第二章 第2話 行方不明、中押冴朱 (DAY 1)
開戦冒頭に引き起こされた事件、完全犯罪と思われたが、思わぬ目撃者がいた。
中押冴朱のミステリアスな活躍回です。
鳴り続く拍手の中、京美さんは見慣れない赤のラバーで包まれた一見して特殊と分かる首輪切狭を使ってパチリ、パチリと第十六部隊の首輪を手際よく回収していく。
「新しい正式な首輪申請手続きは済ませておくから、安心してね。それでは、先生方、お騒がせしましたっ」
独特の甲高い声で周囲を煙に巻くと、京美さんは颯爽と体育館を後にしていった。
京美さんが去った後も、ボクの周囲を含め、体育館は異様な熱気に包まれていた。
「すごいじゃないか、誰がやったんだ?」
当たり前のことだが、英雄を探す声が上がる。
「第十六部隊って、誰がいたっけ?」
確かに、本命視されていたのは第十三と第十五だったっけ。ボク自身、まだクラスは全然、把握していないので、さっきの拍手の輪の中にいた人物を探す。
そうするうちに、紅潮した顔から、ちょっと気まずそうな顔をした男子生徒が声を上げる。
「ぼ、僕たちだけど……、じつはよく知らなくて、ラッキーとは思ってる。でも正直なとこ、何がどうなっているのか、訳が分からない」
まわりには首輪を外された三年生と思しき、もう一人の男子と女子が二人。
不安そうに女子どうしで勝利を確認している。
「なんだか知らないうちに勝ったって、本当なの……?」
「それは大丈夫よ、交戦監視員のヒトが首輪を外していったじゃない」
どうやら、当人たちも勝ったという確証がないらしい。なんだろうねぇ、この交戦ルール。
「郡司じゃないかな、ここにいないけど」
「郡司君って、あ、あの……」
「ガンマニアって言うんじゃなくて、戦争とかに詳しいヒトだよね」
聴いているだけで伝わってくるミリオタ感がかなり痛い郡司君だが、殊勲甲と言って差し支えない。
なんせ、開始三分でのフォールと言うのは、ほぼ奇襲戦を制したと見て間違いないだろう。
ボクの右脳の中で、あおいの言う緒戦奇襲最強説が説得力を増してくる。
うわぁ、こんな時にあおいには顔を会わせたくないな、なんて泣きごとを言っていると、案外近くに本人が来ていたりする。
「こーちゃん、やっぱりアタシの言ってたことのほうが正しかったじゃない」
やはり、それをおっしゃいますか、あおいさん。いや、軍師あおい殿。
「待て、まだ当人たちも勝ったという実感が無いらしいし、郡司君に直接、訊いたほうがいいんじゃないかな」
「訊くのは当たり前じゃない、もしカンタンに狩れそうだったら、明日からいくわよ」
「まてまて、あおい。奇襲なんて成功してたらみんな警戒するんじゃないか? おいそれと二発目を食らうやつはいないだろう」
「そこを工夫するのが、頭脳派のアタシじゃない。そして、実行部隊のこーちゃんは指示に従って、サクッと首輪を奪りに行けばいいのよ」
あの……誰が頭脳派なんでしょうか。
死亡フラグが音をたてて何百というオーダーで立ちそうになるのを抑えていると、後ろに灰音の姿が見える。
「おはようっ、虹都、あおいさん。さっそくだけど、中押さん見なかった? さっきからずっと探してるんだけど」
「そう言われてみれば、体育館に入って、中押さんだけは見てないな」
ボクは改めて周囲を見渡す。中押さんの少し赤みがかった長い髪は、この人混みでも結構、分かりやすいのだが、どうやら、この辺りにはいないようだ。
あおいは千茶のところから戻ってきて言う。
「千茶も、冴朱のこと見てないらしいわ」
「まさか、休みってわけはないだろうし……」
そうしている間に教師が、全員クラス別に整列との号令をかけ始め、全校生徒は始業式の中に取り込まれていく。
休みじゃなくて、ここにいないということは、事故か何かか? とてもイヤな予感しかしない。そう、何かというのは、言葉に出しては言いたくないようなことだ。
始業式が終わると、新担任の社会科の教師、雁久比にさっそく訊いてみる。
「同じ部隊の中押さんがいないんですが、何か学校に連絡は来てませんか?」
願わくば体調を崩していて欲しいと思って訊いてみたが、どうやら学校には何の連絡も来ていないらしい。
隣にいたあおいが、矢継ぎ早に質問する。
「それでは、交戦監視員の京美さんはどこで待機しているんですか?」
「今の時間は、新館一階の養護教室だと思うが……」
