フルーレ姫の感情
ノック音だった。 一定音が四回響く。
そうだ。私は、今、グローディアではなくてクォーラにいるんだ。
もう一か月もここにいるのに未だに朝起きると近くにフロウがいるような感覚を覚えてしまう。
変だなぁ。彼はまだ架空世界からの帰還を果たしていないというのに。
そんな事を考えている間に扉は開いた。
「失礼します」
室内に通る女性の声。 扉の方を向く私。
「おはよう。シビア 」
現在進行形でまどろみの中にいる私は、 寝ぼけて情けない声音で返事をしてしまう。 室内に入ってきた女性は、 口元に手を当てて小さく柔らかく笑う。
「フルーレ様。 もう昼食時です」
徐々に視界の靄が消えていく。 鮮明に彩られていく視界。 それに合わせて私の顔も紅色に帯びていく。 私は飛び上がるように立ち上がり、 言う。
「ごめんなさい。もうそんな時間だったの」
目の前の女性は、 再び柔らかく笑う。
「いえ、 気にする程の事ではありません。 身支度はお済みのようですし、 もう出られますか? 」
「えぇ。 大丈夫よ」
「はい。 では行きましょう」
女性の言葉に頷いて私は、 今いる部屋を後にする。 それに続くようにシビアも私の後に続く。 身を翻し、 私の背後に位置づいて。
目的地に着くまでこの体制は続いた。 後ろの女性が進むべき道を適所で言ってくれる。 私はそれに従うだけ。
行きついたのは王宮の各適所に存在する転移門。 そこからクォーラのあらゆる要所へ飛べるようになっている。 便利だよね。 でもここは、 王宮にある転移門とは少し種類が違う。
簡潔にいうと、 転移門は国か個人かという二種類に分かれている。 国が所有する転移門の場合、 軍の派遣やあらゆる面を考慮されている為に大規模な物となっている。 個人所有の物だと、 一人ずつがせいぜいでついでに折り畳みなどが可能となっている。
そして、 今、 私の目の前にあるのが、 個人用の転移門。
今、 私を丁寧にエスコートしてくれた女性。 シビア・ルーテンマーズの所有物。
戦国クォーラ第五師団団長。 私の護衛役を任されている強い人。 団長の任についたのは、 先任だった実の姉にあたるレイラさんが行方不明になった事がきっかけだったみたい。
年齢は私の一つ上の十六歳。 赤髪の碧眼で身長は170くらい。 騎士団長に与えられる正装を身に纏う。 師団色というものが存在し、 それが団服の色に繋がる。 シビアさんの場合は、 紺色らしく、 紺を基調とした団服になっている。 露出の少ない作りの団服だが、 それなりに豊満な身体つきだというのがわかる。 髪型はボブ。 横と襟足が肩に触れるか触れないか程度の長さで、 空気感を含ませた髪に緩いうねりを与える。 前髪は眉程度の長さで切りそろえられている。 軍服を纏っていなければ、 普通に可愛い女の子。
そんなシビアが所有する転移門は、 彼女の所有地に繋がっているみたい。 前に街へ行った時に教えてもらい、 その時に連れて行ってもらう約束をしていた。 その約束の日が今日。
転移門を潜りぬけると、 見えてきたのは、 辺り一面に広がる草原と適所に咲く花々に、そびえ立つ大樹。
ここは、 ルーテンマーズ家が所有する山地。 ルーテンマーズ家は、 古くからクォーラに使えている騎士の家系であり、 シビアとバース王子は幼少のみぎりからの付き合いみたい。
綺麗な空気。 王宮内では味わえない久しぶりの開放感。 空を仰ぎ、 両手を広げて、 そのまま欠神を……。
「ふぁ~、 ……あれ? 」
……じゃなくて、 そうじゃないの。 今のは何かの間違い。 ここは大きく息を吸いながら気持ちいなぁ。 とか言うところ。 しかし、 本能がそれを邪魔してきた。
私は確認するようにシビアの方を向く。 私が欠伸をしている間に芝の上にレジャーシートを引き終えて、 近くにバスケットを置いて座っていた。 ニコニコしながらこちらを見ている。
