第3章 オニの棲む家 鬼の住む部屋
1.
7月3日。支部長は鴻池を連れて、都内にある鷹取家の屋敷を訪れていた。フランクの"伯爵"に関する情報を鴻池自身の口から語ってもらうことと、彼女の保護を依頼するためである。
鷹取家。世間的には鷹取財閥を構成するグループ企業の経営者や役員を輩出、というよりほぼ独占している一族として知られている。その鷹取家には、世間的でない本来の家業があった。
それは、『地獄の牢からの脱出を図り、現世を汚して己の新しい巣にせんと企む"疫病神"を阻止し、その尖兵として地上に沸いてくる妖魔と戦う』というもの。
世間的でない理由はいくつかある。まず、"妖魔と戦う"という浮世離れどころではない所業が、怪異のものに対する恐れを潜在的に抱く一般人から忌避されていること。
鷹取家の妖魔討伐を担う女性たち、"巫女"がそれに用いるのは弓矢でも刀でも、銃火器でもなく、古より受け継がれた鬼の血を源とする"鬼の血力"。一般人からすれば良く言って魔法、悪く言えば不気味な技に見えるのはいかんともしがたい。
もう1つの理由。それは、疫病神が地獄から行っているとされる現世への工作。なにをどうしているのか、まさか疫病神本人に聞くこともできないため詳細不明なのだ。
過去に顕現した際の発言から類推しているだけなのだが、鷹取家が行う妖魔討伐を忌避させるだけでなく、妖魔そのものに興味や関心を抱かせないよう工作しているのだとされる。
この1200年間の為政者たちの態度にも、世間的でない理由を求めることができる。 彼らはどれほど移ろっても"鷹取家に丸投げして公儀は後方支援を惜しまない"という妖魔対策は引き継がれ変わらない。
さらに、鷹取家とその分家である海原家(本家とは別に財閥を形成している)は妖魔討伐とともに、他国の人外勢力から日本を守る盾としての役割を担ってもいるのだ。
フランクの"伯爵"家も、かの国において地獄より現れる"ディアーブル"を討伐する家である。だが、同時にその力を使って他国への侵略に熱心になる時期がある。
鷹取家を頼るのは、その"伯爵"からの魔手を鴻池に及ぼさないため、ひいては日本を守るため。そう、支部長は会長から言われて、今この空調の効いた座敷にいる。
(ならば、なぜ会長自身で来ないのかしら?)
支部長が脇に正座している鴻池につられてお茶を飲んでいると、廊下を歩いてくる足音がして障子が開いた。
召使が開けた障子をくぐって部屋に入ってきたのは、50代だろうか、歳相応に老けてはいるが整った顔立ちの小柄な女性だった。白いものの混じる赤黒い髪を後ろでひっつめ、もののよさそうな白を基調とした紬を着ている。
続いて入ってきたのは一転して若い女性2人。1人は青黒いロングヘアーを背中に流し、フリルのついたワンピースを着こなしている。もう1人はTシャツと綿パンといういたってラフな格好。肩までの黒髪が歩くにしたがって軽く揺れている。
2人ともはつらつとした中に聡明そうな雰囲気を漂わせているが、どちらかというと青黒髪の女性のほうが所作に優雅な趣がある。
最後に入室してきた女性は鷹取家の人ではないのだろうか、前の3人とはやや離れて、部屋の隅にしつらえられた端末の操作台の前に座った。鳶色の豊かな髪に縁取られた顔は愛嬌たっぷりだが、支部長の目を引いた――いや、あれならどんな男の目も釘付けになるだろう――のは、見事な胸の膨らみ。
落ち着いた仕草と相まって艶麗な色気を醸し出している持ち主にただ1つ違和感を憶えるとすれば、正門で見た鷹取家の家紋が縁に付いたダークブラウンのベレー帽、それが頭に乗っていることであろうか。
「お待たせして申しわけありませんでした。急な来客に長居されてしまって」
上座に座った女性はそう支部長たちに話すと、丁寧に頭を下げた。支部長たちがややあっけにとられながら返礼し、自己紹介と面会を快諾してくれたことへのお礼を述べると、女性は微笑んだ。
「ご丁寧にありがとうございます。私は鷹取の総領を務めております、鷹取美予と申します」
総領の自己紹介を皮切りに、次は青黒髪の女性が口を開いた。
「海原琴音と申します」
その次は、黒髪の女性。
「蔵之浦鈴香です」
最後にベレー帽の女性が頭を下げた。
「参謀部主任参謀の仙道たずなです。よろしくお願いします」
では、お話を伺いましょうか。鷹取の総領の合図で、支部長と鴻池は先日支部の会議室でした説明を始めた。