そこまで聴くと、あおいは颯爽と走りだしていった。
ボクは灰音といっしょに他の生徒たちと新教室で適当に座っている。
北雲さんも、ふつうにクラスの女子と話している分には至極まっとうに見えるのが不思議だ。
そんな中、新しいクラスの中で早々に人気ナンバーワンの座を占めているのが、第十六部隊を勝利に導いた郡司薫君だ。
男女両方に囲まれ、さながら緊急記者会見の様相を呈している。
「郡司君、どうやって首輪を奪ったの?」
「……たまたまだよ、九時ちょうどぐらいだったかな、校門近くにいたら猛ダッシュで走ってくる陵日の生徒がいたんだ。校門の陰で見ていたら、どうやら脚がもつれててね、案の定、前のめりにすっ転んだんだ」
「え? その子、怪我してなかった?」
「怪我? は……無かった、いや、多少はあったかな。周囲の警戒が先だったから、憶えてないんだよね」
「そうか、そのコケたヤツを餌に、校門から出てきたところを逆にやられる可能性もあったんだ。郡司、おまえ、すげー、冷静だな」
「そ、そりゃ、なんてったって戦場なわけだし、当然の注意さ」
「で、それでどうしたの?」
「あ、ああ、見ると首輪をしてたから、起き上がらない内にタグ切狭で切ったんだ。意外と固くて力がかかったけどね。それを隣にいた交戦監視員の京美さんに渡したんだ」
「京美さん、校門の近くにいたんだ。てっきり、体育館にいると思ってたわ」
「そ、そうだね、僕もびっくりしたよ。本当に、ね」
「それで倒れてたヤツはどうしたの? 遅刻確定の上に首輪まで奪られて、泣いてたんじゃない? 俺だったら再起不能で、明日から登校、拒否るわ」
「そうよね、なんだか可哀想よね」
「男子生徒は、陵日中学の交戦監視員が回収に来たよ……可哀想? でも、仕方ないだろう、ル、ルールなんだから」
部隊の英雄、郡司薫は、そそくさとトイレに立つ。ボクの隣を通るときに嫌でも郡司君の呟きが耳に届く。
「こんな日に九時ギリギリに学校に来るほうが悪いんだよ。僕のせいじゃない」
どうして英雄なのにキョドっているんでしょうねえ、郡司君。
ボクは少し違和感を覚えながら、これを聴いたあおいが、明日から九時過ぎに校門前に見張りを立てようとか言い出さないか真剣に案じていた。
「ねぇねぇ、虹都。もし、遅刻しそうになったら九時ギリギリに校門までダッシュする?」
「二年の時なら、ダッシュして何ていうか内申点が下がらないように、精一杯、頑張ったフリをしてただろうな。でも、この状況で首輪を振り回しながらダッシュするのは無謀だな。ボクなら、朝、家を出る瞬間に時計見て、ズル休みだな」
何の気なしに答えたボクだったが、灰音は目を輝かせて言う。
「そうだよね、僕って体力に自信がないから特に思うんだ。僕が同じ立場なら絶対お休みしてたってね。あと、陵日は常山中学の前を通ったほうが近道だけど、少し回って陵日の裏門から入ったほうが安全だよね」
「ああ、どのみち、このことは陵日中学にも伝わるから、明日から九時にウチの中学校前を全力で走りぬけようとする三年生はいなくなるだろうな」
「そうだよね、初日にこんなことがあったんだから、ふつう、明日からは警戒するよね。それにしても、郡司君ラッキーだよね」
これで、第十六部隊が交戦非当事者になったことにより、ボクは三十五人学級が三十人と五人に分けられたような妙な感じがした。ルールブックにもある通り、勝者は交戦非当事者となって、以降、交戦当事者の交戦に関与することが制限される。力になりたいと言ってくれても、一緒に闘うことは御法度だ。
そんな中、養護教室の方に行っていたあおいが慌ただしく教室にいた北雲千茶を誘ってボクのところにやってくる。
「こーちゃん、さっき京美深姫に訊いたんだけど、冴朱のことは分からないって、学校にも連絡がないって言ったら、ズル休みじゃないかって言うのよ。どうしよう~」
「メールか、何かで連絡、取れないかな?」
「冴朱とは、この間、友だちになったばっかじゃない。だから、連絡先とか何も訊いてなかったのよ」
めずらしく粗暴なあおいが言い訳めいたことを言う。
「そう言えば、中押さんと仲の良かったグループっていたっけ?」
この問には灰音が答える。
「中押さんって、僕の見てたかぎりじゃ、誰とも仲良くしてたっていうか、女子にも男子にも気をつかってた分、特定のグループに入ってた感じはしないなぁ。あ、あくまで感想なんだけど……」
