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第三章 第3話 ボクの傷、彼女の痛み (DAY 4)

(二本とも切る? そんなの意味あるの。一本奪れば勝ちじゃないの?)


 ボクは敵のリーダー格の男の言葉に戸惑う。


「あれ、礼明館れいめいかん中の制服よ。さっきの冴朱さやかのくれた交戦記録に出てた」

 あおいがボクに耳打ちする。確かに胸の徽章がRを模しているように見える。


 ボクは一応、訊いてみる。

首輪タグなら一本で十分じゃないのか?」


「一本で済むならそれでいい。でも仲間が交戦裁判所でトラブってて、もう一本欲しいって言われてんだ。ちなみに、俺たち全員、交戦裁判所でトラブってる仲間でさ、マジ、困ってるんだ、兄ちゃん」


 そう言いながらジリジリ距離を詰めてくる。気色悪い、こんな奴らに兄ちゃん呼ばわりされる覚えはない。

 ボクをお兄ちゃん呼ばわりしていいのは、この世で灰音はいね、一人だけだ。


「どうするのよ、こーちゃん。えっ、何するのよ」

 とりあえず、あおいを庇うようにして後ろに下げる。

 こういうとき、弱きを助けて悪に立ち向かうのは、ハードボイルドの血の掟だ。


「とりあえず、女の子には手を出すな」


 ボクの気分は既にマーロウの境界を突破して、ベンサムを経てエピクロスの領域に達している。


 しかし、敵との距離はもう僅か一メートルもない。


「なら、お前の首輪タグはもらった」

 リーダーは正面にボクを捉えて、手か脚が出そうな勢いだ。


 電車の車内はピーンと緊張の糸が張り、周囲の耳目が集まっているのをいやがおうにも感じさせられる。


 次の瞬間、リーダーの右脚の踏み込みから右ストレートが伸びる。


 ボクはスウェイバックから左腕に当てて勢いを殺し、辛うじて避ける。


 しかし、敵に踏み込まれてスウェイした分、後退してしまって後がなくなる。


「おい、お前ら、全員で毟っちしまえ。二本とも狩っちまえやっ」


 リーダーの一言で後ろにいた四人がにじり寄ってくる。リーダーはその間に右脚と見せかけて左にジャブをくれる。

 避けるとあおいに当たるので、肘でガードするが、結構痛いし、骨のぶつかる鈍い音が痛みを加速する。


 しかし、相手も痛かったと見えて、後を四人に任せるようだ。


 距離を詰めてくる四人が、いやらしく制服の袖口を掴もうと狙ってくる。


 電車は少し加速しながら緩やかなカーブに入る。次の駅につきそうな気配がしない。


首輪タグを狙えっ、直接、ハサミを入れろっ」

 首輪タグ切鋏きりばさみは、ラジオペンチに似ているが、先は平らではなく鋭利な刃物が付いている。

 首周りに刺さらないように細心の注意が払われているのだが、刃物である以上、安全剃刀よりも少し高めの危険が伴っている。


 そんなものを近くで振り回されると、正直たじろいでしまいそうになる。

 しかも、首輪タグが首という体幹に結び付けられているため、回避のためには身体全体を動かす必要があり、体力的にもキツイ。


 避けようとするとたびに、襟足を擦られ首筋を抉られるような思いをする。しかし、四人同時に手を出されては、左右の手だけでは防ぎきれない。


 実際にはさみを受けている制服の両腕には何本も筋が入って布がささくれだってきており、直接刃を受けている手の甲からは血がたらりと流れている。


「こーちゃん、首、借りるわよ。踏ん張って!」


 後ろでコンパス片手に潜んでいたあおいが、一人黙っていられない、というようにして出てきて言う。

 しかし、瞬時に首を借りると言われて、何をどうするのか分からなかったが、踏ん張ることだけは了解した。


「分かった」


 西條さいじょうあおい、渾身のジャンプ一番、ボクの首筋に左腕を巻きつけて体重をかける。

