第一章 第2話 追い詰められてクロスアウト (BACKGROUNDS)
どうして、こんなことになったのか。時代背景の説明です。
年金と言うと、老齢年金でお年寄りになったらもらうもの、と言うイメージがありますが、実は、若いうちでも障害者年金など、いざと言う時は支給対象になるのです。
医療保険にも、薬害救済措置など、いろいろなセーフティネットの役割があったりします。
ですので、これを維持するのはとてもコストがかかることなのですが、簡単にさらっと流しましょう。
ボクが習った教科書では、二〇〇〇年代、日本には独身貴族社会があり、男女だれしも、子供を産み育てる義務はないと言われていた。
恋愛をするもしないも自由だし、結婚しないのも、子供を作らずに死んでいくのも、何もかもが自由だった。
人口減少がだらだらと続いた二〇三〇年代、時の政府は本当に国が滅びると思ったのか、産めよ殖やせよとベビーブームを半強制的に演出した。
「子供様は神様です」
当時の内閣総理大臣の演説はそのまま産児促進法という法律になった。
子供は社会全体の財産という思想のもと、育児費用を社会全体で負担することとして、出産や育児負担を一切しないと決めつけられた独身貴族は、課されたズッシリと重い税金に怨嗟の声を上げたそうだ。
その結果、多くの独身貴族が懲罰的課税に追い立てられるように、結婚という制度に駆け込み、そして、家族制のなかで多くが社畜階級に身をやつした。
ちなみに、社畜というのは、ボクは、家族のために会社で働いて苦しむことを喜びに感じる変態さんのことを言うのかと思ったら、違っていた。
教科書には、賃金のために会社で働くことから更に進化して、会社のために会社で働くようになった自己犠牲的な傾向のある人、と書いてあった。
なんだか、噂で聞く話とは違うなぁと思いながら、ボクは犠牲の漢字と一緒に丸暗記した。
「昨年の統計で新生児が、ほぼ倍増となり百万人の大台を回復しました」
笑顔でアナウンサーがそう伝えたボクたち年代は“第3次ベビーブーム”ともてはやされ、ボクたちの成長とともにいろんな産業が発展した。
しかし、順調だったのは最初の年だけだった。駆け込み結婚、駆け込み出産による反動により、次の年から直滑降するように出生数は減り数年で元に戻る。
そして、その昔、ベビーブーマーが引き起こした悲喜劇がそのまま惹き起こされることが予想され、とうぜん、それが現実のものとなった。
「“第3次ベビーブーム”世代による経済への負担が大きいと感じる人の割合が50%を超え、社会問題となっています」
「内閣府は人口の偏った年代が産業に悪影響を与えている可能性があるという調査結果をまとめました」
「“第3次ベビーブーム”世代が来年、高校生になります。全国各地の高校ではプレハブ校舎の建設が始まりました」
ベビーブームが一過性のものと分かると、ボクたちは悪くないのに、一転して世の中の論調が物憂げになる。
加えて二十一世紀も三十年代後半に入ると、既に日本のあらゆる財政は破綻し、その影響が露呈し始める段階に入っていた。
早々に破綻したのは高齢者医療と年金制度で二〇三六年に国民保険機構から医療機関への支払いが滞り、その時、医療費の自己負担割合を一時的に六割まで拡大したため、たちまち風邪ぐらいでは病院には行けなくなってしまった。
また、年金の方は未納者が予想を超えて増えたため、こちらも高齢年金、障害年金などの支給が、たちまち滞った。
二〇四〇年、こうした事態に対応して政府は医療保険制度と六十五歳以上の年金制度を復旧させるため、思い切って保険年金受給者を半分に減らすことを決めた。
要するに、全員で共倒れするより、少なくとも半分は確実に救うことを決めたのだ、とボクは思っている。
長きにわたった社会保障改革論議も、ロマンスグレイの獅子の鬣のようなヘアスタイルに甘いマスクがトレードマークの時の首相の決断で幕を下ろした。
もちろん、パフォーマンスとしての熱のこもった演説、くわえて、日本の政治には欠かせない頬を伝う涙が決め手になったのは、ボクには釈然としない部分だ。
そして、最初の年の選抜については公平を期して社会保険番号末尾が偶数か奇数かで、社会保障資格を無効にするかしないかの大英断を下した。
しかし、翌年にはつぎは偶数だの、こんどは奇数だのとデマゴギーが闊歩し、六十五歳になる人による保険証の再発行と保険番号の変更の申請がうなぎのぼりに増え、単純に保険番号の偶数、奇数で社会保障資格の無効を決めることができなくなってしまう。
そこで困った政府は、確実に半分の保険証を無効にする新たな方法を決めた。
つまり、保険証の更新のためには無効にしてよい六十五歳になる自分以外の社会保険証を提出させる制度、現在の名簿抹消方式を確立した。
保険証をベースに名簿抹消方式による争奪戦を試験的に実施したこの年、社会保険証の偽造と盗難が過去最多になったのは間違いない。