「灰音クン、見てるところは見てるんだ」
「千茶さん、変なふうに言わないでよっ」
「アタシもそう思うわ、灰音君。去年のクラスってそんな感じだったもんね。でも、そうすると連絡の取りようがないのよね……かくなる上は、隣の中学校に通ってる冴朱の弟に連絡取ってもらうしか無いか」
「え、あおいさん、中押さんの弟の連絡先、知っているの? すごいなぁ」
そんなはずはないだろう、と灰音以外のみんなが思う。
「そんなの知るわけないじゃない。冴朱の弟なんて、見たことも聞いたこともないわ。ただ、誰か連絡取ってくれたらなぁと思っただけよ」
「うわぁっ、あおいさん、思いつきだねっ」
思わず仰け反ったようだが、灰音よ、これが西條あおいなのだ。
首輪を取り合っているさなかに、仮想敵校の陵日中に行って、会ったこともない中押冴朱の弟と連絡を取って、姉の安否を聞き出して戻ってくるなんてことを、臆面もなく口に出して言ってしまうのですよ。
まさに天下無双のムチャぶりである。
「とにかく中押さんのことは心配だけど、安否確認は学校に任せて、ボクたちは夕方五時以降、動くしかないんじゃないかな」
「うーん、そうね……」
釈然としないまま、教室には新担任の雁久比がやってきて、新しいクラス委員や委員長を決めるといった始業式の日らしい行事をこなしていった。
そして、中押冴朱は病欠ということで処理され、特に新しい情報が入ることもなく、午前中にはクラスは解散となった。
昼食を弁当ですませると、あおいと千茶の二人は二階の情報教室に向かい、ボクと灰音が一階の養護教室に向かう。
情報収集初日のスタートに中押さんの姿が無いのは、少し寂しい。
「京美深姫さんって、何者なのかな? 交戦監視員って先生じゃないんだよね」
「うん、交戦監視機構職員って言うことになっているけど、それだけじゃ、何も分からないしな」
まさか、京美さんが警察庁長官の御令嬢と言うことも、まだ確証はない。
仮にそうだとして、京美さんは鷹飼事件の被害者で、なぜか、今も、交戦監視員という形でこの物騒な闘いに関わり続けている変わりモノということになる。
「本当に、何も分かってないな」
ボクは誰に言うともなく呟いた。
午前中は、第十六部隊の首輪争奪戦の戦後処理で忙しくしていたようだが、放課後の京美さんは、別の意味で忙しくしていた。
まず、卓上にタブレットを三台、ノーパソを一台広げて、盛んに流れていく文字列らしきものを眺めている。
たまに、画面を止めて激しくノーパソを叩いたかと思うと、そのまま、また文字列を眺める作業に戻るということを繰り返していた。
画面の文字列や報告書がフラッシュするように流れていく。
「交戦監視員の人って大変だね。たくさん情報を集めてるようだけど、全然、何をしているのか分かんないよ」
「まったくだ」
灰音の言う通り、あれだけの情報から何かをサーチして、スキミングしていくのは、もはや人間業ではない。しかし、時折、データを止めてキーボード操作をしているのは人間業ではない何かをしているのだろうか。
「ねぇ、虹都。思うんだけど、京美さん、ずっと画面ばかり見てるようだから思い切ってもう少し近くに行ってみようよ」
どうやら、灰音はこう言うスパイ活動的な何かが得意なのだろうか。
ボクは交戦監視員の活動を盗み見しているというだけで、心臓が口から飛び出しそうなぐらいバクバクしている。
渡り廊下を北回りに迂回して、養護教室の隣の警備室までたどり着く。
「ねぇ、虹都。もし見つかったら、何かペナルティになるのかなぁ」
不安なのか、テンションが高ぶっているのか、灰音が尋ねてくるが、生憎、こちらも答えを持ち合わせていない。
「さぁな、怖かったら灰音は上の情報教室に戻っていてもいい。ここから先はリスクがあるからね」
「ずるいよ、虹都。そんなこと言われたら戻れないじゃないか」
「それじゃぁ、廊下に出ようか」
ボクが浅い呼吸を二回、深呼吸を一回して、いざ、廊下へ出ようとした時に意外な音が響く。
(ぶぅぅぅぅぅ)
「ぅわっ」
驚きを隠せないまま、ボクは灰音を押して戻すように警備室に戻る。
「どうしたの、虹都、急に?」
「……スマホがなったみたいだ。すまん」
誰かと思ってみると、あおいからだ。
