序章 (DAY DREAM)
序章は、白昼夢、作品上の時系列にないお話です。
カラータグの奪い合いの日常の中に、主人公、東大路虹都とヒロイン、西條あおいの関係を読み取ってもらえれば、という回です。
6400文字、少し分量が多めですが、宜しくお願いします。
夕暮れ時、樹々の葉ずれの音ともに息が詰まるかというほど桜の木が淡い白い花びらを散らす。
時間の経過を忘れるほど見事な散り際。その光景に魅入ったボク、東大路虹都は、しばしの間、立ち尽くして現実を忘れていた。
忘れてもいいくらい存在価値のない現実、余りにもハードボイルドじゃないボクの周囲は、今年の四月一日から一変していた。
中学でもらった新しい襟章は青にローマ数字の三で、虹都が三年三組に進級したことを表している。そして、否応なく十五歳になる年になったことも示している。
そのことは柔らかなシリコン樹脂製の蛍光グレイの首輪がより雄弁に物語っていた。
時刻は夕方の四時五〇分過ぎ。尾行の陰がその靴音を隠そうともせず臆面もなく近づいて来る。
嗚呼、あと十分は川の向こうのクラスメイトの西條あおいの家の喫茶店で時間を潰しておくべきだったな、と今さらながら自戒の念を込めて悔やむ。
背後から春の斜陽を背に、暴漢がカッターナイフを手に襲ってきたとき、なるほどこれはフェアでルールに忠実な戦士だとボクは賞賛しかけた。
暴漢は当然、同い年の十五歳。首輪を狩る凶器を手にしているだけ敵のほうが有利なのはやむを得ない。
勢い、ボクは前につんのめって倒れたが、軽々に首輪を失うような無様な真似はしない。首輪を狙う敵の刃筋を読んで辛うじて身を捩らせて凶刃を避ける。
「痛ッ」
襟足に広がるヌルリとした血の温かい感覚、そして、首筋からの灼けるような痛み。首の皮下数センチのところには頸動脈やら神経やらが走っていて、カッターナイフといえども致命傷を与えるには十分なので馬鹿にはできない。
軽く右脳で「死」との距離を計算しながら、手負いのボクは、次の攻撃を未然に防ぐべく相手にカバンを投げつけて夕日に向かって走りだしていた。
腕時計を見ると、まだ四時五十二分。追手を見ると二人に増えている。卑怯者は往々にして数を頼るもんだが、たった二人でどうこうできる程、ボクはあまちゃんじゃない。
頭の地図から八十四通りの逃走経路を割り出し、最も確実な逃げ道をたどる。
しかし、全力疾走で駆けまわること数十秒ほどで、手負いのせいか勢いが鈍る。とにかく、人のいるところに出て傷の手当をと思いながら川の方に向かって行くと、いつも通学に使っている橋が目に入る。
川幅が広いせいで斜張橋はやや上り勾配だ。
これを駆け上がるか河原へ下りるか、ボクは視線を走らせると河原に同じ学生服の男を見つける。この男も首輪を巻いていて制服が同じ、ということは仲間だろう。
このまま河原に下りて鬼ごっこなんて、付き合ってられない。
(待ち伏せ上等)
ボクは息も切らせず、橋を駆け上がる。
「三年はグループ登校、グループ下校な。午後五時まで気を抜くな」
担任の雁久比の日常に擦り切れた言葉がボクの頭で正確に再生される。
一人になるんじゃなかったな。あと五分は少し長過ぎる。ボクの鋼の心臓がぎりぎり悲鳴をあげていた頃、橋の向こうからも人影が見える。
ヤバイ、敵か?