「フルーレ様は寝坊助様ですね」
「いいえ。違います。とっても違います」
私はシビアに弁解するように言う。
「まぁまぁ、 とりあえず座りましょう。 せっかくのピクニックですから」
シビアは、 私を落ち着かせると傍らのスペースをポンポンと二度叩く。 私は促されるままに座り、 紅色に帯びた頬を両手で覆う。
それから私の羞恥心が収まると、 時間は緩やかに進み、 心が安らいでいく。
はじめは、 毅然とした振る舞いで少し硬かったが、今では少し柔らかい。
出会った当初。その時、 シビアは王子のお付き役に就いていた。
私がこの国に着いた時。王子は迎えにも来ないで自室で待ち構えるという何とも舐めきった対応をしてきた事を私は忘れない。
そして、シビアに会ったのもその時が初めてだった。
バースの私室。 一般兵は入れない部屋。
私は、 促されるままに室内に足を踏み入れる。 背後で扉が閉じる音が聞こえる。
最初に視界に入ったのは、 装飾の施された豪奢な椅子に腰かけるバースとその傍らで無表情を保つシビア。
私は二人を見た瞬間、 驚きと共に肩を震わせ、 警戒心を強めた。
誰を警戒したのか、 それは王子の方。 彼は煌びやかなシャツを身に纏い、 ボタンを全開に開いていたんだ。 つまり半裸状態。
私を見るなり、 髪をかき上げてウインクを一つする。 そして、 艶っぽい低音ボイスで言う。
「やぁ、 未来の妻よ。 ようこそバースの楽園へ」
最後の言葉を言い終える時、 バースは、 全開になっていたシャツを掴み大きく広げて上半身の裸体を晒していた。 顔も横顔しか見えないように傾け、 キメ顔を一つ。
自然と口元がひくついた。 周囲を見渡すと、 確かに一人の人間が住まうにしては過剰な程に大きく質の良い家具や日用品が揃っているのがわかる。
しかし、 楽園とは少し違うような……。
ここまで考えてふと天井が異様に眩しい事に気づいて顔を上げる。
「っ!? 」
息を呑み、 私の思考が一度停止する。 同時に停止した身体と視線。 その視線の先には、 天井から垂れ下がる電光掲示板のような物が見えた。 そこには、 しっかりとバースの楽園と書かれている。
甘かった。 確かにここは、 楽園なのかもしれない。
呆然とする私に構う事無く会話は続く。 次に口を開いたのはシビアだった。
「気持ち悪い事をしていないでください。 王家の恥です。 ドン引きです」
「はっはっはー! ……ん? 待て待て、 王子に向かってそれはないだろう? 」
「そんな事よりしっかりしてください。その態度もやめなさい。相手は一国の姫です 」
あれは忘れもしない馬鹿な王子と対面した時の事。いつ思い出しても腹立たしい。私を目の前にして何なのだ。クォーラにも馬鹿がいるのか。そう思った。
そんな中でシビアはいつもしっかりとしていた。
しかし、 そんな彼女も年相応の時がある。
私の視線の先には、 バスケットから取り出したお手製のサンドイッチをはむはむと小さな口で少しずつ食べているシビアが見える。
片手ではなく両手で食べているのがポイントなのかもしれない。
豪奢な団服を着ているとはいえ、 その姿は十分に愛らしいと表現できるだろう。
今、 お互いにサンドイッチの最後の一つを手に持っている。 私のはまだ手が付けられておらず、 シビアのは後一口というところ。
そんな時、 不意にシビアさんがこちらに視線を向ける。
私の視線が気になったらしい。 一拍の間が置かれる。 一秒間しっかり固まった後にハッとするようにシビアさんは目を見開く。 そのままゆっくりとサンドイッチを抱えるように守るような構えを見せる。 そのまま警戒心を保ちながら、 重心を後ろに向ける。 完全な防御の姿勢だった。 ……あれ?