 その瞬間、ボクの骨のひしぐ音が全身を揺るがす。


 ぐぎぃぃいっ。


 これでボクが生きて帰れたら、世界で初めて頚椎ハグを受けた哺乳類として何かの賞をもらえるかもしれないと思いながら、気力でどうにか踏ん張って耐える。


 ドカッという鈍い音がして手下その一がうずくまるように倒れる。


 電車の車内からほおぅっ、と歓声が漏れる。この車内は判官贔屓なお客さんが多いようだ。


 客観的に見ると、それまでボクの後ろに隠れていた西條さいじょうあおいが、攻撃を受けている首関節を左腕で庇うかのように抱えて飛び上がり、一番右隣にいた手下その一の金的を穿ったというところか。


 可哀想に、手下その一は、悶絶してその場で臥せってしまった。なんだか末代まで祟られそうな予感がする。

 いや、当たりどころによっては、最悪、手下その一自身が本当に末代になるかも知れないまである。


 しかし、あおいの着地と同時に壮絶なGがボクの首根っこを締めつける。


「あおい、首が死ぬ」


 ボクは必死にそう言うと、あおいは首を開放する代わりにベルトのバックルを掴んで、あくまでも左腕でボクの首輪を守ってくれるようだ。


 しかし、バックルを釣り上げられたズボンは股下に食い込みを作り、やがてそれは捩れを作ってローラーとなり、股間を蹂躙して二つしか無いボクの珠玉の一つを割りかねない状況だ。


「あおい、キャンタマが死ぬ」


「恥ずかしいこと言わないでよ。こうしないとバランス保てないんだから。アタシが右の敵を防ぐからこーちゃんは前よ。左はアタシの腕に預けなさい! あと百二十秒踏ん張って」


 確かに防禦正面は減って負担は和らいだ観がある。

 しかし、あおいが暴れる度に急所がズボンの股下の捩れたローラーにぐりんぐりんと蹂躙されて、極めてよろしくない。


 さらに、あおいの身体との密着感が半端無く強まってきて、柔らかいものが当たったり、硬いものが当たったり、ボクは目の前の苛烈な状況と背面のラッキースケベとの間で、もうどうにかなってしましそうだ。


 しかも、そのおかげで撃つべき玉が拉げそうなのとは対照的に、砲身にはパワーが充填されてきて腰から下の居住性が最悪に近づきつつあった。


「あおい、ベルトから手を離せないか」


「じゃあ、代わりにどこにつかまれっていうのよ」


 ベルトのバックル近くにあって、掴みやすくて、キンタマを圧迫しないモノと言えば……えっと?

「ぅわぁっ?」

 思わず、変なところから声を出してしまう。いやいや、怒張したイチモツを掴ませるのはさすがに犯罪でしょう。

 たとえ、この身がここで果てようとも、ここであおいに、そちらの長いモノをつかみなさいというのは、変質者の誹りを逃れ得ない。


 しかし、その間にもあおいは暴れまわり、捩れた布は凶暴なローラーとなって小刻みに股下の急所を挽き肉と化すべく、蠕動する。


 ボクの男が揺らいでいる間も、敵は攻勢の手を緩めようとはしない。

「おいっ、時間がないぞ削っていけっ」


 リーダー格の生徒が、指示を出す。何の日本代表監督なのかと思いきや、全員、攻撃が首輪タグへの一撃離脱から、腕や脚への打撃系に変わる。


 要するにガードを潰して、力押しにひた押そうということらしい。


 これに対して、あおいは左腕をボクに預けて、車両の壁との隙間で|飄々と敵の手下一人を相手に闘っている。

 また、手下その二の攻撃も手ぬるい。

 あおいをふつうの女子だと思ってると、大変な目に遭うのは、手下その一が演じ果てたとおりだ。


 そうした中、ボクは側面にあおいの体重を抱えてバランスが取れない上、先頭車両の右前方隅に追い詰められ、前方には敵のリーダーと手下二人がいて圧迫され、もう八方ふさがりの様相を呈している。