全力疾走を八分目に抑えて、目を凝らして見ると見覚えのある顔だ。
一見するとその女の子は、ふつうに可愛いと思うかもしれない外観をまとっている。肩まで下ろされた黒髪、藍色より深い色の双眸、通った鼻筋にふわっとやわらかな唇……
しかし、それは単にボクにとっては幼なじみだけど粗暴な西條あおいが、クラスメイトだけど相変わらず粗暴な足取りで、そして、戦友になったけど粗暴にしか見えない雰囲気で、弟と手をつなぎながら歩いてくるだけでしかない。
いっそのこと、西條の名前が粗暴だったらいいのにと思えるぐらいまである。
あおいは、右手に弟の手を連れて、季節外れのグレイのネックウォーマーを巻いて歩いている。当然、ネックウォーマーの上には保護色に守られたグレイの首輪を巻いている。
交戦規程上は首輪を隠していないのでセーフだし、首輪のセンサーが検知していないので、あおいの粗野な迷彩は効果を発揮している。
ボクの右脳はなんとも言えない凶兆を感じ取りながらも、左脳は反射的に声を上げていた。
「あおいっ、追われてる。切りつけられた」
「えぇぇ、バッカじゃない。てか、アタシを巻き込まないでよ」
手負いの戦友への第一声が馬鹿とはご挨拶が成っていない。やっぱり粗暴だとボクは決めつける。
「一対一じゃないんだ。頼む」
ボクは生物学上、メス、いや女に分類されるはずのあおいを巻き込まなくてはならなくなったことを申し訳なく思いながらも、追手の間合を測りながらあおいの元へと駆け寄る。
いまの言葉のやりとりで、敵もボクとあおいが戦友だと理解したようだ。
逃げられないと観念した粗暴の権化、西條あおいは、弟にカバンを託してボクを手招きしている。
「弟くん、突然関係のない戦いに巻き込んでしまって悪いな」
ボクはあおいのもとに駆け寄ると、カバンを抱えさせられた小学五年生のあおいの弟に、正義感あふれる詫びを入れる。
「いや別に。お兄ちゃんこそ大変だね」
間髪入れず、あおいに首輪を引っ張られ、ボクはリアクションの自由を失う。
「バカねぇ、橋の向こう側からも一人、来てるじゃない……それに、こーちゃんは弟じゃなくてアタシに謝んなさいよ」
危機的状況というのにあおいは気分を害していて、ボクへの凶暴性を増している。
「……わ、悪かったな」
首輪が緩んだ隙に、ボクがそう言った刹那、凶暴なあおいはさらに首輪を強く引き寄せてこう言う。
「しまった、追い詰められたわね」
「ひょっとして囲まれてるのか?」
「囲まれてはないわよ、逃げ道は三六〇度、上下左右に広がってるのよ、分かるわよね」
あおいがニコッと笑顔を作るとこう言った。
「まだ水は冷たいわ。覚悟なさい」
優しくて凶暴な西條あおいはボクをお姫様抱っこすると、橋の欄干をまたいでひらりと身体を宙に投げ出した。
強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく価値がない。
これは、僕の価値観の一番深いところにある金科玉条。ハードボイルドの掟だ。
そういう点からすると、あおいは多分に優しさに欠けていて生きていく価値が減っているに違いないとボクは思うのだ。
あと、ボクの想像では、お姫様抱っこって言うものは、空をも舞う優雅なひとときかと思っていたのだが、あとから弟くんに聞いたところ、放物線なんて生易しいものではなく、垂直落下運動だったようだ。
上に向かう空気がまったくないって云うのが寂しい限りだ。
「お姉ちゃん、先に帰ってるね」
無邪気な弟くんの平和な声が、欄干越しに重力加速度とともに遠ざかる。
物理公式に従えば、九・八メートル毎秒・毎秒で、ぐんぐん迫ってくる川面。
もう、悪夢としか思えない。
「あおい、この高さだと水面が硬い地面、ボクたちは割れる寸前の卵ってとこかな?」
「何言ってんのよ、心底バカねー」
その瞬間、ざぶんっと耳をつんざくような音をたてて、大きな水しぶきが上がる。
四月の上旬、春まだ浅い川の冷水がボクたちを待ち受けていた。
痛え、冷てえ、息できねえ。何、これ拷問なの?