「……あげませんよ? 」
警戒心満載の胡乱気な視線が私に向けられる。
「いや、取らないから」
「……サンドイッチは美味しいですからね。 警戒しても損はないといいますか、 なんといいますか」
朗らかに言う私の言葉に安心したのか、 シビアは顔を綻ばせる。 一旦笑顔に戻るが、 忙しなく表情を変える。 慌てるように言い訳のような物を並べ、 その顔には赤みが差していた。
私は小さく笑いながら、 そっと自分のサンドイッチをシビアに差し出した。
「そんなに食べたいのなら上げようか? 」
「えっ? ……しかし」
私が差し出したサンドイッチを穴が開くほどに凝視するシビア。
建前と本音が心の中で交互に主張しているようで口では遠慮し、 それとは反対に表情は凄く物欲しそうだ。
「私お腹いっぱいだから。 シビアが食べてくれると嬉しいのですが。 ちょうど手も付けていませんし、 ……ダメ? 」
私のお願いを受けたシビアは、 一瞬だけ目を見開くと嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そ、 それでは仕方ありませんね。 し、 仕方なくですからね? 」
建前は治らなかったが、 満面の笑みでサンドイッチを受け取るシビア。
引き続き建前を並べているが、 表情は緩みきっていた。
それから和やかな会話が続く。 木々の梢から聞こえる小鳥たちの声を聞き、 風が吹く毎に奏でられる枝や草の音が時おり耳を撫でる。
それらが与えてくれる微かな安らぎを感じる。
のんびりと過ごす内に辺りは残照に満ちていた。 最初に来た時の日の光とは、 また違った印象を抱かせるそれをぼんやりと眺める。
はずんでいた会話も今は途切れている。 ただただ私はピクニックの余韻に浸っていた。
一度目を閉じ、 再び開けた時、 何度目かもわからない風が吹き抜ける。 木々や草花の音が聞こえる。 その音と共に地から離れ、 生命を失った草花が弧を描いて空へと押し上げられる。
風が止んだ頃には、 出発地点から少し離れた場所に飛ばされた草花がはらはらと緩やかな速度で落ちていく。
そんなまどろみさえも運んできそうな穏やかな時間の中で不意にシビアが口を開いた。
「フルーレ様。 ここからは、 本音が聞きたいので遠慮や冗談は抜きでお願いします」
「……」
突然に言うシビア。 その声音は真摯に満ちている。
シビアに視線を向けると彼女は真剣さを帯びた表情で一点を見つめている。 視線の先には、 小さくなった街並みが見える。
「……結婚、 したいですか? 」
ゆっくりと、しかし、 はっきりと言うシビアは、 まだ小さな街並みを眺めている。
問いかけられた私は、 意図が掴めずに押し黙ってしまう。
言っていいのか、 言った後はどうなるのか。 不安が尽きない。
何もわからない事に漠然とした恐怖が付き纏う。
『結婚しなかったら、 私はどうなるの? 』
答えを出せない私は、 言いあぐねるように俯く。
数秒間にわたり沈黙は続き、 次にそれを破ったのはシビアだった。
「ふむ。 ……これは独り言ですが」
顔を上げ、 シビアを見ると、 彼女はまだ一点を眺めてる。 表情を変えずに次の言葉を言う。
私はそれを自覚できるくらいに情けない表情で眺めていた。
「仲間を信じるのって、 案外悪くないものですよ? それと自分を大切にするのも必要な事です」
言い終わるとシビアさんは、こちらに顔を向ける。 朗らかに笑いながら、 私の次の言葉を待つ。 見守るように私へ笑顔を向けるシビア。 私はそれを見て思い出したように呟いた。
「……自分を大切にできない人間は、 自分だけじゃなく、 他人も、 何もかもも大切にはできない」