 しかも、搭載している玉は破裂寸前、砲身は膨らみながら真っ赤に燃えており、撃沈直前の戦艦大和よろしく、とてもまともに闘える状況ではない。


 敵の第一撃はどうにか鋏で躱し、フェイントで間合いをずらし、ことなきを得る。でも、どちらも少しずつボクの体力ゲージからパワーを減じていく。

 もうパワーゲージの残りは推定で三分の一程度。


 ここで、電車が揺れながら、速度を落としはじめ、ようやく駅が近づいてきたことを知る。あと少し、そう思ったときだ。


「あと四十五秒よ、踏ん張って」


 小声で耳打ちするあおいの声を聞いて、残りの時間を計算する。

 一撃の応酬に数秒しか要さないので、このままでは時間内に敵に倒される可能性が高いだろう。


 否、それ以上に重大局面を迎えているのが股下の状況で、世界でここまで股下をローラーに蹂躙され尽くした男子中学生もなかなかいないだろう。

 もはや、キンタマは木っ端微塵に分断され随所に破綻を生じ、砲に至ってはもう赤みはなく黒化しつつあるのかも知れない。もう股間の感覚がないので、これは単にボクの想像だ。


 敵の第二撃でボクは左の肘をしとどに打たれて、左腕の感覚がなくなる。何度も言うようだが、股間の感覚は既にない。


 隙を突いて手下その四がいいところに首輪タグ切鋏きりばさみを入れてくる。どうにか右手で止めるが、払いのける気力がなく、右手の小指と薬指を鋏に深く傷つけられる。

 今度は滴るように血がだらだらと流れ、床に血溜まりを作っていて、さすがに自分でも驚く。


 見た目が少々、痛々しいのか、周囲の乗客の中から目を背ける仕草が目立つ。

 ボクに同情してくれている人は多そうだが、当然ながら、どうにも助けてくれそうにはないし、ボクもそれは期待していない。

 いよいよ、電車は駅に近くなり交差するレールを跨ぐたびにビリビリと窓ガラスが音をたてて軋む。


「頑張ってよ、こーちゃん、あと三十秒っ」


 あおいの緊迫した声を聞いたときに、電車は大きく揺れてようやく減速に入る。

 しかし、まだ終了時間まで三十秒。いつもは短い三十秒が、今日は恨めしいほど長く感じる。

 もう一度構えをとり直したとき、手下その三がボクの床の血溜まりの流れの一筋を踏んで、滑って転ぶ。

 これが、九死に一生というヤツかも知れない。


 ボクは鋏をポケットにしまうと、あおいの左手をしっかりと掴んで言う。

「あおいっ、ボクにつかまって!」


 体力ゲージが点滅しかけていたせいもあるだろう。ボクは、ふと周囲の人に賭けてみようと思った。

 直接は助けてくれなくとも、間接的にはボクたちの味方をしてくれるんじゃ無いだろうかと期待してみた。


 そして、あおいを背中に担いで血糊での転倒を避けるために、手下その三を踏んづけて後部車両へと走り始める。


 そして、ボクは大声で叫ぶ。


「みんな、道を開けてっ、あと十五秒なんだっ」


 十五秒と言うのは、あと少しという意味のハッタリだ。

 でも、そう言うと後部車両への道が開け、電車のブレーキによる慣性のスピードにも乗ってボクはあおいの身体を自分の背中に押し付けるようにしてグッと加速する。


 もちろん、ラッキースケベも加速しているのだけど、ボクには正直、余裕が無い。藻掻くように、後部車両を指して進む。


 電車の中のざわめきが後ろに飛んで行く。


「逃がすなっ、追いかけろ」


 リーダーも手下その三を踏みつけて走って来る。


 ただ、その先の状況がボクとは違っていた。


 こんどは、誰も進んで道を譲らなかったし、さり気なく回り道させていたりと時間稼ぎに何がしかの協力をしてくれていた。


 ボクとあおいが連結部の扉を閉めて次の車両に逃げたあと、電車は常山西じょうざんにし駅のプラットホームに到着し、ボクとあおいはドアが閉まる直前に降りる。


「ウ~ゥウゥ~ゥウゥ、ウゥ~ゥウゥ~ゥウゥ」