(トラップがあるんじゃないの? 大丈夫? *あおい*)
「あいつ、どこかで見張ってるのか?」
「虹都、あそこ」
二階の情報教室の窓辺にあおいの姿が見える。なるほど、こちらが丸見えだ。でも、あの角度では養護教室の中までは見通せないだろう。
もう一度、廊下の状況を見て考える。トラップがあるか無いか、目を凝らしてよく見ても正直、分からない。
そうする内に、廊下のほうで足音が近づいてくる。灰音とボクは警備室に入って扉を閉めてやり過ごす。
しばらくすると、足音は階段のほうに吸い込まれ、二階に上がると職員室の方に向かっていった。
特に、トラップの気配はしない。とりあえず、通過する分には大丈夫そうだ。
ボクと灰音で、さっきの足音の主が通ったように、養護教室前の廊下から階段を昇って職員室へ、そして、逆の階段を降りて警備室に戻る。
「ふぅ、緊張すると、とても疲れるんだね」
意外に消耗したようで、灰音は肩で大仰に息をしている。
「あ、ごめんね、虹都。僕、喘息気味だから、呼吸が乱れると喘鳴がして苦しくなっちゃうんだ。だから、その予防みたいなものでさ」
病弱キャラの灰音も可愛い。何か、灰音を守る使命感まで芽生えてきそうだ。
「落ち着くまで少しゆっくりしよう……よく考えたら、交戦監視員を監視してはいけないってルールは無いよね」
「う、うん。そう、だね」
「それじゃぁ、邪魔にならないように監視しようか」
ボクと灰音は、ようやく開き直って養護教室の前に向かう。
「「あっ」」
養護教室の廊下側のカーテンが下ろされている。
未練がましく見ていると、隅の窓のカーテンの切れ間からは中が覗けるようだ。
「虹都、なんだか、その、出歯亀みたいっていうか、犯罪者みたいっていうか、なんだか恥ずかしいよ」
「灰音、ちょっとだけだからさ」
端末の画面が京美さんの頭越しに見える絶好のポジションを獲得したボクは、しばらく、流れていく文字列と画像を凝視する。
左右の端末は地区の交戦監視員の端末から入力される争奪戦の勝敗情報のようなものが流れていて、中央の端末は交戦監視委員会の情報がゆっくりと更新されている。
ノーパソの端末は画像情報が時折、映し出される。さらに、京美さんメガネにウェアラブル端末を仕込んで、そこからも情報を取り込んでいる。
ひょっとして、このヒトが交戦監視機構そのものじゃないのかと左脳が軽く判断をミスるまでの情報量だ。
ボクは嫌がる灰音にも同じように状況を確認させて、二度、三度、繰り返し状況を確認するともう日が傾きかけていた。
「そろそろ、五時だね」
灰音の声が終わるか終わらないかのタイミングで、校庭のスピーカーから防災訓練のような、ウゥ~というサイレンの音がする。
やはりと言うか、当然というか、昇降口はちょっとしたラッシュアワーの状況を呈している。
人が減るのを待って、ボクと灰音は西條家の喫茶店「フレッサー」に向かう。
「遅いじゃない、虹都っ」
なぜか、まっすぐ戻ってきたボクたち、いやボクに罵声を浴びせる暴君あおいがいる。
「いや、昇降口が混んでてどうしようもなかったんだ」
ボクは喫茶店の一番奥に陣取るあおいの席に向かおうとして少し驚くと同時に安心する。
「あれ、中押さん……今日は休みじゃなかったっけ?」
「そうじゃなくて、ちょっと……」
「冴朱は、気分が悪くなって保健室にいたらしいわ。保健の先生も気を利かせて、担任に連絡したらいいのにね」
「始業式にも出てないし、私も来てすぐに横になっちゃうし、保健の先生にミスはないわ」
中押冴朱は終始、言葉少なで本当に気分が優れなさそうだった。
そういう訳で、作戦会議の主導権は常にあおいと千茶が握っていた。
「ということで、教室で夕方まで喋ってた子の話では、郡司君の話を真に受けて明日の九時は校門で遅刻者狩りをする部隊がいるみたいよ」
「あおい、途中から居なかったのは教室に戻って情報収集してたのね。知らなかった」
千茶の言葉に付け足すなら、ボクと灰音の偵察行動監視もしていたのだが。
「で、どうするの? 私たちも校門前で待機するの?」
「馬鹿ねー、今日のラッキーは明日のアンラッキーよ。剣道にも返り討ちって言葉があるでしょう。今日、やられた陵日中には情報が回ってるでしょうから、明日、同じようなのがいたら、そんなの罠に決まってるじゃない」
返り討ちって剣道用語でしたっけ?