「なるほど……」
支部長たちの口頭での説明は20分ほどで終わり、今はエンデュミオールとバルディオールの戦闘記録映像が終わったところ。総領は形の良いあごに指を置いて何やら沈思していたが、やがて顔を上げた。
「鴻池さんの身柄については、当方で預からせていただきます。それでよろしいですね?」
支部長は首肯し、生活費については『あおぞら』のほうで持つこと、今後も問い合わせのため彼女になんらかの通信手段を持たせてほしいことを総領に話した。
「分かりました。鴻池さんには、ゲストハウスの1つに居住していただきます。そこならネットの回線が引いてあるし、携帯も持っていただけばいいわ」
「あの――」と鴻池がおずおずと総領に尋ねた。二つ返事で総領が彼女の身を請け負ったことが逆に不安なのだろうか、表情がやや曇っている。
「具体的にはどこの街に住ませてもらうことになるんですか?」
その問いに、総領は穏やかな顔で応じた。
「ここよ。この屋敷の敷地内に住んでもらいます」
支部長と鴻池は声を失った。確かにこの屋敷は半端でない大きさの敷地を有している。この敷地のどこかにある――車溜まりから玄関までの巡回バスの車中では見当たらなかったが――ゲストハウスに、ということなのだろう。
総領が穏やかな顔を崩さず言った。
「携帯のGPSから位置を探られても、ここなら侵入にはひと手間もふた手間もかかるわ。外の物件だと、襲撃された時ご近所に迷惑だし」
なんだかちょっと感覚がずれている気がしないでもないが、実際妥当な案であることには変わりない。塀の外には出られないため、日用品や食料品は手配する者を付けてくれるとの説明に、ようやく鴻池は安心したようだ。
「わかりました。ご厄介になります」
としおらしく頭を下げた。聞いてうなずいた総領は、今度は支部長のほうを向いた。
「ところで佐藤さん」
来た。支部長はいずれ来ると予想した問いに備えて、居住まいを正す。
「今回は貴重な情報の提供と、提供者のご紹介をありがとうございました。今後のことなのですけれど、当方ともう少し深いレベルでの提携――」
いいえ、と総領は首を振って踏み込んできた。
「ともに"伯爵"と戦うというわけには、まだいきませんか?」
沈黙が室内を満たして数秒、支部長は目を伏せて首を振った。
「申し訳ありません。会長にまだその意思がありませんので」
予想された回答だっただろう、鷹取家側の出席者はわずかに顔を曇らせただけであった。だが。
「その代わりと言ってはなんですが、今後については定期的に連絡会議を行い、お互いの情報を交換したいと思うのですが、いかがでしょうか?」
「佐藤さん、それは、会長さんのご意志ですか?」
と聞いてきたのは琴音と名乗った若い女性。支部長は頭を振り、自分の独断であることを告げた。
「分かりました。ではそのように」と総領が答えてその件は了となった。
玄関への帰り道、鴻池が横に並んで話しかけてきた。ちょっと声を潜めて。
「いいのか? あの映像、会長の許可を取ってないんじゃないのか?」
「あら、聞いてたの?」
と支部長も声を低めて答えた。鷹取家差し向かえの車が支部に来る前に横田としていた会話を聞いていたのだろう。もっとも、映像は他の支部のものだ。万が一鷹取の人間が支部を訪れることがあっても、顔バレは起こりにくいだろう。
「いいのよ。会長の、肝心なことを話さないっていう姿勢に納得していないの。私は」
「例の連絡会議の件も、それか」との鴻池の問いに、黙ってうなずく。
「なるほど。まあ、あの会長とこことのつながりはなんとなく推測できるけど、な」
鴻池がにやりと笑うのを支部長は横目で眺め、続きを促した。彼女は今朝、『あおぞら』のサイトを見たのだと言う。組織の詳細な情報はフレイムの報告でわかっていたため、実はサイトを閲覧したことがなかったようだ。
「あれを見て、ようやく合点がいったよ。なんであの時あの子らと会話が噛み合わなかったのかが」
「そう、そこまでは私も、いや、支部長クラスなら推測できてる」
なにかをまだ隠している。なぜ鷹取家と自らの接触を恐れるのか。なぜ連携して、共に戦おうとしないのか。
ありがとう。鴻池に向けた支部長からの感謝の言葉に、彼女は意外にもまたにやりと笑って見せた。
「まださ。伯爵の魔の手からこの国が守りきられるまでは、な」
鴻池はそう言うと、案内の者に導かれて新居へと去っていった。
2.