あと、モスグリーンの色をした川の水は少し臭いもする。しかし、あおいは乱暴にボクの首輪を引き寄せるとはるか向こう岸にむかって泳ぎ始めていた。
「あっちの岸の方が近く見えるのは眼の錯角か?」
「あの川岸にいるのって、敵なんじゃないの?」
そうでしたっけ。橋の上にいる4人は誰を追手として突き落とすか、醜い争いをしながらことの成り行きを見守っている。
ボクたちが川の中ほどに差し掛かった時、午後五時を知らせるサイレンが鳴る。
「ウ~ゥ~~ウ~、ウ~ゥ~~ウ~」
短いサイレンだ。
それを合図に、橋の上から獲物を追うような目つきをしていた追手の一味は、どうやら立ち去ったようだ。
「キズに滲みる」
ナイフの切り傷を負って、あたりをドカドカ全力で走り回り挙句の果てに橋上ダイブだ。
主人公補正で辛うじて生かされているようなもんだと思っていると、あおいが侮蔑の表情を浮かべて粗野に言い放つ。
「しっかりしなさいよ、男のコでしょ」
男のコって一部の業界で別の意味で使われてるんだけど、とボクは思いながら少し遠い目を浮かべて言う。
「首がちぎれりゃ、男だろうと女だろうと一巻の終わりじゃないか。関係ないよ」
「はいはい、こーちゃん、どーせ大したこと無いって、見せてみ」
「気安く触るなよ……この傷は首輪を守った勲章として長く語り継がれるんだ。橋上ダイブ事件はボクのハードボイルドな日常に終止符を打つのに相応しい」
セリフの余韻を味わう間もなく、あおいが容赦なく距離を詰めてくる。
「首のキズよか、こーちゃんの頭のほうが心配だわ」
こそばゆいあおいの獣のような吐息が首にかかる。
「うわっ、キズ、ちょっと、クサいかもね」
「え、まじ?」
怪我の程度って臭いかどうかなの? もう腐臭ってゾンビ化?
てか、それ、ハードボイルドじゃないし。ホラーだし。
「こーちゃんの好きなハードボイルド風に言ってあげると、ザックリ、パックリよ。下手に動かさないほうがいいわ」
「マジか、パックリって傷口どーなってんだよ」
ボクの脳内では左腕が、バックリ袈裟がけに落ちていきそうになっている。
「こーちゃんさ、ほんとにバカだね。そんな引っ掻き傷みたいなの、ミミズ腫れ起こして終わりよ」
「え……ったく。冗談のキツイよなっ」
触ってみると微かにキレてる感がある程度。ボクはさりげなく照れ隠しをしながらも安心する。
「何よ、ギリ五時前に襲われるなんて、こーちゃんこそ、冗談キツイじゃない」
「……にしてもさ、何もしてないのに敵のヤツら、殺る気マンマンでカッターナイフ持ち出すんだから」
まじ怖いし、通り魔はハードボイルドには登場しないし。
「みんな必死ってことよ……でも、こーちゃんがヤル夫クン五人に追い回されたなんて、千茶が聞いたら、千茶、鼻血で茶を沸かすわよ」
千茶とは、戦友の一人で、女子剣道部の主将、北雲千茶のことだ。腐女子であることは漏れ伝え聞いている。
「おい、誤解を招くようなネタを腐女子に提供するのはやめてくれ……って、鼻血って沸騰するんだっけ?」
「いーのよ、血沸き肉踊るんだから、沸騰もするわよ、きっと」
あおいは飄々と言い放つ。ボクはあおいのこうしたテキトーなところは嫌いじゃない。
枝葉末節に拘わらない雑把感っていうのはハードボイルドの重要な構成要素だとボクは思っている。
やがて、あおいが葦の生い茂る浅瀬にたどり着いてどうにか立ち上がろうとしているが、濡れたスカートを水に取られて、立ち上がるのに悪戦苦闘をしている。
なんとも陸に上がった河童を絵に描いたような、外連味あふれるドタバタ劇だ。
「これ、どーなってんの? スカートがまとわりついてちょーキショいんですけど」
あおいに続いてボクが浅瀬に上がると濡れた制服がズッシリと鎧のように重みを増す。
しずくが垂れて確かに気持ち悪い。誰のせい? ボクかな。
そう思っているうちにも、あおいの苦言はまだ続く。
「それはそうと、これってヤバイくらい臭くない?」
うん、確かにドブ臭い。
「うわー、ママに叱られる。こーちゃんにかかわったせいで、アタシめちゃ可哀相~」
そりゃ、もとはと言えば悪いのはボクなんだけど、有無をいわさず川に飛び込んだ勇者はあなたでしょ。
でも一応助かったんだから言わなくちゃダメか、世界平和のために。
「……あおい、悪かった、ゴメン。あと、助かったよ、ありがとう」
そうボクが言うと、あおいは葦の茎をコキコキ折りながら、あさっての方向を見て話しだす。
「とっ、とりあえず、こーちゃんはアタシを家に送って、両親に事情だけは説明してよね。アタシ一人のせいじゃないってとこ、重要だから。とにかく、川原の乾いてる場所まで行きましょう」
ご両親に事情説明するの?