 午後五時、駅のサイレンは少し変わった音がしたが、夕方の雑踏のプラットフォームで、あおいはボクに、ひどく優しかった。


 ボクは綿のように疲れきっていたが、両手を両膝について、なるべく平静を装って、あおいに言う。


「無事を連絡しないとな……スマホどこだっけ」


「こーちゃん、もう黙って、ここに座って」


 見ると、ホームのコンクリートタイルの床の上に、可愛いピンクの小さなハンカチが敷いてあり、明らかに座ると危険そうなブービートラップの匂いが立ち込めている。


 それでも、あおいがうるさく言うので腰を下ろすと、ボクはもう立ち上がれないほど疲れていた。

 すっかりプラットホームの真ん中でガックリとボクの意識レベルが底辺まで落ち込んでいく。


 続いて、あおいに呼ばれて駆けつけた駅員が、ボクに肩を貸して半ば担ぐようにして階段を降り、駅長室の長椅子に横たえられる。

 駅員に手当を受けるボクを真剣で心配そうにみるあおいを見ていると、本当にヤバいことが起きたんじゃないかと思えてくるほどだ。

 でも、切られた手の傷は浅く、カンタンに手当をすませると、骨折箇所がないか聞かれるが、打撲はあっても幸いなことに骨折には至っていない。


 駅員にしばらく休んでから行くように言われると、ボクは本当に横になって休んでしまう。

 このまま、すぅっと寝入ってしまうんじゃないかと思っていると、徐々にズクン、ズクンと脈動と同期するかのような痛みのリズムと共に感覚が甦ってくる。

 左手で首筋を触ると傷を手当したあとのフィルムとその先に首輪タグがある。


「ぐ……気持ち悪いけど……」


「打撲痕だけで六箇所もあるんだから、無理せず、横になっておきなさい。緊張と怪我による迷走神経反射って、甘く見てるとひどい目にあうんだから……」

 あおいの言葉がいつもより優しく聞こえる。


「大丈夫、これでもずいぶん気分が良いんだ」


 さっきまでの殺伐とした鋏の応酬と血の雨の降る車両から比べるとまったく異世界にきたようだ。


 いや、さっきまでが異世界だったのか。


 迷走神経反射だっけ? それを起こさないようにゆっくりと上体を起こす。


「本当に大丈夫なの?」

「うん、もうふつうに歩いて帰れそうに思えるぐらいまである」


「こーちゃん、それで帰ったら捕まるよ……警察に」


 確かに指摘されるとバスタオルがかけられているものの、いわゆるパンツ一枚、生まれたままの姿、一歩手前のきわどい装いだ。


「これは……ボクはいつの間に脱いだの?」

「……」


「ねぇ、あおいってば、ボクのシャツと制服ってどこにあるの……」


 とりあえず、立ち上がろうと膝を立てたときにボクは気づいた。あおいが顔を耳まで真っ赤に染めて、明後日の方角を向いている。


「駅員さんに聞いてくるから、そのまま待ってなさいよ」


 確かにパンツ一丁って恥ずかしいけど、改めて恥ずかしいと思うのは、恥ずかしいと言われるからなのか……と不意にボクは自らの行動のデリカシーの無さを悟る。


 さすがに中三にもなって、同級生の前でパンツ一枚と言うのは恥ずかしいかな。恥ずかしいよね。たとえ、それが幼馴染みであっても。


 しばらくして駅員がかなり傷んだ制服とシャツを持ってきてくれた。

「こちらに置いておきます」


 置かれた制服の血痕を少し気味悪く感じながら袖を通す。


 家に帰ったら怒られそうだと思うと少しへこむ。

 身支度を整えて、駅員に一礼するとこちらに走ってきて、今一度、訊かれる。


「今回の件は、鉄道警察には連絡していないけど、それで良かったかな?」


「はい、ボクが勝手に転んで怪我しただけですから。それに届けたところで、向こうにも少しは怪我させてしまってるかも知れないんで……」


「それなら良いんだ。こういうことは納得が大事だからね。あと、彼女サンから改札口で待ってますと言付かっているので、伝えておくよ。忘れ物、無いように気をつけて帰ってね」