「それじゃぁ、明日も情報収集なのかなぁ?」
千茶の言葉に相槌を打って、ボクも手短に報告を済ませる。
「それでいいなじゃないかな。今日、京美さんの行動を見てて、少し変っていうか、養護教室にタブレットやノーパソを持ち込んで異常なほど情報収集してたのが気になるから」
「そうだよね、なんだか京美さん自身が交戦監視委員会みたいに交戦を監視してるっていうか、すごく仕事熱心っていうか、とにかく、キーボードを打つのが早いんだ」
灰音の報告に首肯くあおい、噛み付く千茶。リアクションは多様だ。
「キーボードが早いって、どのくらい早いの?」
「うーん、パラパラパラって打つと画面に文字が沢山並んでて……」
「パラパラパラって一秒ちょっとよね、灰音君、試しにこれでやてみて」
北雲千茶は、スクールバッグの中から折りたたみのキーボードを出して灰音に勧める。
灰音はどうにか両手を揃えてキーボードを打つ姿勢にはなるが、指の運びが致命的に遅い。
「うーん、全然これより早いって感じかな。ごめんね、千茶さん、ボクどうしても遅くて」
「いまは、そっちの話はいいわ。ちょっと貸して」
そっちの話って何かあなたの琴線に引っかかるキーワード、有りましたっけ、千茶さん。
千茶がキーボードを前において、軽やかに打鍵する。
「こんな感じかな、灰音君」
「うーん、もうちょっと、早いかな?」
「こんな感じでどう?」
「いや、千茶さん、もう少しゆっくり、しっかり強く叩く感じかな」
「こんな感じかしら」
「そうそう、これ、こんな感じ」
リズミカルなキーボードの音に感心しながら、千茶の顔を見ると頬が少し赤く見えるのは気のせいだろうか。
「灰音君、これでどう」
「千茶さんの方が早いかな、でもすごいね、千茶さん何でも出来ちゃうんだね」
「そ、そうでもないわよ。何でもは出来ないわよ。出来ることだけ……うぶっぶふぅ」
なんだよ、その猫に取り憑かれたような会話。
あと、また青春の汗? っていうのか……鼻から流れてるんですが。
和んだ雰囲気を切るように、中押さんが立ち上がる。
「今日は部隊に貢献できなくてごめんなさい……明日からはちゃんとするから、もう帰っていいかしら」
「そうね、今日は授業もなかったし、勉強会のネタはないわね」
あおいがそう言うと、中押さんは帰り支度をする。隣りに座ったボクが出ないことには中押さんが出られないので、ボクも帰り支度を急ぐ。
「なに、こーちゃんも帰るの?」
「ああ、特に何もないなら……」
「そりゃ……特に何もないけど」
言葉の隙間を埋めるように、中押冴朱が言う。
「ちょうどいいわ、一緒に帰りましょう」
灰音を誘おうとするが、千茶が絡みついて容易に外れそうにない。
「こーちゃん……冴朱は体調悪いんだから、しっかり送って行くのよ。余計なことはしなくて良いんだから」
なにか、言葉の端々にケンを感じるのは気のせいでしょうかね。
「わ、分かってるよ」
「東大路君、ごめんなさいね」
「いや、ボクはそんな、なんとも思ってないし」
店を出ると、中押さんがボクの肩にピッタリ寄りかかってくる。
「少しの間、このまま歩いて」
中押さんの命じるまま、ボクは中押さんに肩を貸しながら歩を進める。
もちろん、密着する体側に全神経を集中させているのは、思春期男子の自然な行動だ。
なぜか、後ろの喫茶店のドアが粗暴な音をたてて閉まったような気がする。
左に中押さんの香りを感じながら、ボクは青い春の切なさと、邪な気持ちで右脳を一杯に満たしていた。
だから煩悩にまみれていたボクは、中押さんの次の言葉には非道く驚かされた。
「やっぱり、変よね」
中押さんの声は凛としていて、身体はすでにスクっと立っていた。
「ねぇ、あなたも見たのよね。京美深姫が妙だってところ」
少し怖いんですけど、中押さん? とても十分前と同一人物とは思えないよ。