……全然ハードボイルドじゃないなと思いつつも、ボクの見立てではあおいの怒りは鎮まったようにみえる。
ボクたちは、橋脚のコンクリートの段になっている所までたどり着くと、グッショリ濡れて重くなった上着のブレザーを脱いだ。
ファンタジーノベルでいう戦場で鎧を脱いで一息つく、というのはこういうことかとボクが納得していると、ボクの視線は嫌が応にもブレザーを脱いだあおいの上半身に釘付けになる。
あおいはブレザーの中の生徒手帳やらを確認していたが、水に濡れたあおいのブラウスがピッタリ肌着に吸いついて透き通り、意外に豊かな胸の膨らみがボクの思考回路を撹乱する。
「生徒手帳と財布、ボロボロじゃない、もーサイアク。こーちゃん弁償してよね」
ボクはどぎまぎしながら、精一杯答える。
「あ、あぁ……分かった」
「なに、キョドってんのよっ。ホントにわかってるの? もう……」
「こら、ブレザー振り回すなよ。しずく、飛んできたし」
「ブレザー乾かしてるのよ。あと、この財布、メチャクチャ気に入ってたのにぃぃぃっ」
「悪ぃ、こんど弁償するよ。お詫びにトビキリの妖怪ジャンボベリーパフェ奢るし」
ちなみに、妖怪ジャンボベリーパフェは西條の家の喫茶店「フレッサー」で出される名物パフェで総重量二〇〇〇g、全高三三三mmの地雷飯スイーツだ。
「なんでアタシがアタシんちで奢られなきゃなんないのよ、もうっ。今度の土曜、ガイアモンド・シティに財布買いに行くから、ちゃんと付き合いなさいよねっ」
「えっ、今週の土曜って中押さんたちと勉強会じゃなかったっけ」
「こーちゃんは、中押さんの勉強会とアタシの財布、どっちが大事なの?」
「それは、あおいの財布が大事だけどさ……」
ちなみに、一番大事なのは我が身なので、勉強も大事だとかいうところは、ごにょごにょしておく。
「うんうん、だったら決まりね。朝十時のオープンと同時に新しく出来た抹茶カフェに行って、ぜったいに席、確保しておくことっ。そのあと、ショッピングだから」
「ひぇぇ、嬉しいなぁ」
ボクは、微妙に悲鳴をあげる。もちろん、幸福感ゼロ。
もう、ここに来てアマゾリやヤクーで似たような財布を探そうという甘い考えは吹っ飛んだ。
土曜日はひたすら足を棒にして財布を鑑賞しなくてはならず、あおいによる財布の可愛さ成分の分析にひたすら首肯くことを強要される。
そして、たまに率直な感想をもらせば、粗暴にぶっ叩かれることを覚悟しなければならない。
これを幸せと言わずして何というのだろうね。
「嬉しいときは、もっと嬉しそうにしなさいよねっ」
嬉しくない悲鳴を聞きつけたあおいが、正面切ってボクに言う。
しかし、そんな至近距離からブラウスにぴったり張り付いたドット柄の乳当てを、思春期男子に見せつけるのはイクナイと思うのでありますが。
長年あおいとは一緒にいるが、あおいには羞恥心というものが無いのか、男子に対して無防備なのか、よく分からない。
そのあと、あおいのカワイイ財布最強理論に付き合わされてボクの頭がすっかり参りかけた頃、ブラウスとワイシャツはようやく透けない程度には乾いていた。
「おーい、姉ちゃんたち、ここだったの。スマホつながらないからパパとママが行って来いって、ハイッこれ」
小一時間も経っただろうか、あおいの弟が気を利かせてバスタオル持参で捜索に来てくれたおかげで、ボクたちは家路につくことができた。
平和な日常の中で徐々に戦いは激化していく様相を見せていく、そういうものだとボクは思っていた。