「あ、ありがとう……ございます」


 ボクは『彼女サン』の言葉に少し過敏に反応して、右手右足が同時に前に出そうな、妙に噛み合わない感覚のまま駅長室を後にする。


 改札を出たところで確かに、あおいが立って待っていた。


 ただ、いつもと違って何か考えごとをしているのだろうか。

 視点が定まっていないし、少し女の子っぽい雰囲気をまとっている。

 いつものように、自信満々に他人に迫る感じがまるでしない。


「あおい、帰ろうか」

「うん……」


 ぼくは歩いて帰ろうとするがあおいは、まるで付いてくる気配がない。

 どうしたことかと振り向くと、また、顔を耳まで赤くしている。

 まさか、ボク、変なところ着崩してないよね。チャックは上げたし、パンツは出ていない。


「どうしたんだ、あおい」


 あおいは、うつむいたまま声を震わせて言う。


「……ごめんなさい。こーちゃん、最後、北一条の駅で『今日は終わりにしないか』って言ってたのに、アタシが無理言ったから」


 いつにない、あおいのテンションにボクはちょっと慄きながら、あおいの様子をまじまじと見つめる。


「で、でも、こうして無事に戻れたんだし、いいじゃないか」


「……無事じゃないし、良くないっ。こーちゃん、こんなにボロボロになって」

「いや、でも首輪タグは無事だし、ボクだってそんなにボロボロじゃないしさ」


「……手だって、首だって、脚だってボロボロじゃない」

「いや、手も首も脚も動くし痛くないよ」


「……アンタってねぇ、自分が痛くないからって他人が痛くないと思ったら大間違いなんだから。アンタが傷ついて泣く人のことも考えなさいよ」

「あ、ああ、ゴメン。分かった……よ」


「わ、分かったらいいのよ」


 あおいは、そういう言うと、ちょっと遠慮気味にボクの手を引いて家の方に向かう。


 普段なら手をつなごうなんて恥ずかしいことは嫌なはずなのに、今日のボクは躊躇うこと無く握り返して、歩いて行く。

 暮れなずむ街影に、少し大きめの満月がぼうっと打ち上がっていて、何だか今日のことがすべて夢だったかのように思える。


 でも、身体の随所にガタが来ていながらも、頭の中であおいは、ボクのことをとても大事に思ってくれているんだと反芻していた。

 そして、ボクもあおいのことをそうしなければいけないんだと、胸に刻みつけていた。


 ボクたちが喫茶店フレッサ―に戻ってきたのは六時十分を少し回った頃だった。

 店の前で、急に素に戻ったかのように、お互いの顔を赤らめながらつないでいた手を離すと、あおいは扉を開けてボクを店に招き入れる。

「意外と早かったのね」

 店の奥の席から中押さんの声がする。読んでいた本を閉じるとそれを鞄にしまいこんで、作戦会議ミーティングにそなえるようにしている。


冴朱さやか、ごめんね。ちょっと大げさだったかも。こーちゃんの傷が思ったより浅くて……手当が早くすんだのよ」

「そう、でも残念ね。ペア1はお幸せそうに帰還されたけど。ペア2は残念ながら未帰還よ」


「「えっ」」


「北一条で特急列車に間違って乗っちゃったって、嬉しそうに千茶ちささんから連絡が来たのが三時半ごろだったかしら。GPSで見ると旭山あさひやま駅まで移動してるから、戻りは八時を過ぎるはずなんだけど……」