戻って、先ほどの座敷では、鷹取家側の出席者が鳩首談合していた。
「思っていたより大物が釣れたわ」
と言う総領の表情はもはや客に応対する主のそれではなく、一族の統率者たるものに変わっている。
「琴音ちゃん、毎度のことで申し訳ないけど」
「はい、裏取りをします」
鷹取一族の情報収集関係組織を総攬している琴音が、短く答える。支部長提案の連絡会議についても、琴音、鈴香、たずなの3名で担当することになった。
「それにしても、伯爵も懲りないわねぇ」と総領が頬に片手を添えて嘆息する。
「鴻池さんが言ってたエンゲランドの件ですか? それとも支部長さんが言ってた22年前の件ですか?」との鈴香の質問に、総領は首を振った。
「それもあるけど、もう少し昔、80年ほど前だけど、確かジャーマニアにちょっかいかけて手ひどくしっぺ返しを食らってなかったかしら」
琴音も口をそろえる。
「それ、聞いたことがあります。そのせいでジャーマニアのフランク侵攻が早まったとかなんとか」
「え?! そうなんですか、たずなさん?」と鈴香が振ると、主任参謀はちょっと困った顔でうなずいた。
「ま、いずれにせよ、降りかかる火の粉は払わないとね」
総領がまとめたが、琴音がここでやや躊躇いがちに口を開いた。お願いがあるのだと言う。
「この件、沙耶様にも知っておいていただきたいのです」
なぜ、と問う総領に琴音が説明した。もし伯爵や側近筆頭のニコラ・ド・ヴァイユー――鴻池の情報ではガントレットと名乗っているようだが――が直接乗り込んでくるとしたら、苦戦は免れないという。
「沙耶様の御力が必要です。沙耶様の蟄居が終わるまで、あと2ヶ月ちょっとですから」
琴音の説得は、総領の困惑顔を招いた。その顔をそのまま向けられたたずなは、微笑みを浮かべた顔で答えた。
「わたしに問われれば、琴音様のご提案を是とせざるを得ません。敵侵攻戦力が不分明である以上、こちらの最大戦力を投入するのがセオリーです」
それに、当方のテリトリーで迎撃する以上、様々な被害を最小限に収めるためにも早期の戦闘終結が望まれる。よって琴音の提案を支持する。主任参謀はそう付け加えた。
「正直、オーバーキルだと思うけど……」
そうつぶやいてしばし黙考した後、総領は結論を下した。
「あなたたちで沙耶の部屋に行って、説明してくれないかしら」
「よろしいのですか? わたしたちが会って」と琴音が反問する。
「私が会ってしまっては蟄居処分の意味がないわ。実の娘ですもの。示しがつかないから」
その言葉に琴音はうなずき、すぐに沙耶の部屋へ3人で向かった。廊下を歩きながら琴音が嘆息する。
「立場という点で言えば、わたしたちだってよくないと思うけど。ねぇ? 鈴香」
突然振られて鈴香がびっくりしていると、たずなに笑われた。
「鈴香様、しっかりしてください。蔵之浦家の当主なんですから」
そう言われても、と鈴香は思う。当主と言ったって、現在蔵之浦家に所属している巫女は鈴香1人。対疫病神用の特殊能力を持つ兄を含めても2人、兄の娘であるカンナはまだ1歳で、当然巫女の修行すら始めていない。
そもそも、鈴香が"疫病神の顕現"の結果鷹取の血を引いていることがわかったのが4年前。蔵之浦家が海原の分家扱いで立家され、鈴香が当主とされたのは1年ほど前のことなのだ。
鈴香の不満が顔に出たのだろう、琴音が笑顔ながら絡んでくる。
「もう誓いを忘れたの? 海原の当主予定者たるこのわたしと、一緒に妖魔と戦ってくれるって言ったじゃない」
「だからこそですよ」とたずなが、これも笑いながら琴音をたしなめてくれた。
「総領様は、あなたがた若い世代に徐々に比重を移そうとお考えなのだと推察します。総領候補であらせられる沙耶様も含めて」
それと、この機会に沙耶様を慰問してほしい。それが本音だと思います。たずなはそう結んだ。そこに琴音も付け加えてくる。
「あとは、観測気球ね」
きょとんとした顔をしているのだろう、鈴香のほうを見た琴音が笑って教えてくれた。
琴音たちが蟄居中の沙耶を訪問した、その事実に一族がどういった反応を示すのか。それを総領は測りたいのだろうと言う。
正直自分にはできない思考に、鈴香は心中嘆息して話題を変えた。
「それにしても遠いなぁ。いつ来ても思うんだけど広すぎない? このお屋敷。うちの実家10個分は優にありそうだし」
鈴香の愚痴に今度はたずなが絡んできた。
「ふふふ、『居酒屋 むかい』が10軒もあったら、鈴香様の唐揚げ三昧が捗りそうですね」
「ただでさえちょっとぷより気味なのに」とにやつく琴音には脇腹をつままれる始末。
悲鳴を上げ抗議をしているうちに、ようやく沙耶の部屋に着いた。障子の向こうに向かって訪いの声を上げると、息を飲む声ののちしばらく、入室の許可が出た。
3.
