非力な男に牙がある
清姫の絶命を確認して巌が左手を離すと、どさりと音をたてて蛇の巨体は地に落ちた。
彼はふう、とひとつ息をついて両腕をぐるぐると回す。散々飛んだり跳ねたりした割には、額に汗一つ浮かんでいない。
「無事か、鷹司の」
「ええ、おかげさまで」
「うちのはどっか行ったのか」
「怪我してたので離脱してもらいましたよ」
「そうか。相変わらず実戦に来ると怪我しやすい奴じゃの。毎回なにかしら生傷を作っとるわ」
「ふつうの人間は戦場に来たら、なにかしら傷ができて当たり前ですよ」
隼人がたしなめると、巌はそうかもなと言って笑った。大体にして天才とか異才とかいうものは、判断の基準が他人と違うものだ。
若造の隼人がそう指摘しても、巌は気にした様子もなく清姫の死体を背にして歩きだした。
「置いていかないでくださいよ」
口をとがらせながら、隼人が巌の後を追おうとして一歩踏み出した。二歩目を踏み出そうとした時、急に巌が目の前から消えた。
「三千院さん!」
隼人が自分を呼ぶ声が、遙かに下の方からする。ちりちりと熱気を含んだ風に頬をなでられ、巌は身を震わせた。
「また会ったねえ」
ぬっと左側から、焼け焦げた女の顔が現れた。片方の瞼が完全になくなり、血走った眼球がせわしなく動いている。
「だ」
誰じゃ、と言いかけて巌ははたと口をつぐんだ。ひらりと揺らぐ着物の柄に、見覚えがある。
「誰だとはご挨拶だねえ」
「紅葉、とか言ったか。往生際の悪い奴じゃな」
「女がこんな顔にされて、黙っていられるとでも思っているの」
紅葉がきっと巌をにらむ。息をのむ巌に見せつけるように、焼けただれた頬をずいと近づけた。元が美しかっただけに、その落差に巌は背筋が寒くなる。
「儂をどうするつもりじゃ」
巌が問う。紅葉はその質問には答えなかった。風はますます強くなり、地面は遠く届かない。
落として殺すつもりか、とまず巌は考えた。しかし、にやにやとひきつった笑みを浮かべる紅葉の壮絶な表情を見て、早々にその考えを引っ込めた。楽に死なせてはもらえなさそうだ。
紅葉がついと巌から離れた。助かったわけでもないのに、巌の喉から安心したような息が漏れる。
「助けもこない、自分の攻撃も届かないこの状況で笑うか。いい度胸だね」
「笑っているわけじゃないがの」
「こっちにゃそう見えるんだよ。忌々しい死に損ないだこと。まあ、そんな余裕がいつまで続くかだね」
紅葉の周囲にぼうと橙色の炎がともる。空気の温度が上がり、巌の顎から汗がしたたった。
「蒸し焼きにされた人間はどんな顔になるんだろうねえ。そのごっつい顔が炭になるまでじっくり焼いてあげるから安心していいよ」
「く……」
炎球はぐるぐると、淀みなく巌の周囲を巡る。一角だけ大気の流れから取り残されたように、じわじわと温度が上がっていく。
「ああ面白い、もうすぐ人の肌が焼けて膨れて醜くなる。私よりも醜くなる、ああ楽しい! 佐門さまにも良い報告ができそう」
けたけたと笑いながら紅葉は体をよじる。わずかに焼け残っていた腰元の着物から、白い牡丹がちらりと咲いた。
「本当はあの能面小僧も焼いてやりたかったんだけどねえ。次回に取っておくよ、どんな顔をするか楽しみだ」
葵の顔はきっと死に際まで変わらないだろうし、ふてぶてしいのも相変わらずだと思ったが巌は口には出さなかった。そろそろ全身から汗が噴き出してくる。天日にあたった干物になった気分で、巌は目に入ってくる水滴をぬぐった。
「さあ、焼けろ焼けろ」
巌の余裕がなくなってきたのを見てとり、紅葉が嬉しげに身を乗り出した。骨が覗く指をせわしなく動かし、半分なくなった舌を突き出している。
「燃えろ燃えろ悶えて死ね」
「ああ、そうだ。……お前がな」
巌がすっと紅葉を指さした。ちょうど首の真ん中。すでに焼けて黒ずんでいた彼女の首から、ぼっと炎があがる。
「は?」
紅葉がすっとんきょうな声をあげる。さっきまでの雑言が嘘のように、悪意のない子供のような声だった。
灯った火はさらに燃え広がり、あっという間に首筋の半分が焼け落ちた。巌を苦しめていた熱気がみるみるうちに引いていき、一気に汗が冷える。
紅葉の口がぱくぱくと二回動いた。術が解け、巌は落下していく。その間に唇の動きから彼女が言いたかったことは読みとることができた。
なぜ。
それが紅葉の最期の言葉だった。
「次弾、目標に命中」
「術式が解除されたな。じじいが落ちてる」
葵がさらりと言い放つ。遠目に見ても、巌の巨体が数メートル上空から地面に激突する様はよく見えた。
「うわ」
部下が思わず目を覆うが、葵は「あの程度で死ぬような人間ならここへ呼ぶものか」と平然としていた。
葵の言葉を裏付けるように、地面にべちゃりと落ちた点は、しばらくするとせわしなく動き出した。そこここから安堵の声があがるなか、葵は双眼鏡をのぞきながら舌打ちをする。
「バク転してやがる、あのジジイ」
どこまでも人外な生き物にため息をつきながら、葵は砲を基地へ戻すよう指示を出した。
「まあまあ、三千院一尉。そうおっしゃらずに。おじいさん孝行だと思えば」
「……」
「嫌そうですね。お手柄なんですから、もっと嬉しがられても」
葵は別に手柄でもなんでもない、と反論したくなったが「ああ」とだけ言って頭を振った。あそこで紅葉が出てきたのは完全に予想外だった。葵の標的はあくまで清姫で、巌がああも速く勝ってしまうとは思っていなかったのだ。
とどめを刺そうと、最初に壁を破るのに使ったレーザー砲で、蛇に照準をあわせ待機していたのがばかばかしくなってくる。が、いつまでもくさくさしていても仕方ない。
「……結果的に役には立ったがな」
紅葉のことは最初から鼻についていたので、葵はそうつぶやいて自分をなぐさめた。
きっとあの女は、勝利を確信していた。それが一気に逆転し、なにが起こったかわからないまま絶命したに違いない。そう思うと少し胸がすっとした。
葵は再び双眼鏡を目に当てる。校舎からはまだ黒煙があがっているものの、耳に入ってくる無線の声はいずれも戦闘の終了を告げていた。鈴華の方も大きなトラブルなく作戦を完了していた。葵は一通り話を聞き終えたところで、部下たちに向かって声をあげた。
「終わりだ。全員、事後処理にうつれ」
葵たちは妖怪たちを一掃した後、都と響を目ざとく見つけ、抱いて離さない巌を置いて、生存者の捜索とがれきの処理に追われた。それにしても響はともかく、姿のかわった都まで一発で見抜いたのは大したものだ。
立塚では校舎の損傷がひどかったため救助犬まで動員されたが、まだ生きていたのはわずかに三人だけだった。
あとは延々、遺体を探しがれきを運び出す作業が続く。分かっていたこととはいえ気が沈む作業だった。葵も部下たちと交代しながら、できる限りの処理を進めた。