「じつは、私、見たの、朝九時前、校門の前で」
中押さんが見た妙なこと、と言うのを聴いて、ボクの頭は一気に混乱した。
「えっ? 中押さん、それ、どういうこと」
中押冴朱はまっすぐボクのほうに視線をくれて言う。
「あのね……私、今日、保健室にはいなかったの。周りが怖かったから」
道路の隣に続く小さな公園の暮れなずむ空を見ながら、ボクは努めて冷静でいようと振る舞っている。
「中押さん……でも怖いことあるんだ」
「ひどいわね、私だってあおいや千茶さんと同じ女の子なんだから」
中押さん、そんな方々と一緒にすると自分の価値を損ねますよ、とノドまででかかるが状況はシリアスだ。
声帯を震わせる余裕のないボクは、笑顔で中押さんの冗談を消化して話に耳を傾ける。
「でも、今日は本当に人間不信に陥りそうになったわ。まさか交戦監視員が生徒を倒すなんて信じられなくて」
「京美さん、のこと?」
「そう、私、今朝は八時から学校にいたの。例の盗聴器のこともあったから、いろいろ見回ってたのね。そうしたら、一階の養護教室であの女が張り切って秘密基地みたいなのを作っていたの」
「秘密基地って、タブレットとかノーパソとかの山のこと?」
「そうね、そのときは私も交戦監視員って大変なんだなぁぐらいに思ってたの。そして、三階に上がって、例の盗聴機が使えるか無線機でテストしてたの。そのうち、みんなが登校してきたから、無線機は三階の備品室に隠して、階段の踊場の窓から正門の方を見てたわ。不思議だっだのが、常山中の生徒と陵日中の生徒が同じ道を歩いて登校してきてるのね、あと二十分ほどで開戦だっていうのに」
「まあ、指定通学路だしね。それに、一・二年生は、そもそも関係ないしさ」
「そう言えば、東大路君も来てたから手をふったんだけど、気づいてもらえなかったわね」
中押さんにさりげなく毒づかれるけど、まったく悪い気はしない。
「あぁ、ごめん。あおいと千茶が物騒な競技の話で盛り上がってたからかな」
「いいえ、ちょうど良かったのかなって思うわ。だって、正門の入り口が階段になってるおかげで、みんな、校舎の方を見上げようともしないんだから」
「そうか、下り階段で校舎に入っていくから視界には入らないね」
「五十五分の予鈴が鳴って、私も体育館に行かなきゃと思ったときに、視覚にあの女が入ったの。もう生徒もまばらで、何しに来たんだろうって見てたら、もうびっくり。遅刻寸前の男子生徒を呼び止めたと思ったら、振り向きざまに後ろから延髄斬りっていうの? 首筋めがけて蹴りかかって軽く倒しちゃったの」
「京美さんが? まさか、交戦監視員なのに? それに京美さん小柄だし……」
「私も呆気に取られちゃったわ。まさかってね。だって、まだ九時前よ。交戦時間じゃないから、ルール違反じゃない。そして、何をするつもりか見てたら、その生徒の様子をじっと見てるだけなのね。九時の本鈴まで、一体、何がしたいのか意味がわからなかったわ。でも、本鈴がなった時、一人の生徒を校内から手招きして呼びよせたの。その子、おっかなびっくりでその生徒の首輪を切り取っていたわ」
「それがひょっとしてウチのクラスの郡司君?」
「そうね。背格好からして郡司君かもね……ねぇ、東大路君、どういうことなの? 交戦って、当事者同士で闘うものじゃないの? 交戦監視員がなんで闘うの? あの女って敵? 味方?」
そう言われても、ボクも混乱してどう判断していいのか分からない。
「私、もう、なんだか訳がわからなくなっちゃって……それで、今日は一日、新館三階の備品室で一人で隠れてたの」
「そうか、郡司が浮かない顔してキョドっていたのは、実力で勝ったわけじゃない後ろめたさからか……それにしても中押さん、備品室って、あの真っ暗な中で、よく平気でいられたね」