室内では総領の娘である鷹取沙耶がパソコンの前に立ち、鈴香たちを迎えてくれた。
「みんな……久しぶり、ね……」
沙耶の、育ちのよさそうな垂れ目がちの眼はいささかおどおどしているようにも見える。顔色も青く、そのせいでせっかくの美貌もくすんでしまっている。
無理もないことは鈴香にも分かる。
約2年前、沙耶が引き起こした未遂事件における直接かつ唯一の負傷者が琴音であり、それに激高した結果、沙耶の行為を未遂で終わらせることになる攻撃を放ったのが鈴香なのだ。たずなとて、その未遂事件に至る間接的な関係者である。その3人がガン首揃えて、2年の蟄居が決まってから初めて、しかも突然会いに来たのだ。動揺するのは当然だろう。
そんなことを鈴香が考えているうちに、沙耶自身が入れてくれたコーヒー――蟄居中の身ゆえ執事やメイドは使えないため――を囲んで、先ほど得た情報を琴音が話し始めた。 片耳で聞き流しながら、鈴香は部屋をぐるりと見回す。最後にここを訪れたのはいつだったか、ほとんど変わっていないように見える。品のいい調度品と、壁の一面を埋め尽くす蔵書の並ぶ本棚。その片隅に、鈴香は写真立てを見つけて密かに驚いた。
その中に収まっているのは、笑顔ではしゃぐ人物群を俯瞰した1枚の写真。ほかならぬ鈴香がシャッターを押したものだ。
その画面下中央に陣取るのは鈴香の兄・蒼也。彼の両脇でその腕にしがみついているのは沙耶と、現在は兄の妻となっている木乃葉。その後ろにはたずなと弓子の姉妹に、彼女らの幼馴染である夏姫。それから琴音とその姉・満瑠、満瑠の仕事上のパートナーである千夏。
(あの写真が飾ってある。ということは――)
「鈴香? 鈴香!」
突然琴音に名前を呼ばれて仰天した鈴香の姿に、目を丸くしていた沙耶が吹き出した。
「どうしちゃったの? スズちゃん。何か考え事?」
沙耶の問いを適当にごまかして琴音に呼ばれた理由を聞くと、『あおぞら』から提供されたDVDを鈴香が持っていたためだった。説明はいつの間にか終わっていたらしい。
DVDを部屋備え付けのレコーダーで再生して、皆で見入る。沙耶がうなった。
「これ、一般の人たちが変身して戦ってるってこと? すごいわね」
「ですよね」と鈴香が応じた。声が弾んでいるのが自分でもわかる。
「炎とか電撃とか飛ばしちゃってるんですよ! 魔法少女ですよ、沙耶様!」
「まあ、支部長さんの話だと大多数は大学生って話だから、"少女"はちょっと誇大表現ですけどね」
琴音の訂正に、鈴鹿はむくれた。沙耶とたずながそれを見て、目を見合わせて笑っている。たずなが豊満な胸に手を当てて、
「いいわね、"魔法少女"って響き。わたしも子供のころ憧れたわ。どうやったらなれるのかって一生懸命考えて。弓子にはバカにされたけど」
それを聞いた沙耶が、いたずらっぽい表情になった。
「たずなさんは十分成れてますよ。"魔女"に」
「なんで略すのよ沙耶ちゃん?!」
とたずなは不服そう。プライベートの場では、沙耶より3つ年上の彼女は"たずなねーさん"なのだ。
その会話に琴音も乗っかってきた。
「ああ、"魔性の女"の略ですね分かります」
「ひどいわ、ひどいわ」とたずなはハンカチを取り出して泣き真似。
「わたしだって、好き好んで男の人の人生を狂わせ続けてるわけじゃないのに……」
その自覚はどこまで本気なんだか。鈴香は頭が痛くなってきた。沙耶はといえば、ふっくらとした頬に手を当てて、机に頬杖をついて。
「たずなさん、また誰か終わらせちゃったんですか?」
と真面目な顔で眺めてる。たずなはハンカチを顔に押し当てたままコクコク。ありゃ、ほんとに泣きだしちゃった。