「なんだ、びっくりした」


冴朱さやか、不吉な言い方はやめてよ。残念とか未帰還とか」

「あら、まだ帰ってきてないから未だ帰還せずって間違ってはいないとは思うんだけれど。でも、司令塔として、連絡役として職責を全うできなかったのは残念だわ」


 結局、二人の無事をあおいがスマホで確認して、あらためて紅茶で一息つく。

 中押なかおさんは終始冷静にボクたちの方を見ながら話を進める。


千茶ちささんと灰音はいね君は戻ってくるのが遅くなるようだし、せっかく紅茶を淹れていただいたんだけど、作戦会議ミーティングはできないわね」

「仕方がないわ」

「今日のコトなんだけど……」


 中押なかおさんが話を進めようとした、そのとき、あおいが言う。

「今日の総括ラップアップは明日にするわ。計画も、経過も……結果も、全然ダメね。出てくる敵を甘く見過ぎてた。やっぱり、敵は選ばないと今日みたいに強いヤツと当たっちゃうのよ……でも、そうそう都合よく弱い敵は出て来てくれないから、無理矢理にでも引っぱり出さないと」

「そんなこと出来るの?」


 そう聞いたボクに、満面の笑顔であおいはこう言った。


「それを考えるのがアタシの役割、そして、実行するのがこーちゃんの役割よ。成果を上げる組織のチームワークって分業と協業によって成り立つんだから!」

「なんだか、ひどく傲慢な分業じゃないか?」


「いいのよ、こーちゃんは何も心配しないで。それより冴朱さやか、あなたの陵日中りょうじつちゅうのルートって使えるのかしら? 是非、弱い敵に出てきていただかないとね」

「そう言われても何をしたらいいのかしら」


 少し、あおいは考えたあと、明日の作戦会議ミーティングで伝えるからと言って、あとは、どうでもいい会話に終始した。

 七時前にボクと中押なかおさんはフレッサーを出て、中押なかおさんは駅の方へ、ボクは逆方向へ別れて帰る。

 あおいはボクを家まで送って行くと聞かなかったが、もう遅いので丁重にお断りをした。



 中押なかおさんの目を盗むようにして、あおいとボクはしばらく、手を振り合っていた。

 背後で今夜はおとなしくフレッサーの扉が閉じられ、ボクは心安らかに家に向かう。





 家に帰ると、廊下の電気がつけっぱなしになっていて、ボクは訝りながらリビングに向かうが、誰もいない。

 ガタンッとドアの音がして奥の寝室からママが出てくる。

虹都こうと西條さいじょうさんから電話があったけど、大丈夫なの? その腕……あおいちゃんに、なんだか、とても謝られてとても困ったわ」

 ママが心配そうに手当のあとを見ながら言う。

 あおいのヤツ、ママにまで電話をしてるとは知らなかった。女同士というのはどうして、こうも連絡が早いのだろうか。


「うん、傷は大したこと無いよ。ところで、何かあったの?」

 ママは溜息混じりにボクに言う。

「それが大変なのよ、パパがね、会社から帰ってくるなり倒れちゃったのよ」


「えっ? パパが、どうして?」

「それが、何も話してくれないの。ママも頭がいたいわ」


 パパは柔道四段のガッチリファイター体型。そのパパが帰ってきて倒れるって、一体何があったんだろう?

 気になって、寝室の方へ行くとパパの声が漏れてくる。


「ううぅん、このままだと……れて、しまう」


 うなされているのか、寝言なのか、寝室に入るとベッドサイドにスーツが掛けられていて、薄い夏布団の中にうつ伏せになってパパが寝ている。

 近づいていくに連れて、何を言っているのかハッキリと明瞭に聞こえてくる。


首輪タグられてしまう……どうする」


「パパ、パパ、しっかりして」


 ボクが声をかけるが、パパは相当に参っているようで倒れこんだまま、まったく起きる気配がなかった。


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