「そんなの、外に出て交戦監視員に襲われるよりマシだわ。ルールなんて信じられないし、それに、備品室には懐中電灯もあったの……ただ、昇降口のロッカーにスマホとポーチを置きっぱなしだったから、誰にも連絡が取れなくて怖かった……おかげで今日は心配かけちゃったわね」
「それは灰音が最初に気付いて、あおいも珍しく焦ってたよ」
「そう言えば、聞こう、聞こうと思っていたんだけど、東大路君とあおいさんってどう言うご関係なの?」
なんだか、話がぶっ飛びました。
どうして女子って、シリアスな話なのに突然、芸能ネタみたいな誰が好きとか、嫌いとかの話を混ぜるんでしょうね。
「え? 小学校からクラスが一緒なだけで、あとは何にも……」
「そう、てっきり付き合ってるものだと思ったわ。朝も一緒に登校してくるし」
「い、いや、今日はたまたま途中で一緒になっただけだから、そんなのとは違うし……」
「ふうん、それなら私も東大路君のこと、虹都君ってよんでも構わないかしら」
全然、構わないどころか大変な名誉です。中押さんの気が変わらないうちにと、即、首肯く。
「それじゃぁ、早速だけど虹都君、あと、フレッサーでは言ってなかったけど、私、備品室でちゃんと盗聴機は聴いてたの」
「えっ本当に? それじゃ、何か分かったの?」
「言うほど大したことではなかったの。そうね……陵日中の交戦監視員も交戦監視用のタブレットを支給されてるようだけど、あの女みたいに何台もって感じじゃなくて、たぶん、普通に一台だけ持ち歩いてるようだったわ。それと、部隊編成で悩んでるみたいね」
「部隊編成でって?」
「陵日中はもともと四人部隊が三つ有ったんだけど、今日の件で四人部隊が四つになって、次に首輪を奪られると、四人部隊を崩してぜんぶ五人部隊に組み替えないといけないらしいの」
「そうか、どこかの部隊をバラして、四人部隊に入れなきゃいけないのか」
「そう、それか、全部隊バラしてイチから作り直すか、悩んでたみたい。今、考えてみると、隣の陵日中の交戦監視員はふつうに監視員の仕事をしているみたいね」
「京美さんが変に見えるのは、熱心さが異常なのかな?」
「さぁ、熱心なのかどうなのか……、虹都君、とにかくあの女だけは要注意よ。彼女の正体や目的が分かるまで、下手に動かないようにしましょう。あと、このことは二人だけの秘密にしておいてちょうだい」
「う、うん、それはいいけど、どうして?」
「どうしてって、言っても信じてもらえないだろうし、あの女を敵に回すと厄介だしね。下手すると今朝の男の子みたいに、後ろから襲われて、コレ、奪られるかも知れないわよ」
中押さんは、首輪を指して、念を押すように言う。
「そうだね、何か分かるまで喋らないようにするよ」
確かに、こちらには物証はないし、仮説もない。
分からないまま騒いだところで、今日の英雄、郡司君も困るだろう。あと、あおいが暴走するともっと怖そうなので、ボクは中押さんから聞いたことは胸の奥にしまっておくことにした。
ボクにとって女の子から秘密を預かるなんて、ちょっと胸熱だし、中押さんなら、ちょっと下心を擽られないでもない
家に帰るとハードボイルドの欠片も理解しないママが、帰宅が遅いとか何かとうるさかった。
でも、ボクの頭のなかは京美深姫のことでいっぱいで、何を言われても生返事を繰り返していた。
京美深姫。
推定年齢二十三歳。
精麗女学院短期大学卒業。
警察庁長官令嬢で交戦監視員。
三年前の鷹飼事件の被害者。
今年の常山中学校区担当の交戦監視員でありながら、ルールブレイカーのような行動。異常な情報収集癖……。
果たして彼女の正体は、と問われて分かるのは既に本人だけではないでしょうか。
しかし、本人に尋ねた途端、ドカッと延髄斬りで昏倒するのも御免蒙りたい。
今しばらくは静かに情報収集していよう、ボクは久しぶりに頭を使ったせいか、その晩は目が冴えてあまり寝付けなかった。