「ま、まあ、その話はおいといて。というわけでこの件、頭に留めておいてくださいね、沙耶様」
琴音の言葉に、沙耶はいたって平然とした顔でゆっくりとうなずいた。
「では、わたしたちはこれで」
そう挨拶して部屋を辞そうとする琴音を、鈴香は止めた。
「なんで? 久しぶりに会ったんだもん、もっと沙耶様とお話ししていこうよ。いいでしょ。ね? 沙耶様」
立場がどうとか言い出した琴音に、じゃあ琴音だけ帰ればと言い放つ。こう言われると断りきれない琴音の性格を知っている鈴香であった。
コーヒーのお替りをいただいて、四方山話に興じる。自分たちのこと、写真に写っている人たちの近況、その他諸々。たずなが起動したままのパソコンを見て言った。
「論文書いてたの? 相変わらず熱心ね」
「ええ。この機会に、今までいくつか考えていたことをまとめておこうと思って。大学祭での特別講義の原稿と並行してですけど」
沙耶は大学卒業後、母校で英文学の非常勤講師として働いている。もちろん鷹取一族である彼女は財閥傘下企業の役職もいくつか掛け持ちしていて、今回の蟄居に伴う措置でそれらの役職は取り上げられてしまった。が、大学は鷹取と無関係のためその措置を免れていた。
「そういえば、勉強はちゃんとしてる?」と沙耶に突然聞かれ、
「まだ2年生ですから。こっから挽回しますから!」
鈴香が空元気を出し、琴音も同調してくる。沙耶がくすりと笑った。まだどことなく陰りはあるものの、鈴香が知っているかつての沙耶に戻ってきた。やっぱり笑ってるほうがきれいだな。そう素直に思う。
「2人ともちょっとは大人びてきたと思ったのに、変わらないわねぇ」
沙耶の揶揄に2人して反論するより速く、たずなが笑顔で被ってきた。
「変わった部分もあるわよぉ。鈴香ちゃんの胸やお尻はあれからも育ち続けてるし」
「も一つおまけに脇腹も」
と琴音にまた脇腹をつままれ、鈴香が悲鳴と抗議の声を上げようとしたその時。
もにゅっ。
いつの間に手を伸ばしたのか、沙耶が鈴香の胸を掴んできたのだ。
「おお、また一段とボリューミィになってるじゃないの」
「な、なななななな何するんですか!」
「ちなみに今どのくらい?」
聞いてないでしょ、沙耶様。
「仙台の優羽ちゃんに迫る勢いです、はい」と琴音がにっこり。
「あんな乳オバケに追いつけるわけないじゃない!」
「……今、さりげなぁくわたしもディスられたわねぇ」
鈴香の叫びに、琴音とは別方向からジト目が放たれた。
「ていうか、いつまで掴んでるんですか沙耶様! 楽しいですか?! 同性の胸掴んで」
「うん!」
やっと沙耶の満面の笑みが見られたと思ったら。
涙目になった鈴香が無理やり沙耶の手を胸から引き剥がそうとするより早く、その手を払って鈴香を守るように琴音が抱きしめてきた。そのまま沙耶に向かって軽くにらみを効かす。
「あんまり鈴香をいじめないでください」
それも相変わらずね、と沙耶は手を払われたことも気にしていない様子。たずなと2人でまたくすくす笑い出した。
鈴香は琴音にハグを解いてもらうと、ため息をついた。この人たちと、親密さの表現というにはいささか度が過ぎるこんな人たちと親戚づきあいなんてやっていけるのだろうか。あれから4年。未だに答えが出ない、奥手な鈴香の疑問の1つだ。
「そういえば、優羽ちゃんと瞳魅ちゃん、東京の大学を受験するって――」
さっきの遠慮はどこへやら、"おしゃべり娘"琴音のエンジンがかかってきたようだ。
気を取り直した鈴香は微笑みながら、とめどないおしゃべりを繰り出す親友の生き生きとした顔と、受けて立つ大人の女性2人の柔らかい笑顔を見つめていた。自分に課せられた運命の重さをしばし忘れて。