。男の顔が赤から青色に変わる。さらに兄を煽ってやろうとしたその時、またがつんと嫌な衝撃がカリュブディスの体を襲った。今度は肩だ。カリュブディスの視界に、弟が飛び込んできた。
「…………」
弟が、怒りに満ちた目でじっとカリュブディスを見つめている。一言もしゃべらぬ男ゆえか、その両目は常人よりもはるかに感情を映していた。兄貴をバカにするな、とはっきりその目は言っている。
「バカにするなと言われてもです。弱いものは仕方がないのです」
カリュブディスはため息をついた。さっき弟にやられた肩が、ずきずきと痛む。分厚い皮下脂肪に覆われている体が、ここまで痛むのは久しぶりだ。見かけ倒しの兄と違ってこいつの実力はなかなかのもの。愛想さえあれば、弟のほうが小隊長だったに違いない。
ひゅんと音がする。また弟が武器を投げてきた。真円の武器はくるくると回りながら、カリュブディスの目の前に現れる。が、今度はカリュブディスにその動きがはっきり見えている。あー、と大きく口をあけ、カリュブディスは投げられた武器を飲み込もうとした。一旦自分の体内におさめてしまえば、もう弟がこれを取り戻すことは不可能だ。勝ちはこちらのものになる。
……そのはずなのに、カリュブディスの本能が警告を発した。強い不快感に逆らえず、カリュブディスは開きかけた口をつぐんで後ろに体を倒す。
そのとき、確かにはっきりと弟が顔を歪めた。くん、と大きく投擲武器が曲がった。次の瞬間、今まで滑らかだった武器から急に、三日月状の鋭い刀が生えてきた。刀はカリュブディスの顔を一瞬かすめ、再び弟のところへ戻っていく。
カリュブディスは背中が寒くなった。おそらく、投げるときに何らかの仕掛けを動かすことで、あの刃が姿を現すようになっているのだろう。打撃だけなら受け止められる、と油断した敵を始末するための合理的な仕掛けた。
恐ろしいやつだ。いかに丈夫な胃袋とはいえ、外皮の強度には遥かに劣る。飲み込んでいたら、大ダメージは免れなかった。やはり、弟とはあまりやりあいたくないとカリュブディスは思った。
今回の目的は戦闘でなく、あくまで敵の頭をつぶすことだ。弟の横を抜けられそうならそうした方が良い。カリュブディスは巨体をのたりと持ち上げた。さて、右か左か。抜けられそうな場所はどこだ?
……いや、いる。
茂みの中か、石垣の影か。左にも右にも、伏兵が張り付いている気配が感じられた。休暇で人が出払っていると聞いていたが、なかなかどうして、豊富に人を配置しているではないか。己の力に任せて強行突破してみようかと思ったが、まだ弟がいる。横から攻撃されるかもしれない。
結局、あの弟をなんとかするしかないという結論に達した。まあ、しばらく援軍は来ないから、気長にやろうとカリュブディスはため息をつく。
気持ちを切り替え、カリュブディスは後退する。そのままずるりと外堀に体を沈めた。いつも自分がいる海と違ってやたらと狭い。スキュラに「詰まるんじゃないよ」と嫌みを言われたことを思い出し、カリュブディスは苦笑いした。
どうにかこうにか体を沈め、がばり、と堀に満ちていた水を吸い込む。ごぼごぼ、と大きな音をたてて水面に渦巻きが現れた。