私の呟きにシビアは、 ゆっくりと頷いた。 思い出したこのフレーズは、 幼い頃に両親に言われた言葉だった。
懐かしさを覚えたのか、 いつの間にか私の頬を涙が伝う。
そんな私の手をそっと包み、 シビアさんは再び問いかける。
「……結婚、 したいですか? 」
「……したくない。 わ、 私まだ、 なにも」
優しく笑いかけるシビアを直視できず、 私は嗚咽を漏らしながら、 俯いて一つ一つの言葉を絞り出していく。
自分の気持ちを外へ出す度に私の涙は、 レジャーシートの上に落ちる。 一度弾かれた涙は小さな模様のようにレジャーシートの上に浮かび、 それは次第に増えていった。
「……それが聞きたかったのです。 フルーレ様の本心が」
言葉と共にシビアは俯いて小さくなった私の身体を抱きしめる。
僅かに入る力。 私は縋るようにシビアに抱きついた。
私の嗚咽が収まるまでそれは続き、 いつしか残照も消えかけていた。
シビアは、 落ち着いた私の肩を掴み、 ゆっくりと身体から離す。 目線を合わせられる距離まで離れると真摯な眼差しが私を見ているのがわかる。 私もそれをじっと見つめる。
「脱出の段取りはグローディアの英雄の帰還後です。披露宴を彼の目覚め後に設定しましょう。 サラ様はその時に彼に求めてください。 脱出後の住処も用意してあります。 この地図の通りに進んでください」
「で、 でもそれじゃあシビアが」
最後までは言わせてもらえなかった。 遮るように人差し指が私の口元へ置かれる。 驚きながら目を見開く。 私の視線の先には悪戯っぽく笑うシビアが居た。
「ノープログレム。これは騎士の誓いです」
言い終わると同時にシビアはウインクを一つする。 それを惚けるように眺めていると、 額に衝撃が走る。 正確には眉間。 小さな衝撃の正体は、 シビアのデコピン。
腰に手をかけて、 生徒に教える先生のように人差し指を立ててシビアは言う。
「そんな呆けていてはいけませんよ? 脱出は失敗してはいけないのですから」
私は、 それに息を一杯に吸い込んで返事をした。
「うん! 」
それに満足そうに一つ頷くとシビアさんは言う。
「さて、 では帰りましょうか」
「えぇ。 ……シビア。 また、 また会えますか? 」
「えぇ、 もちろん」
私の縋るような視線に対し、 シビアは満面の笑みで答えてくれた。
レジャーシートをしまい終えた私たちは帰路に着く。
それから半月後、私は結婚披露宴に出席していた。
前日、フロウがさらに強くなって帰還したのを見た。
披露宴で突然歓声が上がるのがわかった。彼だという事も。
そのタイミングで目立ちたがりのバースが壇上へと上がる。
私は人々の前に立ち、彼の姿を確認した。目があった。そして、反らした。この姿を見てほしくなくて。でも耐えきれずにもう一度視線を送ると、彼は他の女性楽しそうに会話をしていた。
胸が締め付けられる。私以外を見ないでよ。強い感情が心の中を渦巻いている。
本当に彼は助けてくれるのだろうか。
そう言えばシビアの姿が見えない。恐らく段取りを取っているのだ居る。
不安だ。
そんな感情のまま、披露宴は進んでいった。
王である父が話し、次にシャルレイ王子が話をした。そして、彼を読んだ。
近くで久しぶりに見る彼は本当にカッコよくて見つめてしまう。見惚れてしまう。時間を忘れてしまう。
気が付くと話は終わり、彼は壇上から去ろうとしていた。
そう。私には一度も視線をくれなかった。
どうして。こんなのって酷い。私は、耐えきれなかった。
大粒の涙を流しながら、叫んでいた。
彼への思いを。
そして、振り向いた。
英雄で私の王子であるフロウ・グレイシアが。
先ほどよりも強い信念を抱いた目をして。
「助けて。フロウ」