翌年には制度的に不安定だった保険証が生体認証の首輪になり、制度での奪い合いの対象も正式に首輪と定められた。
ルール無用の争奪戦にも緩やかに制限が加えられ、刑法犯は軽犯罪さえ、争奪戦上のペナルティの対象にされて厳しく取り締まられる。
首輪は内蔵されている時計や、脈拍などを読み取る生体センサー、GPS、機能停止時の最終記録保護機能まで備えて、制度発足五年目にして現在の姿になった。
さらに、超高齢化社会が極高齢化社会に突入すると、政府は保険制限選抜を四十五歳でも適用して二段階選抜にすることにした。
ついでに、“第3次ベビーブーム”の悪影響を排除するため、十五歳の段階でも時限的に保険加入者を抑制することが去年決められた。
今回、ボクたちが蛍光グレイの首輪を付けさせられたのもその所為だ。
「紅桃無蛍」
これが三段階制限時代を迎えた日本の首輪制度による階級区分だ。制度自体が荒唐無稽なので、言い得て妙かも知れない。
「紅」の紅朱色の首輪は六十五歳の第一制限世代年齢での社会保険と年金が保証されている証で、かつての還暦のお祝いに赤い上着を老人に贈る風習があったことに因んでいるらしい。
この紅朱色の首輪は、今では生涯を通じて保険も年金も支給される六十五歳以上の勝ち組シルバーの象徴だ。
ちなみに第一制限世代年齢のクリア確率の理論値は二分の一。だれでもいいので、自分以外の首輪を奪って役所に提出すれば資格延長手続きは完了する。
「昔はみんな勝ち組に入れたんだ、年金はガッポリもらえたんだ」と言うのはボクのパパのパパが子供の頃の話で、ボクにはまったく現実味がない。
ダメな年金制度に加入するかどうかはジコセキニンというのを言い聞かされて育ったボクたちは、残念な世代だけど意外に強かだ。
「桃」の桃色の首輪は四十五歳の第二制限世代年齢をクリアした証で、五年前から導入された。
クリアすれば、四十六歳から六十五歳までの社会保険と障害年金などが保証される。
第二制限世代年齢のクリア確率も理論的には二分の一。ボクのパパは今年四十五歳になるので制限年齢に引っ掛かっている。
「無」の無色透明の首輪は成人のつけるタグで、産児促進法で医療をはじめあらゆる保証がフルカバーされる十五歳までの非成人は別格として、本来なら成人となる十六歳の誕生日に、誰もが役所の窓口でもらえていたものだ。
それが、運の悪いことにボクが中学三年生になる今年から改正社会保障法が施行された。
言わば第三制限世代年齢が十五歳に設定され、十六歳からの社会保障や障害年金などをかけて、理論的に六分の五と言うかなり良心的なクリア確率をかけて首輪を取り合うこととされている。
取り合うタグの色が紅桃無蛍の「蛍」にある、蛍光グレイの首輪なので、身分では最下層ということになる。
六分の五と言うのは、手早く言うと中学三年生の進級時に五人一組のチームを作り、そのチームで他のチームの首輪を一本でも取れば、チーム全員に無色透明の本物の社会保障認識票が渡される仕組だ。
ただし、教育的配慮により同じ中学校内同士でのタグの取得は原則として無効とされている。
まあ、九時五時とは言え、学校内でドンパチをやられると授業に支障をきたすというのが、ホンネの部分だ。
この手続を経ることで、六人のうち一人の社会保障費がカットされる。
なんだ、大したことないじゃないか、と思えるかもしれないが、約一七%の加入者削減の将来的な効果はとても大きいらしい。
改正社会保障法は時限立法だから、歪な人口構成が元にもどれば廃止されることになっている。
できれば、あおいの弟クンが中三になるまでには無くなって欲しい制度だ。
無論、なかには、こうした政府の社会保障制度からベタオリしている賢者もいる。
大抵の場合は、富裕層や資産家で、民間保険に入っているから特に問題ない人たちだ。
各年齢、各地域ごとに一定数いて、各地で自分の首輪を周りに差し出すことから「タグ神降臨」として周囲から崇められている。
なお、首輪は国所有のもので、個人へは貸与されているに過ぎないという設定だ。そのため、個人間のタグの売買はご法度となっている。
あと言うまでもないことだが、タグを奪い合う上での暴力行為は各世代を通じて一貫して禁止されている。基本的に軽犯罪以上の刑法犯は、首輪の奪い合いに関するかぎり厳し目に罰せられるため、力づくで勝利するのは少し難しいことになっている。
第一制限世代年齢六十五歳、第二制限世代年齢四十五歳の各年齢は、その他のルール無用の二十四時間三百六十五日の個人戦バトルロイヤルだ。
こっそり上司の寝首をかく不心得者や、なけなしの財産をはたいて、こっそり金で解決する者、終電に乗り合わせた泥酔者から切り取るチャッカリ者までいる。
とにかく、隙さえ見せれば常に首輪を失いかねない緊張感が続くため、体調不良や精神疾患を生じるなど、大人は大変だ。
しかし、第三制限世代は未成年のため、時間制限アリの団体戦ということになり、ルール説明会が学校ごとに開催された。
ボクたちは春休みの登校日にそれを詳らかにされたのだった。